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-前編-
「今夜は冷えるなぁ…」
店内に小さく流れる落ち着いた音楽を聞き流しながら、店主は既に真っ暗になった外をぼんやりと眺めて呟いた。
駅から歩くにはほんの少し遠い、街灯も乏しい側道沿い。そこにぽつんとこの喫茶店はある。
外観は至ってふつうの喫茶店だが、こじんまりとした中に温もりをまとったような、どちらかといえば民家に近いかわいらしい店構えをしていた。
窓を揺するようにしてガタガタと吹きつける冷たい北風に、当店主は小さくため息をこぼした。
現在の時刻は18時をまわる頃。
店の閉店時間は19時。いつもならあと1時間で閉店を迎える予定だ。
冬至も過ぎたばかりですっかり日も暮れたこの時期では、流石にもう客も来ないだろう。
店主である昴(すばる)は、入り口ドアの中央にかけられた営業中を示すプレートを引っ込めようとドアへと近寄った。
すると、思いがけずドアが勢いよく開き、続いて大きな人影が昴の前に現れた。
「う、わ!」
思わず昴は声をあげてしまった。
扉からいきなり人影がヌッと入ってきたように見え、それが自分より頭ひとつ分大きな背丈だったために、昴は一歩、いや半歩後ろに後退って段差に足をとられてしまう。見事に後方へとすっ転んでしまった。
ドタン、と派手に尻もちを突いた。
「いってぇ…」
咄嗟に体をかばったために床で手を突き、昴はついうめき声を漏らしてしまった。客が入ってきたのだとすぐ頭を切り替えはしたものの、突いた手首に走る激痛に血の気が引いて、更に顔をしかめてしまう。
当然のこと相手の客も驚いたのだろう、慌てたように声をあげた。
「だ…大丈夫ですか?」
客は昴を覗き込むようにして片膝をつく。
「あ、ハイ! すみません、入ってこられるのに気づかなくて…」
昴は差し出された手へと縋るように手を伸ばし、体に染み込んだ笑顔でそ手の先にある客を見上げた。が、目を合わせた途端に昴は思わず絶句してしまった。
(なんだ…このやたら顔の良いイケメンは…?!)
テレビか何かに出ている芸能人か?と、見たことのない生命体に出会したかのような感覚だった。もしかしたら昴は、見慣れない整った顔に対してしばらくポーっと見惚れてしまっていたのかもしれない。
「…? 大丈夫か?」
同じ「大丈夫」という言葉でも、後者の言葉は少々訝しんだ様子がとれた。そんな声音に昴は我に返る。
「…は、あぁ、申し訳ございませ…っ痛たた…」
謝りはしたものの、一瞬忘れかけていた痛みに引き戻されて苦笑いを浮かべた。立ち上がって身なりを軽く整えると、どうぞと促し客をテーブル席へと案内した。
ほぼ無意識にお冷やをテーブルへと並べて、やっとのことで自分のペースを取り戻した昴は、今度こそやんわりと目の前の客へと笑顔を向けた。
「先ほどは大変失礼いたしました。今日はずいぶんと冷えますねぇ」
言いながら、熱いおしぼりを客の手へと直接手渡す。
「ご注文はどうされますか?」
「…コーヒーを」
おしぼりを受け取りながらも、客は昴の様子を不思議そうに眺めていた。手を痛そうにしつつも強がって笑っている感が丸出しだったからだろうか。
「あ、定番の豆のほうでいいですね? かしこまりましたぁ」
頷いたのを確認した昴は、ちょっと締まりのない声を残してさっさとカウンターの中へと入っていった。
その客は、席に座っていても存在感があった。
(こういうのをオーラっていうの? わかんないけど…)
カップの準備をしながらも珍しいほどのイケメンを昴はこっそりと観察する。
ラフな格好をしているが、だらしなさは全くみえなかった。若者の街に居そうな今時のスタイルの中に、どこか上品さも持ちあわせている。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーと、アフターです」
よかったらどうぞ、と、少しだけケーキを切り分けてコーヒーのお供に添えた。
客の眉間がピクリと動いたが、「ありがとう」と返されて昴はカウンター内へと引っ込んだ。もしかしたら甘いものが苦手なタイプだったのかもしれない。
そんなことを考えながらそっとカウンター内から客の様子を伺っていた昴は、ふいに顔を上げてこちらを向いた客とがっちり目が合ってしまった。
(やば、見過ぎた…)
今更目を逸らしても返って不自然ではあったが、ニコッと笑いかえしてそそくさと手元の整理をしてみる。
案の定、はぐらかしきれなかったのか、客はテーブル席から立ち上がってこちら側へと近づいてきた。
昴の肩があからさまにビクリと揺れる。
「怪我をしたんだろう? 店に湿布か何か置いてあるのか?」
カウンターを挟んで、客は昴へとそう問いかけた。
「え、ええ。救急箱一式くらいは…」
ちらりと、客のちょうど隣の戸棚を見やった。すると客は、昴の視線を追ってサッとその棚から救急箱を取り出し、湿布を探し出した。
(え? え?)
腕を出すよう指示されて、男は器用にも腫れた左手首へとキレイに湿布を貼り付けた。
(…ここまでする?)
「…ありがとう…ございます」
怯みながらも昴はお礼を口にする。店には昴一人しかいなかったから、気を回してくれたのかもしれない。
そう言いはしたものの、昴は客の行動力に驚きを隠せずにいた。
(今時のイケメンはこんなにスマートな対応をするのか?)
これは性格的にも女子に絶対モテそうだ。
お手本にするべきかなどと腹の中で思っていると、男は言いにくそうにして口を開いた。
「その…悪かった、大事な商売道具なのに」
治るまでしばらく不便だろうと、心配した様子で湿布した手首を見つめる。昴は大丈夫ですからと声をかけたものの、自分のとった行動に気まずくなった様子で男は座っていたテーブル席へと戻っていった。
切り分けたケーキもキレイに食べていた。最後のコーヒーを飲み切ると、男は会計に立ち上がった。
「ありがとうございます」
精算を済ませると、男はごちそうさまと言い残して店を出て行った。
小さな鐘の音を鳴らして閉まったドアを、外の冷たい風がトントンと揺らす。
(なんか…印象深い客だったな…)
貼られた湿布の上から、昴は確かめるように指でなぞった。
今度こそはと慎重に店のドアの前に立つと、内ドアにかかった営業中のプレートを裏返して店を閉めた。
この店の開店は7時である。
昨晩の冷え込みとはうってかわって澄んだ空気を、肺いっぱいに吸い込むようにして昴は店の前で大きく伸びをした。
駅からは少し離れた側道のせいか、この時間帯は人もあまり通らない。全くもって商売には向かない通りである。
こんな店にやって来る客といえば、缶コーヒーでは納得のいかないような豆に多少なりとも拘りを持った輩くらいだろう。自家焙煎で豆だけはこだわって提供しているのがこの店の唯一の自慢といえる。だから値段も妥協していないし、辺鄙な地域にあるわりには強気な商売といえた。
そもそも店は父親の遺産だった。父が亡くなった頃、過去に体を壊して仕事にあぶれていた昴がタイミングよく引き継いだものだ。父親の淹れたコーヒーも大好きだったし、たくさん思い出の残る店を手放したくない気持ちもあった。
朝もやの中、遅い朝日に照らされた店はどこか幻想的で、喫茶店から香る焙煎の香りが非日常的な空間を創り出しているようにも思える。そんな店が昴にはかけがえのない存在となっていた。
「おはようございます」
自分の店を見上げていたその背後から不意に声がかかってふり返ると、そこにはまだ記憶にも新しい昨日会ったばかりの客が立っていた。
「おはようございます…?」
この時もう既に、昴は非日常の世界に突入してしまっていたのかもしれない。
再び突然のイケメンの登場に思考回路が停止してしまいそうになった。
(なんでこんなに朝早く?)
「手の具合はどうですか?」
昨日は一ミリも笑う気配を見せなかった男だったが、今日は少しだけ笑顔を見せて昴の左手へと視線を落とした。
(まさか、心配して?)
「ええ、もう大丈夫です。早々に処置してくださったお陰様で痛みももうすっかり」
昨晩はズキズキと病んだ手首だったが、朝方には痛みも引いて楽になっていた。
「それは良かった。お店はこれから? 入っても?」
「はい、今開けるとこでしたよ。中へどうぞ」
今朝の第一号客を、昴はいつもの笑顔で招き入れる。
一歩店内へと足を踏み入れると、外まで香ったコーヒー豆の香りがより一層引き立った。男の緊張が少なからず緩むのがわかる。
昴は客が同じ非日常の世界に入り込んだ確信を感じて、ひっそりと心の奥で喜びに浸った。美味しいコーヒーを飲んで安らいでもらいたい。
しかし、昴の心とは裏腹に、男はとんでもないことを口走った。
「掃除でも手伝えたらと思って来たんだけど…手伝える事があれば何でも言ってくれないか?」
男は、客として来たわけではなかったらしい。
昴は思わず目を瞬かせた。
「そんな! とんでもない! 大丈夫ですよ!」
(この人、オレに罪悪感とか持ってるの?)
昨日は昴が勝手に驚いて転んだだけの話である。男の身長に怯んだこともあるが、それも自身が臆病故だからだ。何も相手が責任を感じる出来事ではない。
(ひょっとして、自分がすべて悪いって考えちゃう人??)
いやさすがにそこまで弱いタイプには見えないだけど…と、思考をフル回転していると、
「というのは口実で、またここのコーヒーが飲みたくなって来てみたんだ」
今度はちょっとイタズラっぽい顔をして、微笑み返して来た。これで世の女子の、命すら落とせてしまいそうだった。
それだけ惹きつける力を、男の昴でさえ感じたのだ。一瞬、鼓動が増した気さえする。
(誰にかける落とし文句だよ…)
「はは、イケメンにそんなこと言われるとー」
冗談混じりに思っていた言葉がつい口に出てしまっていた。
「僕がイケメンだなんて、あなたの方がよっぽど…まぁいいや。マスター?」
「ハイ?」
マスターと呼ばれて昴は反射的に返事を返すと、コーヒーを下さいとつけ足され、その話はあやふやなまま終わってしまった。
店に並ぶほどの客が来ることはないが、ある程度テーブルが埋まる頃合いを見計らうかのようにして、その男は帰って行った。
彼の言い残した「来てみたくなった」という言葉が、昴の頭からずっと離れずにいる。
嬉しい言葉だった。店主冥利に尽きるといえる。
けれど、ただそれだけじゃないものが昴の心に灯ったような気がしてならなかった。
テーブルに残されたカップを手元の盆へと乗せながら、昴はさっき出て行ったばかりのドアを名残惜しげに眺めていた。
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