ワンマン電車の忘れ物

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 ワンマンの電車が、暗闇が広がる田園の中を走っていました。やがて、電車はとある駅のホームに入っていきました。とびらが開いて乗客の下車を待ちますが、誰も電車から降りる人はいませんでした。  笛が鳴る音と共に、電車のとびらが閉まりました。電車はホームに停車したまま、発車しようとはしませんでした。ここは電車の終着駅で、今日の運行はこれで終わりました。  運転手ががらんとした車内を歩いていました。車内に乗客の忘れ物がないか、ゴミが落ちていないか、見て回っているのでした。運転手は二人掛けの向かい合った座席、座席の下や網棚の上を見ていきました。  運転手はこの鉄道会社に入社して九年目の若者でした。名前は最上純平といい、細身の体形をしています。二階建てのアパートに住んでいて、パート勤めの奥さんと小学三年の娘と暮らしています。  純平は最後尾にある右手の座席を見ました。次に左手の座席に目をやりました。 「んっ!」  純平は思わず声を上げてしまいました。それもそのはず、座席をはさんだ床に、バスタオルを被せた長方形の物を見つけてしまったのでした。純平はしゃがみ込んで、この怪しげな物を凝視しました。  胸ポケットからボールペンを取り出して、恐る恐るバスタオルを下から持ち上げてみました。姿を現した物は、プラスチックのキャリーケースでした。純平は頭を斜めにして、キャリーケースの縦格子越しにのぞき込みました。キャリーケースの暗がりの中に、二つの光るものがありました。 「わんっ」  突然の甲高い音に、純平はびっくりして尻餅を付いてしまいました。その弾みで、手にしていたボールペンを床に落としました。  純平は深呼吸をするとボールペンを拾って、胸ポケットに仕舞いました。今度はバスタオルを手で摘み上げました。車内の明かりで、キャリーケースに入っている物の正体がわかりました。それは、小型犬のマルチーズでした。 「おどかすなよ」  純平がつぶやきました。すくっと立ち上がって、周囲を見渡しました。飼い主を探してみたのですが、見当たりませんでした。 「この電車にはトイレがないから、慌てて駅のトイレにでも駆け込んだのかなぁ。でも、この駅で電車を降りた人なんて、見ていないもんなぁ」  純平は被っていた帽子を取って、頭をごしごしと掻きました。溜息一つ付いて、帽子を被り直しました。 「悩んでいても始まらない。とりあえず、下車しようか」  純平はバスタオルを小脇に抱えて、キャリーケースを持ちました。他に忘れ物がないかを確認しつつ、運転室まで歩いていきました。いったん運転室に入って、車内の明かりを消しました。次に、車外に出て運転室のドアを閉めて、鍵を掛けました。 「ドアよーし、鍵よーし」  純平は運転室のドアを指差し呼称しました。 「それでは、乗り過ごしたお客さん。駅長室までご案内いたします」  純平は犬にいって、駅長室へと向かいました。まずは、駅員に事情を話して、駅構内にアナウンスを流してもらうことにしました。 “キャリーケースを車内にお忘れのお客様、駅長室までお受け取りに来てください”  しばらく経っても、誰も駅長室に来ませんでした。当然、この終着駅で降りた乗客はいなかったのですから。 「困った飼い主さんだねぇ、どうしようか?」  駅長室で待っていた、純平がいいました。犬はキャリーケースの格子から外をうかがっていました。 「一度、ここから出ようか? 狭い所にずっと居るのも大変だろ」  純平は駅員に一言いって、キャリーケースを持って駅舎の外に出ました。駅前はちょっとしたロータリーになっていて、ロータリーの中央に車が停車できる場所が設けられていました。  純平は駅の出入り口から脇にそれて、駅舎の隅に向かいました。駅構内との境目をフェンスで囲っていて、その下は雑草が生えていました。純平はキャリーケースを地面に置いて、とびらを開けました。 「さあ、出ておいで」  純平が優しくいいました。犬は周りをきょろきょろしていましたが、恐る恐る顔を出してきました。地面に一歩足をつけると、キャリーケースに引っ込んでしまいました。 「怖がることは何もないよ。平気だから」  純平は辛抱強く待ちました。キャリーケースの脇にしゃがみ込んで、犬の様子を眺めていました。しばらくして、犬はさっと外に出てきました。  純平は犬に付けられたリードをすばやく取りました。このまま犬に逃げられると、困りますので……  犬はフェンスの草むらに足を上げて、おしっこをしました。長い間同じ姿勢で、用を足していました。 「随分、我慢していたんだなぁ」  純平がささやきました。犬はおしっこを済ませると、すぐに駆け出しました。向かった先は、元居た場所でした。頭からキャリーケースに入っては回れ右をして、奥の方に身をひそめました。キャリーケースの格子から、純平を見つめました。 「そんな狭い所に入っていて、平気なのかい? それとも、狭い所が落ち着くのかな?」  純平は持っていたリードをキャリーケースの中に放り込んで、とびらを閉めました。再びキャリーケースを持って、駅長室へと戻りました。 「飼い主さんが引き取りに来るまで、この犬を預かってくださいね」  純平を待っていた、駅長からの第一声でした。 「はい?」  純平の頭の上で、クエスション・マークが浮かびました。 「だって生き物ですから、誰かが世話をしなくてはいけないわけで。この駅は深夜無人になりますから、犬をこのまま駅に置いておくこともできないでしょう」 「はい」  純平は駅長室に居る人達を見回しました。年配の駅長と、独り暮らしをしている駅員でした。 「だから、最上さんの所で、犬の世話をお願いします」  駅長が再度いってきました。 「そう、ですね」  ここに居る人達の中で純平のみ所帯持ちで、家に妻と娘がいました。 「会社のホームページに忘れ物として載せますから、この犬の写真を取ってきてください」駅長がいいました。「あと、これは餞別。犬のために使ってください」  差し出された封筒を、純平は無意識に受け取りました。 「では、そういうことで。お疲れ様でした」  駅長は踵を返して、駅長室を出ていきました。 「はぁ~」  純平は唖然としました。 「そろそろ駅舎を閉めますが、よろしいでしょうか?」残された駅員が小声でいいました。「近所にあるホームセンターで、犬のエサやトイレなど売っていると思いますから」  純平は口を開き掛けましたが、がくりと頭を垂らしました。ここの所は、駅長の厚意をありがたく頂いて、犬を連れて帰ることにしました。  帰宅途中、ホームセンターに立ち寄って、犬に必要な品々を買いました。駅長から貰った封筒には、一万円札が一枚入っていました。  純平は我が家の玄関ドアを開けました。靴を脱いで、廊下を進んでいきました。リビングへと続くドアを開けました。 「ただいま」 「おかえりなさい」  リビングでテレビを見ていた、娘の若菜が振り返っていいました。 「どうしたの? それっ」  若菜がソファから立ち上がって、純平の元に歩み寄りました。純平は持っていたキャリーケースを少し持ち上げました。若菜はキャリーケースの中をのぞき込みました。 「犬だよね、マルチーズかな? 何で純平くんが犬を連れてきたの?」  若菜が弾んだ声を出しました。 「何、犬だって?」  リビング脇のキッチンに立っていた、母親の佐知子がいいました。 「車内に置き忘れた物なんだ。忘れ物として扱っているけど、何せなま物だから連れて帰ってきた次第なんだよ」  純平が慌てていいました。若菜は再びキャリーケースに目をやりました。犬はキャリーケースの奥に陣取り、周囲をきょろきょろと見回していました。純平はキャリーケースを床に置きました。 「このアパートはペット飼育禁止なんだけど、明日会社に連れていくの?」  佐知子が純平の元に寄りました。 「……わかっているよ、だから今夜だけな」  純平が渋々いいました。 「それならいいけど」佐知子はキャリーケースをのぞき込みました。「貴方もおとなしく、静かにしていてね」 「片隅の方でオドオドしているよ、お母さん」  若菜が佐知子にいいました。 「とにかく、キャリーケースから出してみよう」  純平がキャリーケースのとびらを開けてみました。二、三歩下がって様子をうかがいました。母娘も遠巻きに眺めました。しかし、いっこうに犬が外に出てくる気配はありませんでした。 「まあ、仕方ない。食事とかトイレの準備をして、生活できる環境をまずは整えよう。全て見慣れない場所だから、落ち着くまで時間が掛かるだろう」  純平は腰に手を当てていいました。 「リビング入り口のドアの横にキャリーケースを、お水と食事用のお皿、そしてトイレトレイをそばに置きましょう」  佐知子がリビングの空いたスペースを指差しました。 「そうだね、俺達がそばに居ない方がいいよな。だけど、俺達の目が届く範囲に置いておきたいしなぁ」  純平は犬が入ったキャリーケースを持って、リビングの隅に移動しました。 「私は夕食の仕度をしているから、純平くんが犬の面倒をみてちょうだい。若菜も手伝ってあげてね」 「はーい」  若菜が明るく答えました。 「犬用に買ってきた物が車に乗っているから、まずは取りに行こう」  純平は娘にいって、一緒にリビングを出ていきました。再度戻って来た時には、梱包箱に入ったトイレトレイにトイレシートの袋、ドライのドッグフードの袋を持ってきました。その他、手提げ袋の中には、犬用のおやつがありました。 「トイレの用意をするから、若菜はトイレシートを袋から出しておいてくれ」  純平はリビング中央で、梱包箱からトイレトレイを取り出しました。若菜がトイレシートを一枚手渡しました。 「ありがとう」  純平はトイレトレイにシートをセットし、キャリーケースの横に置きました。 「はい、お水」  若菜が水を入れたお皿を持ってきて、開いたキャリーケースの前に置きました。 「ご飯は何時ごろあげるの?」  若菜が聞きました。 「昔飼っていた犬には、朝夕の二回ご飯をあげていたから、もう夕ご飯をあげてもいいんじゃない」 「どのくらいあげればいいの?」  若菜がドッグフードの袋を手に取っていいました。 「どうだろうか? ちょっと見せて」  純平が袋を受け取って、眺め回しました。 「ここに体重ごとの食事量が記載されているから、その通りにあげればいいよ」  純平が若菜に袋を返しました。 「それじゃあ、この犬の体重は何キロあるの?」 「さあ、どうだろうか」純平は悩みました。「三キロ、いや四キロぐらいかな」 「とりあえず、適当にあげてみたら。量が多ければ残すし、もし少なければ完食するし。完食した後まだ催促していたら、追加でドッグフードをあげればいいし」佐知子がキッチンでいいました。「環境が変わって、全然食べないかもしれないしね」 「それもそうだ」 「わかった」  若菜がドッグフードをお皿に盛りました。 「どうぞ、召し上がれ」  若菜がそういって、お水のお皿の隣に置きました。 「後は、そっとしておこう」  純平がいいました。純平と若菜は夕飯が出来るまで、テレビを見ることにしました。視線はテレビの方を向いていますが、意識はキャリーケースにありました。 「若菜、ちょっと手伝って」佐知子が呼びました。「おかずをテーブルに運んでちょうだい」  若菜はちらっとキャリーケースを見てから、キッチンへと向かいました。 「純平くんはご飯をよそって」 「ああ」  純平もソファから立ち上がって、食卓に行きました。若菜がキッチンと食卓を往復して、おかずが盛られたお皿を運びました。純平は食卓に置かれたお茶碗にご飯をよそいました。佐知子が味噌汁を食卓に運んで、夕飯の準備が整いました。 「じゃあ、食べようか」  みんなで食卓につきました。純平は早速箸でおかずを摘みました。 「ペットの犬を電車に置き忘れるなんて、飼い主さんもとんだおっちょこちょいよねぇ」若菜がいいました。「忘れ物の問い合わせがあるといいね」  純平と佐知子が箸を止めました。 「飼い主が本当に引き取りに来てくれればいいよね」佐知子がいいました。「それじゃなければ、飼い主探しをしないといけなくなるし」 「飼い主から連絡があったら、こちらに電話してもらうようにはしてあるけど……今だ、連絡は入っていない」純平がいいました。「明日、この犬とこの犬の所持品を写真に撮って、会社のホームページに載せてみるよ。何かの手掛かりになるかもしれないし」 「この時間になっても連絡がないっていうことは、飼い主が車内にわざと置いていった可能性もあるんでしょ」  佐知子がいいました。純平は口をつぐみました。若菜は両親を交互に見ました。 「明日この犬を会社に連れていったとして、また連れて帰ってくるんでしょ」  佐知子が純平を見つめながらいいました。 「会社の誰かがこの犬の世話をしてくれるのであれば、その人に預けるけど……」  純平の言葉は尻つぼみになりました。 「こうなることがわかっていて、犬を連れてきたんでしょ」  純平の目は泳いでいました。佐知子がぽつりと溜息を付きました。 「仕方ないわね。犬の面倒は私と若菜でみるから、アパートの大家さんへは事情を話しておいてね」 「ありがとう」  純平は両手を合わせました。 「さあ、冷めないうちに料理を頂きましょう」  佐知子はみんなに食事を促しました。  夕飯を食べ終えて、リビングのソファに座ってテレビを見ている時も、犬はキャリーケースから出てきませんでした。お風呂に入って就寝する時も、やはり犬はキャリーケースから出てきませんでした。  結局その日の夜は、犬はキャリーケースから出てきませんでした。 「昨日のご飯全部食べたし、おしっこもしていたよ」  朝起きてきた純平に、若菜がいいました。 「それはよかった」  純平がリビングの片隅に置かれた、キャリーケースに目を向けました。 「朝ご飯新しいのを作って、お水もトイレシートも替えておいたから」若菜が口をすぼめました。「でも、まだキャリーケースから出てこないよ」 「まだ、この環境に慣れていないからね」  若菜がキャリーケースを真近で眺めました。 「早くお外に出てこないかなぁ、この子と遊びたいのにぃ」 「若菜がちゃんと犬の面倒をみてくれれば、いつかはキャリーケースから出てくるようになるよ」  純平は食卓につきました。食卓の上には、朝食が並べられていました。 「気長に待つしかないでしょ。言葉が通じればすぐにわかるけど、こればかりは仕方ないことだからね」キッチンに立つ佐知子がいいました。「若菜、早くご飯を食べないと、学校に遅刻しちゃうよ」 「はーい」  若菜も食卓について、朝ご飯を食べ始めました。  その日の午前中に、純平の携帯電話に佐知子からのメールが届いていました。休憩時間にメールを開くと、添付ファイルが付いていました。斜め前から撮った犬の全身と、犬が入っていたキャリーケースとその下に敷いてあったタオルの写真でした。  メールの本文には、タオルに“サクラ”という名前がマジックで書かれていたとありました。 「とりあえず、忘れ物情報として追加しておこう」  昼食のお弁当をつつきながら、純平はパソコンとにらめっこしました。 「まだ、飼い主さんは現れないのですか?」  駅長が聞いてきました。 「はい。犬の所持品に“サクラ”という文字が書かれていたので、もしかして犬の名前かもしれませんが、それ以外は何もわかっていません」  純平が勢い込んでいいました。 「困った飼い主さんですねぇ」 「はあ」  純平は苦笑しました。 「このまま飼い主さんが見つからなかったら、若菜ちゃんがお家で飼いたいとか言い出さないかな?」 「うちはペット飼育不可のアパートですから、それはないでしょう。一時的に忘れ物の犬を預かることは、大家さんに話して了解は頂いていますが」 「その飼い主さんがどの駅から電車に乗ったのかがわかれば、探しようもあるんでしょうけど」 「そうですね」  純平も相槌を打ちました。  仕事を終えた純平が、アパートに帰ってきました。玄関口の廊下を歩いて、リビングへ向かいました。ドアを開けると、リビングに若菜と佐知子がいました。 「ただいま」 「あっ、おかえりなさい」  純平に気付いて、二人がいいました。若菜がリビングの床に座り込んで、そばで寝そべっている犬のお腹を撫でていました。その隣では、佐知子が見守っていました。 「ほ~、やっとキャリーケースから出てきてくれたんだ」  純平が遠巻きに眺めました。 「今日の昼過ぎだったかなぁ。私がソファに座ってテレビを見ていると、ご飯を食べに出てきて、おしっことうんちをして」佐知子がいいました。「それから部屋中をうろうろして、しまいにはソファの上に上がってきたの。私はただ隣に座っていただけなんだけど」 「私が学校から帰ってきたら、慌ててキャリーケースに戻ったようなんだけど、おやつを見せたらお外に出てきてくれたの」  若菜がうれしそうにいいました。 「ここの環境に慣れてくれたのかな?」  純平が聞いてきました。 「それはわからないけど、いい状況にはなっていると思う」  佐知子がいいました。 「いいねぇ」  純平は犬の視界に入らないように迂回して、リビングのソファに腰を下ろしました。 「メールありがとう。犬の写真を会社のホームページに載せたよ」 「まあ、飼い主が早く見つかってくれればいいからね」 「飼い主が名乗り出てくれれば助かるんだけどなぁ。会社の方でも飼い主探しをしているんだけど、わからないんだよね。どの駅から乗車したのかが」  純平が頭の後ろで手を組みながらいいました。 「どういうこと?」  佐知子がそっと動いて、純平の隣に座りました。 「切符の発券機とか改札口とかに、防犯カメラが設置されているんだけど、電車の運行ルートにある駅の映像を確認してもらった結果、キャリーケースやそれと同じくらいの大きさの荷物を持って、改札口を通った人はいなかったらしいんだよ」 「ふーん、純平くんが運転する電車には乗車はしたけど、どの駅からも入場していないってこと? 改札口を通らずに、電車に乗ったということ?」 「まあ、駅近辺の踏み切りから線路を伝って、もしくは駅構内のフェンスをよじ登って、ホームにたどり着くことはできるけど、そこまでするかなぁって思うんだ」 「もし、犬を置き去りにしたいのであれば、電車内以外のどこにでもキャリーケースを放置すればいいことだしね」  佐知子が口元に握りこぶしを当てていいました。 「だから衝動的というか突発的というか、何らかの事情があって電車に置いたっていう感じがするんだ」  純平が肩をすくめてしまいました。 「それじゃあ、この犬は当分家で飼うの?」  若菜が身を乗り出して聞いてきました。犬は体を丸めていました。 「それはわからないよ……アパートの大家さんとの話もあるから、犬のためにここを引越しするのも、変な話だしね」 「とにかく、飼い主と連絡が取れないと、事は始まらないよね」佐知子がいいました。「飼い犬は年に一回狂犬病の予防注射をするよね。それと役場の保健所への届けとか、動物病院のお世話になったこともあるでしょ」 「役場に行ってみても、動物病院を当たってみても、たぶんわからないんじゃないかな。もし、犬のことはわかったとしても、飼い主については個人情報だから、他人には教えてくれないよ」 「そうかもね」佐知子も仕方なく頷きました。「だけど、その飼い主とは、役場なり動物病院の方で連絡を付けてくれるんじゃない?」 「じゃあ、犬を連れていく動物病院の方に、協力を仰いでみようか」  純平がいいました。 「お父さんが動物病院をやっている友達が学校にいるよ」  若菜がいってきました。 「その友達に、うちの会社のホームページを教えてあげて。忘れ物情報にこの犬の写真とか載せているから、お父さんに見てもらうよう頼んでみてよ」 「はーい」  若菜が手を上げていいました。 「人事を尽くして天命を待つかな」純平が犬にいいました。「早く飼い主さんに会えるといいな。なぁ、サクラ」 「あー、この犬の名前、サクラではないみたい」  佐知子が遠慮がちにいいました。 「違うんだ」純平が聞いてきました。「でも、タオルには書いてあったんだろ」 「サクラ、サクラ」  若菜が犬に呼び掛けてみました。犬は尻尾で顔を隠したまま、見向きもしませんでした。 「ほらね」  佐知子がいいました。 「思い付いたいろんな名前で呼んでみたけど、全然反応しなかったよ」若菜がいいました。「しまいには、インターネットで犬の名前ランキングを調べて、載っている名前の全てを言っても駄目だった」 「うーん、難しいなぁ」  純平は腕組みをしました。 「そうなんだよ、純平くん」  若菜も習って、腕組みをしました。若菜は父親を名前で呼びます。これは、佐知子が呼んでいるのを真似てですが、学校の先輩だった彼女がずーっと使用していた言葉でした。  それから数日後の間、犬の面倒は若菜と佐知子がみました。朝の食事と散歩は佐知子が、夜の食事と散歩は若菜が受け持ちました。  犬はお手やお回りなどの芸はできませんでしたが、若菜とのタオルの引張りっこはしました。おやつや食事を貰う時には、尻尾を振って待っていました。若菜に体中撫でられても、おとなしくしていました。  相変わらず、犬の名前はわかりませんでした。 「今のところ、うちの会社への連絡はないんだけど、動物病院からの連絡もないんだよねぇ」  純平が家に帰ってくるなりいいました。 「そうなのよ」  佐知子がいいました。若菜はソファの上に乗って、テレビを見ていました。その隣で、犬が横になっていました。 「このまま飼い主が見つからない場合は、会社の規約に則り」  純平はいったん口を閉じました。若菜が純平を見ました。純平は咳払いをしました。 「えー、規約に則り……あと、何だったかなぁ。忘れた」純平は頭の後ろに手をやりました。「自分の業務とは無縁だから、忘れてしまった」 「はい?」  佐知子が呆れ顔でいいました。若菜が声を上げて笑いました。純平は苦笑しました。  また、数日が経ちました。純平が帰宅すると、若菜と佐知子がリビングにある、パソコンの画面を眺めていました。 「ただいま」  純平がいいました。 「おかえりなさい」  若菜が振り返って、視線を再び戻しました。佐知子はパソコンの画面を見つめたままでした。 「二人そろって、パソコン見つめて何やってるの?」  純平が好奇心の面持ちで、二人に近づきました。 「もしかすると、犬の名前や住んでいた場所がわかるかもしれないの」  佐知子がいいました。 「それはすごい事だぞ」純平がうれしそうにいいました。「でも、どうやって調べたんだい?」 「若菜が使っている“こどもネット”に、『この犬の飼い主さんを探しています』って投稿したのよ。そうしたら、ある小学生から返信がきたの」 「へ~」 「私が勉強でわからないことがあると、“こどもネット”に質問するの。すると、その解答と解説をしてくれるんだ。いろんな小学生がこのネットを利用しているから、もしかしたらと思って、犬の情報提供をお願いしたの」  若菜が得意げに話しました。 「この子の情報によると、近所のおばあちゃんが飼っていた犬を、最近見掛けなくなったんだって。何でもそのおばあちゃんが亡くなって、飼っていた犬がその後どうなったのか気になっていたんだって」 「おばあちゃんの家族が、犬を引き取ったというのが普通だろうな」純平がいいました。「でも、犬なんてみんな似たようなもんだろ。本当にその犬かどうかって、どうやって判断するんだ?」 「犬種が同じであれば、毛の色や顔つき体格も似たような犬はいっぱいいるけど、この子は決め手となる情報を載せているのよ」  佐知子が純平を振り返っていいました。 「それは、期待が持てそうだね」 「その亡くなったおばあちゃんの名前が、サクラさんなんだって。あのタオルに書かれていた名前がそう。それと、この犬の名前が」  佐知子が言い止めて、ソファの下でくつろいでいる犬に目を向けました。つられて、純平もそちらを見ました。 「キャンドュ」  佐知子が呼びました。すると、犬が顔を上げて、彼女を見つめました。 「ほう」  純平は感銘の声を上げました。 「直訳すると“することができる”なんだけど、サクラさんが付けた名前よ。キャンドュ」  佐知子がいいました。犬は立ち上がりました。 「でも、それだけでは、確信はいまいちだなぁ」  純平は腕組みをしながらいいました。佐知子は笑顔を見せて、今度は若菜にいいました。 「おやつを犬にあげてみて。決定的証拠を示してあげて」 「はーい」  若菜はキッチン棚の上に置いた、犬のおやつを取りに行きました。おやつを袋から取り出す音で、犬は両耳をそば立てました。  若菜は両親のそばに戻ってきて、犬におやつを見せました。犬はすぐに若菜の足元にやって来ました。若菜は膝を床につきました。 「それじゃあ、始めるよ。キャンドュ、お回り」  若菜が手で輪を描きました。犬は動きませんでした。 「お座り」  犬は立ったままでした。若菜は空いた手を差し出しました。 「お手」  犬は若菜の手に鼻を近づけて、匂いを嗅いだだけでした。 「することができる。実際には、やっぱり無理かな」  純平がつぶやきました。若菜が純平をちらっと見て、口元を緩ませました。そして、おやつを持っていた手を、犬に向けました。犬は若菜の手に、顔を上げていきました。 「待てっ!」  若菜が鋭い口調でいいました。犬は顔を引いて、床に伏せました。視線はおやつに向いていますが、おやつを口にすることを止めました。若菜は十秒くらい待ってからいいました。 「よしっ!」  犬はすくっと立ち上がって、若菜の手からおやつを食べました。 「おお~」  純平は拍手しました。 「いい子、いい子」  若菜が犬の頭を撫でました。 「サクラさんは捨てられていた犬を家で飼い始めたんだけど、成犬だったから芸を覚えられなかったみたい。だけど、トイレと待てだけは、教えられたらしいの」 「ふーん、室内犬であれば、トイレシートの上で用を済ませて欲しいよなぁ。所構わずおしっこをされると、大変だしなぁ」 「そうなのよ。後は待てだけど……どういう時に、犬に待てを指示すると思う?」  佐知子が聞いてきました。 「それはやっぱり、おやつをあげる時の芸の一つとして。それと、何か危ないことをしそうな時とか、危険な状況になった時、動きを止めたい場合に待てをさせるよねぇ」 「この犬は性格がおとなしいようだから、散歩中の信号待ちとか他の犬とすれ違う時とかに、待たせることがあるかも」 「家の中よりも、家の外での犬の行動を止めていたのか。老人が犬の散歩をする場合には、それも必要かな」 「そこでこの犬は、キャンドュっていうことになるの」佐知子が犬にいいました。「ねぇ、キャンドュ」 「わんっ」  犬は自分の名前が呼ばれて、一鳴きしました。 「“こどもネット”を利用して、情報を提供してくれた子に、亡くなったおばあちゃんとその家族について、もっと詳しく教えてもらえればいいなぁって思っているの」 「すごいな、“こどもネット”というのは」  純平が素直にいいました。 「私もパソコンでゲームばかりしているんじゃなくて、たまには役に立つのよ」  若菜が胸を張っていいました。 「パソコンは勉強のためだけに、利用してくれればいいのよ」  佐知子がさとしました。 「まあ、今回は大いに助かったよ。これで犬を飼い主に引き取ってもらえるんだったら、この問題は解決するしな」 「えー、キャンドュと別れるのは、嫌だなぁ」  若菜が口を尖らせていいました。 「犬を元の飼い主に手渡すのが使命だからな。それに最初に話した様に、このアパートでは犬は飼えないんだ」  純平はいいました。それでも、若菜は首を横に振っていました。 「だって、飼っていたのはおばあちゃんだけど、一度家族の人がキャンドュを引き取ったんでしょ。だけど、電車に置いたまま名乗り出ないんじゃあ、次にキャンドュを渡したとしても、ちゃんと世話してくれるかどうかわからないんじゃない」  純平の頭の片隅に置いておいた不安を、若菜が口にしました。 「そうかもしれないけど、規則なんだよ。会社の規則、アパートの規則、そして我が家の規則」 「規則は破るためにあるの」  若菜がいいました。 「規則は守るためにある。でないと、みんな仲良く暮らせないだろ」  純平が父親面していいました。 「いざという時には、破っても仕方ないの」  若菜は涙目でいいました。 「はいはい」佐知子が手を叩きました。「二人ともキャンドュのことを思ってくれているようだけど、家の中では喧嘩は止めてちょうだい」  純平達は佐知子に目を向けました。彼女は椅子から立ち上がって、キッチンへと歩いていきました。 「キャンドュのことは実際のところ、今の飼い主に会って話をしてみないとわからないし、前向きな問題解決に頭を悩ませるのはいいけど、ひとまずは夕飯を取りましょう。ねぇ!」 「それもそうだな」  純平は食卓の椅子に座りました。 「若菜はキャンドュにご飯をあげて」  佐知子がいいました。 「はーい」  若菜もキッチンへ行きました。佐知子は出来立てのおかずを食卓に運びました。若菜はドッグフードの袋を手にしました。夕飯を準備する音を聞きつけて、犬が若菜の足元まで来ました。 「もう少し待ってて」  若菜が犬にいって、お皿にドッグフードを盛りました。若菜はお皿を持って、リビングに向かいました。犬も後に連いていきました。 「純平くん、ちょっと見ててね」  若菜が純平にいいました。純平は椅子に座ったまま、体の向きを変えました。 「何があるんだい」  若菜が手で制して、犬の前にお皿を置きました。 「待てっ!」  犬は床に伏せをして、尻尾を振っていました。 「よしっ!」  若菜はお皿を指差していいました。犬は若菜を見上げました。 「キャンドュ、よしっ!」  若菜が声を高めていいました。犬は彼女を見上げたままでした。 「どうしたんだろう」  若菜は不思議に思いました。 「今は食べたくないんだろう」  純平がいいました。 「食べる気満々で、そうは見えないんだけど。本当にどうしちゃたんだろう」  若菜はしゃがみ込んで、犬の背中を撫でました。犬はお皿を見つめていました。 「食べていいんだよ、キャンドュ」  それでも、犬はドッグフードを口にしようとはしませんでした。 「うーん、何か変」 「よし、こっちも夕飯を食べよう。犬もそのうち食べるさ」  純平は食卓に並べられたおかずを見回していました。 「若菜も、こっちに来て」  椅子に座った佐知子がいいました。 「うん」  若菜は渋々食卓につきました。犬は若菜を目で追いました。若菜は箸を取っては味噌汁を一口飲んで、おかずを摘みました。口をあんぐりと開けて、ふと犬に目をやりました。  犬は彼女を見つめていました。若菜は箸を置いて、首を傾げました。純平は若菜の動きに気付いて、彼女の視線の先にある犬を返り見ました。 「いただきます」  若菜は両手を合わせていいました。 「えっ、えー」  純平が素っ頓狂な声を上げました。犬がドッグフードを食べ始めたのでした。純平は犬と娘を交互に見ました。 「私の“いただきます”という言葉に反応したのかな?」  若菜が再び箸を手にしました。 「それはないんじゃない、たまたまだよ」 「だって、私がおかずを食べようとした時、キャンドュはこちらを見つめていただけだもん。それから“いただきます”って言ったら、ドッグフードを食べ始めたよ」 「犬を飼っていたサクラさんも、キャンドュと食事をする時に、一緒に“いただきます”をしていたかもしれないね」佐知子がいいました。「キャンドュに待てをさせておいて、その解除の言葉が“よしっ”ではなくて“いただきます”だったのかも」 「どうかなぁ」  純平がつぶやきました。 「独り暮らしだったおばあちゃんが、寂しさを紛らわすために捨て犬を引き取って、ご飯を一緒に食べる。犬もそれに従って、おばあちゃんと一緒にご飯を食べる。そのために、おばあちゃんは“待てっ”を教え込んだとか」 「どうだろうか?」  純平は佐知子の推測に半信半疑でした。純平達が見守る中、犬は黙々とドッグフードを食べていました。  キャンドュという名前の犬を飼っていたおばあちゃん、サクラさんのことがわかって、住んでいた場所もわかりました。また、犬を引き取ったと思われる、おばあちゃんの娘の名前とおおよその住所もわかりました。“こどもネット”で情報を提供してくれた、子供から教えてもらったことでした。 「まさに、灯台下暗しだね。こんな近所に住んでいたなんて」  純平がリビングのソファでくつろいでいました。 「私も、キャンドュのことを教えてくれた子が、隣のクラスの女の子とは思わなかった」  若菜がソファの下で体を丸めて寝ている、犬の横に座っていました。 「だから、電車が走る路線の駅に取り付けられた、防犯カメラの映像を調べても、キャリーケースを運ぶ人がいなかったんだよ。当然、途中の駅のカメラには映っていないからね」  純平が溜息混じりにいいました。 「たぶん、ここの始発駅から上りの電車に乗って、途中の単線で往来待ちしていた下りの電車に犬を乗せたんでしょ。そして、キャリーケースをそのまま置いて、自分は再度上りの電車で行ってしまったと」  佐知子がいいました。 「ちょうど、発車時刻が同じ電車はいくつかあるからね。時間調整を含めると、反対方向に行く電車に荷物を置くことは可能だと思うよ」  純平がいいました。今日は、純平は休暇で一日中家にいました。  リビングに置かれた固定電話が鳴りました。 「待ちに待った電話ならいいけど」  純平が立ち上がっていいました。佐知子と若菜が、純平を見つめました。純平は電話機の前で一呼吸置いてから、受話器を取りました。 「はい。――初めまして。私、鉄道会社に勤めています、最上純平と申します。高村サクラさんが飼っていた犬、キャンドュを預かっている者です。――」  純平は用件を話しました。佐知子と若菜はじっとしていて、純平の会話に耳を澄まして聞いていました。  ワンマンの電車が終着駅に入線してきました。とびらが開いて、一人の乗客が電車から降りてきました。ホームに立つと、太陽の強い日差しに目を細めました。改札口へと重い足取りで歩いていきました。  駅舎の出入り口に出ると、すぐにわかりました。 「こんにちは。私、最上純平と申します。高村サクラさんの娘さんでいらっしゃいますか?」  駅前のロータリーに停車した車のそばにいた、若者が話し掛けてきました。 「はい、私が高村美香子と申します。今は山川の姓ですが」  駅から出てきた女性がお辞儀をしました。純平もつられて頭を下げました。 「わざわざお呼びして、すみませんでした。でも、早急に解決したい件でしたので」 「そうですよね。今後のこともありますから、問題ないです。かえって、私の都合に合わせて頂いて、申し訳ありませんでした」 「いいえ、こちらこそ大丈夫です」純平は車を指していいました。「それじゃあ、行きましょうか」 「はい」  純平が助手席のドアを開けました。 「こんにちは」  後部座席から、声がしました。 「娘の若菜です。どうしても一緒に行きたいと言っていたので、乗せてきました」  純平が頭に手をやっていいました。 「こんにちは」高村が会釈をしました。「失礼します」  高村が助手席に座ると、純平がドアをそっと閉めました。高村は若菜の隣に、キャリーケースが置いてあるのに気付きました。 「ごめんなさい」  高村がうつむいて、思わずつぶやきました。純平が運転席に座って、車のエンジンを掛けました。 「それでは、行きますよ」 「はい」  高村が頷きました。純平は駅舎の方に一礼してから、車を発進させました。若菜はキャリーケースに手を添えて、真っ直ぐ進行方向を見つめていました。  車は五分程度で、目的地に着きました。通りから脇に入った、庭付き一戸建ての家でした。門の表札には、『高村』とありました。  純平は玄関横の庭に車を止めました。高村は車から降りて、玄関へと向かいました。若菜は後部座席のドアを開けて、車の外に出ました。反対側に移動して、車の中からキャリーケースを持ち出しました。  高村が玄関のドアを開けていいました。 「換気のため窓を開けますので、ちょっと外で待っていてください」 「わかりました」  純平が返事しました。若菜は目前の家を眺めました。おばあちゃんが住んでいた家だったので、古風な木造建ての家かと思っていましたが、鉄筋コンクリートの平屋建ての家でした。 「わんっ!」  キャリーケースに入っていた、犬が鳴きました。若菜がしゃがみ込んでキャリーケースを見ると、犬が舌を出しながら激しく尻尾を振っていました。 「ここが自分の家だって、わかるんだ」  若菜がいいました。高村が家の中に入っては玄関脇の雨戸を開けて、窓も全開して回りました。 「どうぞ、中に入ってください」  高村が玄関越しにいいました。 「それじゃあ、お邪魔します」  純平が玄関に入っていきました。続いて、若菜もキャリーケースを持っていきました。 「こちらでお待ちください」  高村が玄関左手の六畳間の和室を示しました。 「はい」  純平は部屋の中央に置かれた、座卓の前に座りました。若菜も純平の隣にちょこんと座って、その横にキャリーケースを置きました。高村はいったん奥の方に行きました。  通された六畳間は、片隅にテレビ、その反対側の隅にタンスがありました。押入れの反対側はふすまがあり、奥の部屋へと続いていました。外観に似合わず、和風な間取りでした。 「わんっ、わんっ!」  犬が鳴きました。 「キャンドュ、シイー。おとなしくしていて」  若菜が人差し指を口元に当てて、キャリーケースをのぞき込みました。犬はキャリーケースのとびらを前足でかりかりして、鳴き止むことはありませんでした。 「普段は静かなのに、いったいどうしたんだろう。若菜、外で待ってるか?」  純平がいいました。 「犬をキャリーケースから出しても、大丈夫ですよ」高村が部屋に戻ってきました。「たぶん、外に出たいんでしょう。お家に帰ってきて、うれしいんでしょう」  高村は持ってきたお盆を座卓の上に置いて、純平の向かい側に座りました。 「はい」  若菜は早速、キャリーケースのとびらを開けました。犬はキャリーケースから飛び出ると、部屋の中を駆けずり回りました。  高村はお盆に載せたお茶とお菓子が入ったカゴを、純平達の前に移しました。 「まだ、電気と水道は通しているんですよ。片付けも終わっていませんし」 「大変ですね」  純平達は犬の行動を見守っていました。犬は走るのを止めて、高村の隣の座椅子に歩み寄りました。座椅子の上にぴょんと乗って、座布団に体を丸めました。 「この椅子は、母がいつも座っていたもので、ここでテレビを見ていたんですよ」  高村が犬に目を落としながらいいました。 「わかっているんですね」  純平がいいました。 「母は大層可愛がっていました」高村はいいました。「犬にキャンドュという名前を付けて、成犬なのに芸を覚えさせようとしたんですよ。母は“やればできる”と思っていましたが、お手とかお回りとか全然芸はできないんですよ」 「そんなことはないです」  話を聞いていた若菜が、身を乗り出していいました。高村は少々驚いた様子で、若菜に目を向けました。 「キャンドュは“待て”が出来ます。これは、おばあちゃんが教えた芸です」  若菜が笑顔でいいました。 「そうでしたか……キャンドュは“やればできる”犬だったんですね」  高村は目を細めていいました。 「はい」  若菜が頷きました。純平も笑みを浮かべました。高村が身を正して、純平を真顔で見ました。 「母が飼っていた犬を電車に置き去りにして、大変申し訳ありませんでした」  高村は深々と頭を下げました。 「その件につきましては、連絡がなかったので心配していましたが、何とかお会いすることができてほっとしています」  純平はいいました。結局、純平は亡くなったおばあちゃんの葬儀を取り持った葬儀屋やお寺さんを介して、高村から連絡をもらった次第でした。 「電話でもお話ししましたように、私の夫が強度の犬アレルギーでして、この犬を飼うことは無理なんです」高村がいいました。「あの日だって犬を連れ出したのはいいものの、どうしたらいいのかわからずに、キャリーケースを反対側の電車に乗せたんです。せめて、最寄り駅近くの人が拾って、そして飼ってくれることを願って」 「まあ、そういう考え方もありますね」  純平は息を吐きました。 「母が飼っていた犬ですので、保健所に持っていくのも可哀想ですし。早急に解決したいと思っていたのですが、ずるずると日にちだけが経ってしまいました」 「今は一時的に犬を預かっていますが、ペット飼育不可のアパートに住んでいるので、私達はもちろんですが、大家さんも困っているのですよ」 「そうですよねぇ」  高村がほほに手を当ててつぶやきました。純平は出されたお茶を一口飲みました。 「どうしたらいいんでしょう」  高村は本当に困っていました。純平は若菜の方をちらっと見てから、話を切り出しました。 「そこで物は相談ですが、うちの娘がとてもキャンドュのことが気に入りまして、どうしても飼いたいって言って聞かないんですよ」 「……」  高村は純平の話を聞いていました。 「この犬をうちに譲って頂けないでしょうか?」  純平が頭を下げました。 「でも、お住まいのアパートでは、ペットを飼ってはいけないんでしょ」 「この娘も大きくなって、今住んでいるアパートでは間取りが手狭状態なんですよ。だからこれを機会に、新しい住み家を探そうかと思っていまして」 「それは大いに助かりますが」高村は戸惑っていました。「でも一概に引越しすると言っても、お金がだいぶ掛かってしまうのではないですか」 「それが悩みの種です」  純平が苦笑いしました。 「押し付けがましくて、誠に申し訳ありませんが……」  高村が口をつぐみました。 「はい?」  純平が首を傾げました。高村は上目遣いでいいました。 「もしよろしければ、この家に引越しして頂くことは可能でしょうか?」  純平は黙って、若菜に目をやりました。彼女も純平を見ていました。 「今すぐに良い返事が頂けるとは思っていませんが、考えて頂けると助かります。それと言いますのも、私は別の場所に住んでいますので、この家を処分するのに困っていて、近所の不動屋さんに相談している次第です」 「はあ」  純平は気のない返事をしました。 「当然、今ある母の家財は引き払って、家のリフォーム後にお渡しするかと思います」 「この場で返事することはできませんが、家に帰って家内とも相談してみます」  純平はそう答えました。高村はお茶を口にしました。高村は胸のつかえが下りたような、和らいだ気分になりました。結果はどうあれ、良い方向に進んでいると感じたからでした。  その後、純平と若菜は高村の立会いの下、家の中を見て回りました。今住んでいるアパートよりも部屋数が多いし、広さもたっぷりありました。家を建て替えてから余り年数も経ってないし、家をリフォームすれば十分住めることもわかりました。 「それでは、帰りましょうか」高村がいいました。「この犬の件、本当にありがとうございます」 「いいえ、こちらこそ」純平は手を振りました。「駅まで送りますよ。そして、犬の忘れ物が解決したことを伝えなくっちゃ」 「ここを片付けますから、少し待っていてください」  高村は出していたお茶などを片付け始めました。 「キャンドュをキャリーケースに戻して」  純平が若菜にいいました。 「はーい」  若菜が立ち上がりました。犬はおばあちゃんが座っていた座椅子の上に、ずーっといました。若菜が犬の隣でキャリーケースのとびらを開けました。 「キャンドュ、お家に帰るよ」  若菜が犬のリードを引っ張りました。犬は座布団に伏せをしたまま、がんと動こうとはしませんでした。 「帰りたくないって言ってるよ」  若菜が純平にいいました。 「仕方ないなぁ」  純平がつぶやきました。 「キャンドュ、散歩行こうか?」若菜がキャリーケースを手に持っていいました。「さあ、お家の周りを散歩しよう」  犬はゆっくりと立ち上がりました。若菜は犬を促して、玄関口まで行きました。 「外で待っているからね」  若菜が靴を履きながらいいました。 「うん、わかった。後で行くから」  純平が答えました。しばらくして、高村が戻ってきました。 「高村さん」待っていた純平がいいました。「持ち帰りたい物があるのですが、ちょっといいですか?」  高村を駅まで送って、純平達は我が家へと向かいました。後部座席には若菜が座り、その隣にキャリーケースが置かれていました。キャリーケースの横には、先程譲ってもらった、おばあちゃんの座布団がありました。 「純平くん、本当にキャンドュを飼っていいの?」若菜が聞いてきました。「それに引越しするのに、お金が掛かってしまうでしょ」 「だって、若菜がキャンドュと離れ離れになるのが寂しそうだったから、仕方ないよ」  純平が答えました。 「それはそうだけど、あの人がキャンドュを引き取るって言ったら、仕方なく手放したけど」 「まあ、キャンドュを引き取る気があれば、早々に名乗り出ているよ。だけど、引き取れない理由があったから、そのままにしていたんだろ。おばあちゃんが飼っていたけど、どう扱ったらいいのかわからなかったんだ」 「何にせよ、キャンドュが可哀想だね」 「ペットを飼うとした場合、大抵はペットの方が寿命が短いから先に逝ってしまうけど、 ペットを残したまま自分が先に亡くなってしまう場合は、あらかじめペットの引き取り先を決めておかないといけないね。おばあちゃんが飼っていたからなんだけど、こういう事態を娘さんと相談の上、キャンドュを飼うべきだったんだ」 「おばあちゃんも独り寂しかったからかもしれないね」 「まあ今回は、結果が良かっただけであって、もしかするとキャンドュは保健所に行っていたかもしれないんだよ。保健所で殺処分されていたかも」 「飼い主が責任を持ってペットを飼うことは当然としても、後々のことも考えてやらないといけないんだ」  若菜が口を重くしていいました。 「だから、若菜が責任を持ってキャンドュを大切に育ててあげなよ。その為の環境はできる限り提供するから」 「その為に、あの家に引越しするの?」 「嫌なのか? だったら、別の物件を探すけど」  純平がルームミラー越しに若菜を見ました。 「あの家でもいいけど、お母さんはOKしてくれるかな? 勝手にキャンドュを引き取ることにしちゃったけど」 「住む家のことは別にして、キャンドュを飼うことについては、お母さんは了解済みだよ」 「本当?」 「だって、あの場で即決できたのは、お母さんと事前に決めていたからなんだよ。高村さん家の事情はおおよそわかっていたから、キャンドュは引き取れないだろうと考えたんだ」 「ふーん」 「“こどもネット”で教えてくれた子供からの情報と、おばあちゃんのお葬式を取り持った葬儀屋さんの話、おばあちゃんのご先祖さまが入っているお寺の住職の話で予想してみたんだ。あとは不動屋さんも当たってみて、おばあちゃんの娘さんから相談を受けていた内容の内、犬に関しての情報だけを教えてもらった。全てがこの町の人達だったから、助かったよ」 「キャンドュは、運が良かったんだね」 「本当にたまたまだよ。若菜がペット放棄するとも限らないからね」 「うーん、それは無い」  若菜が笑顔でいいました。 「それはよかった」  純平は笑いました。若菜も声を上げて笑いました。 「若菜ちゃん、遊びに来たよ」  玄関口から聞こえてきました。 「はーい」  部屋の奥で、若菜が返事しました。廊下を歩く音がして、若菜が玄関に行きました。 「大分散らかっているけど、上がってよ」 「うん」  靴を脱いで、左手の部屋に入っていきました。部屋では、佐知子が休憩をしているところでした。 「いらっしゃい」  佐知子がいいました。 「こんにちは」  訪問者があいさつをしました。 「この子が“こどもネット”でキャンドュのことを教えてくれた、今泉未来ちゃん」  若菜が佐知子に紹介しました。 「あの時は助かったよ、ありがとうね」佐知子が座椅子に座ったままいいました。「先週引っ越してきたんだけど、見ての通り片付いていないのよ。気にしないでゆっくりしていってね」 「はい、平気です」  未来が部屋を見回しました。部屋の四隅は、引越し用のダンボールが高く積まれていました。 「奥の部屋にキャンドュがいるけど、会ってみる?」  若菜が聞いてきました。 「うん、そうする。久々に会うけど、私のこと覚えているかなぁ? たまに、お散歩に連れ出していたんだけど」 「大丈夫だよ」  若菜が部屋の奥のふすまを開けました。犬は部屋の隅に設置されたケージの中で、ベッドに丸まっていました。未来がケージに歩み寄りました。 「キャンドュ、こんにちは」未来がいいました。「久しぶりね、元気にしてた?」  犬はベッドから起き上がって、彼女に近づきました。未来がケージの柵越しに手を伸ばすと、犬は鼻を当てて匂いを嗅ぎました。尻尾が左右に揺れていました。 「キャンドュはおりこうさんだから、未来ちゃんのことは覚えているよね」若菜が笑顔でいいました。「ケージから出すね、散歩に行こうか」  若菜がケージのとびらを開けました。犬はすぐにケージから出てきました。未来はしゃがみ込んで、犬の頭を優しく撫でました。 「未来ちゃん、いつも散歩していたルートを教えてよ」  若菜が犬に付けられたリードを拾うと、それを未来に手渡しました。 「うん、わかった」未来が頷きました。「さあ、キャンドュ。お散歩行こう」  若菜達は犬を連れて、部屋を移動しました。 「お母さん、ちょっと散歩行ってくる」  部屋にいた佐知子に、若菜がいいました。 「いってらっしゃい、車に気を付けてね」佐知子がいいました。「おやつ用意しておくから、散歩から帰ってきたら食べていってね」 「はい」  未来が佐知子に会釈をしました。玄関口で靴を履いて、若菜達は外に出ました。犬を先頭にして、若菜と未来が横並びで歩道を歩きました。 「若菜ちゃん、これからもキャンドュに会いに来てもいい?」 「いつ来てもいいよ。その方がキャンドュも喜ぶと思うから」若菜はさっそうと歩く犬を眺めながらいいました。「キャンドュに、犬友っているの?」 「いるよ。お散歩の途中でそこを通るから、後で紹介するね」 「ありがとう」  若菜はうれしそうにいいました。若菜と未来は軽やかな足取りで歩いていました。先頭を行く犬も、自分の散歩道を巡回して満足そうでした。 完
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