序章

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序章

 黄昏を背に負って、男はひとり小道を下っていた。  遠くで帰路につく子どもたちの声がする。吹き抜ける風は男の薄手のコートをはためかせた。古い憧憬が男の脳裏をかけめぐる。  かつて己が子どもだった時のこと。四つ年下の妹の手を引いて、ふたりぼっちで家路についた。  兄は空いた手でがりがりと頭を掻いた。幾度も何か言葉を紡ごうかと口を開けども、転んでべそをかく妹をなだめる言葉はとうの昔に尽きていて、ぐすぐすと鼻をすする音をただ聞くだけになっている。  祭囃子の賑やかな音に誘われて、山道を下った先の社まで、ふたりで向かった帰り道。  見たいものは見れずじまいで、両親に叱られる未来を思えばなおのこと気は沈む。  心が沈むのに応えるように、冷たい風が吹き抜ける。  けれど、つないだ手は暖かく、しれずその手を固く握った。  あたりに人もいない帰り道、少年にとって確かに思える「大事なもの」だった。  あの黄昏は、男の原風景のひとつになっている。  これも、ある意味「走馬灯」とでも呼ぶのだろうか。  感傷を厭うように、男は無造作に両ポケットへ手を入れた。風で冷たくなった手を、ポケットの中で握りしめる。  回想にふける時間はない。  これから、己の存在をかけて愛しい者を取り返しに向かうのだから。  男の前には、注連縄が巻かれた大岩が静かに鎮座していた。 
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