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時雨の頃
世界は混沌としていて、私にはどうすることもできなかった。そう、彼がいなくなることを、私は止めることができなかったし、そんな私をだれも救うことができなかった。
上坂浩司と私は、そうして別れを決めたのだった。
名古屋の空は鈍色に淀んでいた。曇り空というのは気持ちを重くさせるものだ。雨の日よりもずっと。霧雨、糸雨、陰雨。どんな雨でも、心を乱すことはあっても心を停滞させることはない。淀んでいる。私の心が。
「なんだか浮かない顔ね」
そう言ったのは、私の働く雑貨屋の白井明日香だった。その細い体躯に似合わず胸だけが大きく突き出している。同年代ということもあり、一番最初に仲良くなったスタッフだった。
「曇りは嫌いなの」
私はウインドウの外を見る。やけに暗く見えるのは、天気だけのせいではなかった。
――誕生日おめでとう。
その文字が頭に浮かぶ。すこしもめでたくなかった誕生日。すこしも嬉しくなかったおめでとう。
明日香は、私は雨の方が嫌い、と言って品出しを始めていた。こじんまりとした個人店の雑貨屋。私はここの常連客だった。
「まさかあなたがここで働くなんて考えてもみなかったわ」
奥から店長の澤北がでてきた。白髪の混じる髪を下の方で一つに束ねて、不愛想にそう言った。
「家から近いし、丁度、求人が見えたので」
入り口やトイレに貼ってある、求人募集のそっけない張り紙を頭に浮かべる。どこにでもある白い紙に手書きの、端っこがよれた長方形。
ここの雑貨は、アジアンテイストの物たちで溢れかえっている。ふわふわふりふりしたものを好まない、私らしい店内。私の家みたい。
開店してもしばらくはお客が来ない。いつもの日常だった。平日の昼間は、とくに致し方ないと思うのだけれど、暇を持て余すのは好きになれない。店長は本でも読んでてもいいわよ、なんて言ってくれるのだが、大抵は品物の向きを揃えたり掃除をしたりして過ごしている。本を読むのは好きなのだけれど。
その点、明日香は暇つぶしにケータイをいじっていることが多い。なにも気にせず、好きなことをしていていいわよという店長の言葉をそのまま鵜呑みにできるのは彼女らしさというべきか。羨ましい性格だな、と内心では思う。なにも気にせずにいられる人生なら、どれほど良かっただろう。
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