本編:男女共通

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本編:男女共通

 会社から家へ向かういつもの帰り道。  有希(ゆうき) (こずえ)は俯き、涙を堪えながら強く下唇を噛みしめていた。  梢は不幸な女だった。  幼少期に不慮の事故で両親を失い、引き取られた叔父の家では散々疎まれた。  両親の遺産は叔父夫婦が管理するという建前で奪われ、梢のために使われることなく叔父夫婦の遊興費に瞬く間に消えていき、奴隷のような生活を余儀なくされていた。何か機嫌を損なうようなことがある度に、兄貴夫婦は面倒なものを遺していった、お前も一緒に逝けばよかったのにと、謂れのない暴力を振るわれ続けた。    高校生になり学費を稼ぐためにバイトを始めると、家に居る時間が減り梢の心は軽くなっていく。店長に頭を下げて、どんどんシフトを増やしてもらい、何かに取り憑かれたように仕事に打ち込んでいた。家に居る時間が減り学費も稼げるし、切り詰めれば僅かだが貯金だってできた。いつか一人暮らしをすることを夢見て、少しずつ貯まっていく通帳を眺めることが梢のささやかな唯一の楽しみだった。  しかし、そんな梢の夢が叶うことはなかった。  ある日バイトから帰宅すると、引き出しの奥に隠していたはずの通帳が居間の食卓に置かれていたのだ。叔父夫婦は隠れて貯金をしていたことについて激怒した。金があるなら育ててもらっていることに恩義を感じですべて渡すべきだと。それをしないのは感謝が足りないからだと梢の頬をぶった。貯金はすべて没収されただけでなく、今後バイトの給料は叔父夫婦が管理することになってしまった。  社会人になってもそれは変わらなかった。会社から帰っては、罵声を浴びながら急いで風呂と晩御飯の準備を始める。家事の一切を梢に任せながら、梢の給料で叔父夫婦はずっと好き放題。金が足りなくなると、梢に掛け持ちのアルバイトを強要する。高卒で就職したということもあって、梢の給料は決して高くはなかった。毎月給料日になると振り込まれた額面を見て溜め息を吐きながら、身体でも売ってこいとぶたれる。  そんな折、梢は翔太(しょうた)と出会った。  きっかけは掛け持ちしていたファミリーレストランのバイトだった。自由に使える金など殆どない梢は最低限の身なりしかできず、性格も引っ込み思案で地味だった。そのせいか浮いた話もとんとなく、色恋沙汰にも慣れてはいない。客として訪れた翔太は持ち前のルックスと爽やかな笑顔で瞬く間に梢の心に入り込んだ。  常連として通うようになる頃には、梢は翔太へ恋心を抱いていた。社交性に富んで口が上手い翔太は、言葉巧みに恋人関係や結婚を仄めかしていく。翔太と一緒になれば今の奴隷生活からも逃げ出せるかもしれないと、梢は縋るようにのめり込んでいった。だから、翔太が金に困っていると言えば借りてでもせっせと貢いだ。  ある日、梢が貸すのを一度だけ渋ったことを最後に、翔太とはぱったりと連絡が取れなくなった。そこで梢は初めて自分が騙されていたことに気がつく。しかし、気づいた頃にはもう手遅れだった。翔太の消息は不明。貸した金が梢の手元に返ってくることはなかった。  それだけでも不幸だというのに、なぜ悪いことは重なるのか。  梢にとって会社は唯一の逃げ場だった。仕事に向き合っている間は嫌なことをすべて忘れられた。引っ込み思案な梢が同僚の輪に入ることはあまりなかったが、それでも人間関係は悪くないと思っていた。——そう思っていたのは、梢だけだったのだと後で思い知らされることになるのだが。  長年の勤務実績や仕事への誠実な態度が認められ、昇進の話があがった。同僚たちの中でも異例の早さであがった昇進話を快く思わない者が多くいた。発注量の桁を間違えたり、取引先に期日厳守で納品しなければならない重要な商品が未納になっていたりと大きなミスが発覚すると、同僚たちが結託し梢に全責任を押し付けたのだ。そのせいで昇進話がなくなっただけでなく、会社に大きな損害を与えたとして解雇されてしまった。  そんなことがあった帰り道だったからこそ、俯き涙を堪えながら強く下唇を噛みしめていた。行き交う人の笑顔が腹立たしい。楽しそうに遊ぶ学生たちが恨めしい。梢は心の底から笑ったことがない。偽りでしか幸せだと感じたことがない。どうして私だけがこんなに苦しまなければならないのか。梢には理解ができなかった。 「こんな……こんな世界なんて壊れてしまえばいい!!」  梢は人目も憚らずに叫んだ。笑顔を浮かべていた人たちが好奇の視線を向ける。見てはいけないモノを見てしまったとでも言うように。歩道の真ん中で立ち止まりぼろぼろと涙を零す梢の周りから人が離れていく。悍ましい程に冷たい世界。こんな世界を誰が望んで生きようか。唯一の逃げ場を失って、残されたのは地獄だけ。梢の脳裏に最後の逃げ道が浮かんだのは当然のことだった。 「壊すなんてもったいない」  梢の目の前にはいつの間にか一人の男が立っていた。スーツ姿の男は見た目からして四十歳前後くらいだろうか、困ったような八の字眉毛から少し頼りなさそうな印象を受ける。勧誘か何かかと訝しむ梢に男は一歩近づいて、ずいっと人差し指を向けた。 「僕はこう見えて魔法使いでね。君が壊したいと願ったその世界を、魔法で変えてみないかい?」  あまりにも突拍子もないことを言うものだから、梢の涙はぴたりと止まった。それどころか、あまりに滑稽な台詞に梢は思わず笑ってしまった。ぼろぼろと涙を零していた梢を一瞬で笑顔に変えた自称魔法使いも梢につられて嬉しそうに笑う。 「じゃあ、変えてみせてよ」  梢は笑うの止めて、冷たく真面目な顔で男にそう告げる。もうどうでも良かったのだ。失くすものは全部失くした。どう転んでも、これ以上悪くなることも酷くなることもない。騙されてももう、梢には失う物は何もないのだ。どうせどうにもならないだろうけど、最後にこの滑稽な魔法使いに縋ってみるのもまた一興だと。 「良い返事だ。でも魔法を使うには君の協力が必要不可欠だ。手伝ってくれるね?」  梢は躊躇いもなく頷いた。
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