7.震戦

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最終滑走が終わり、他社の記者たちがぞろぞろと階段を下り始めた。 颯と優里もシャンツェを後にした。 歩きながら颯はカメラマングローブを外して、右の手のひらを見せた。 カメラのグリップを支える中指の第一関節付近に、凍傷やタコができていた。 「こうして見たところで、今はもう分からないだろ?」 優里は小さく頷いた。颯はまたグローブをはめた。 「適応障害だよ。社会部だった3年前、俺はこの世から消えたいと思った」 上司(デスク)から執拗な嫌がらせを受けていた。 「深夜2時まで喫煙室で説教されたり、飯食うだけで怒られたり。誰も守ってくれやしない。自分を守ろうと必死になるほど、取材の質が落ちた」 すぐに体に変化が現れた。 携帯電話の着信音が鳴ると動機し、冷や汗が止まらなくなった。 出社すると手が震え、吐き気を催した。 「ある日、不審死事件があった。警察は捜査中だと言った。それを俺は強引に『警察は自殺とみている』と書いてしまった。この意味が分かるか?」 優里は首を振った。 「俺は――俺は、死者を傷付けたんだよ」 颯は目を伏せた。 「死者の尊厳を踏みにじった。独自ネタを取れる記者だと周りに認められたかったんだ。今思えばただのエゴでしかない」 記事はもう書けなくなった。 傷付いていたのに、傷付ける側になっていた。 撮影は得意で好きだったが、重圧でカメラを持つ手が震えた。 休職ののち、ペン(書くこと)から逃げるように写真報道部に異動した。 「優里は俺みたいになるなよ」 「そうですね」 後ろを歩く優里が声を落とした。 「もし書かれたのが自分の父だったら、瀬崎さんを恨んでいたでしょうね」 靴底の裏がぎゅむ、と鳴った。 鉄色がむき出しになった網目状の階段に、雪の塊が挟まっていた。 頬をなでる風ににおいはない。 眼下には北アルプスの山々が広がり、民宿と温泉宿が立ち並んでいた。 学生時代、間宮とこの景色を何度見下ろしただろうか。 この白銀に輝く景色は、颯には眩しすぎた。 シャンツェがおかえりと言っていた。
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