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プロローグ
「春田君の教育係・・ですか?」
課長職に就任して二年。一般的には管理職の地位ではあるものの、大規模とまでいかないこの会社においてマネジメント業務は部長の仕事であり、私に求められているのは専ら『他の社員の目標となる様な営業成績を叩き出す』事であると思っていた。私が少し意表を突かれてそう聞き返すと、部長ははぁとため息をついてみせた。
「あいつの成績があまりに酷いもんでな。君の仕事の仕方を学ぶことで少しでも良くなればと思ったんだが。三枝君はいつも成績トップだし、もしもそのノウハウを上手く他の社員にも落とし込めるなら、管理職としての評価も上がるでしょ? 一気に昇進したりしてな!」
私がこれ以上昇進したら困るのは自分であろうに、部長は心にも無いことを言って笑った。
春田蒼は24歳の男性社員。この不動産会社の賃貸営業部において、成績はもはや定席とも言える万年最下位。
だけど本人はさして気にした様子もない。歩合がほとんどつかないという事は給与額もかなり少ないだろうけれど・・「ヒモの様な生活をしている」とのあまり良くない噂まで囁かれている。ノウハウがどうとかいう以前に、本人のやる気の問題なのではないかという気もするが────。
「ま、厳しくやってよ。辞めたら辞めたで、しょうがないからさ」
部長はヘラヘラとした笑顔で私の肩を叩いた。末端の営業職など使い捨て。成績の悪い職員にはなるべく辞めて貰いたいというのが本音なのだろう。面倒事を体良く押し付けられたというところか。
「・・・・分かりました」
少し面白くない気がしたのは確かだ。
その時、経理課の女性社員が遠慮がちに声をかけてきた。
「三枝さん、アイビーコンサルティングの葛城様がいらっしゃいましたが・・」
「すぐに行きます」
◆◇◆◇◆◇
契約ブースに入ると、お茶を出していた女性社員が名残り惜しそうな視線を向けてくる。
「お待たせ致しました、葛城さん」
「急にすみません三枝さん。すぐ近くに用事があったもので、契約書、持参しちゃいました。いらっしゃって良かった」
外資系大手コンサルティングファームの葛城良一郎ゼネラルマネージャーは、嫌味のない爽やかな笑顔で挨拶をくれた。総務部所属で、海外から日本支社へ転勤となった職員用の社宅の管理手配も行っている関係で付き合いのある御得意である。おそらく『イケメン』に部類されるであろう整った容姿のこの人が来社すると、普段面倒なお茶出し業務が争奪戦になるとの噂は本当なのであろう。
「来週の火曜日、海外から一人転勤予定者が来日するんです。前に資料を頂いていた渋谷の物件と神楽坂の物件、内見させて貰ってもいいですか?」
「分かりました。手配します」
「それであの、私はまた、もしかしたら途中で抜けさせてもらうかもしれないんですけど・・」
「・・分かりました。私の方で、責任をもって対応させて頂きますので。昼食は寿司・ラーメン・天ぷら、何でも対応させて頂きます。内見終了後は御社へお連れするという事でよろしいですか?」
私の回答を聞いて葛城さんは笑顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 不動産賃貸の方で英語の堪能な方がなかなか居ないものですから・・本当に助かってます。そうだ、三枝さん。ちょうどお昼の時間帯ですし、ご一緒に昼食でもいかがですか? 僕奢りますよ」
会社のカードですけどね、と葛城さんは優しげな笑顔で冗談を交えた。高キャリアのイケメンで感じもすこぶる良いとなれば、女性達が沸くのも無理はないのだろう。
預かった捺印済みの契約書を総務部へ提出し、鞄を取りに席へと戻る途中、お茶出し用のキッチンブースで女性が屯しているのに気がつく。
「や〜ん、葛城さん今日もカッコいい〜」
「あんなのが固定客って、三枝さん羨ましすぎん? 私なら秒で連絡先渡すけどね」
「ま、三枝さんとじゃ何も起きようがないだろうけど」
「あはは。それは失礼でしょ」
「笑ってんじゃん。あ、そうだ。今日の夜飲みに行かない? 給料入ったし」
「行く行く〜。じゃあ男性陣にも声かけよっか〜」
彼女達の揶揄と笑い声が、耳を掠めて通り過ぎていく。会社のビル出口を出て葛城さんと並んで歩き出すと、ビルのガラスに反射して、見目麗しい葛城さんの隣を歩く、背筋だけは良い眼鏡をかけたオバサンが映り込んだのが見えた。
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