プロローグ

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プロローグ

 台風並みの猛烈な雨は、明け方までに止んだ。大気はまだ不安定だが雲は飛ばされ、秋空が戻った。  鎌倉市七里ガ浜の分譲地に住む米山浩二は、毎朝六時過ぎに秋田犬の五郎を連れて散歩に出る。天気が良ければ湘南道路をくぐる地下道を通り、海側の駐車場から砂浜に下りる。のんびりと歩き、桜貝を見つけるのが七十五歳になる米山の楽しみだった。  米山にとって、この十年を共に生きてきた五郎はよき散歩仲間だ。せっかく雨が止んだのだからと澄んだ青空に誘われ、いつものコースを散歩しようと思った。  分譲地の坂を下り、江ノ電の踏切を越え、地下道の階段を下りかけたところで米山と五郎は足を止めた。排水口が詰まったのか、地下道に雨水が溜まって進めない。 「こりゃダメだ。横断歩道から行くか――」  米山が引き返そうとしたとき、五郎が「ううっ」と低い声で唸った。若いころならいざ知らず、老犬の域に達して穏やかになった五郎が唸るのは珍しい。 「どうした?」  米山は五郎が睨む地下道の奥に焦点を合わせた。  水溜まりに、ぽっこりと島のような陰が浮かんでいる。目を凝らすと、次第にその形が何であるのか、わかってきた。  人だ――。  米山は五郎を伴い、雨水を踏んで陰に近づいた。  白っぽい薄手のブラウスを着た若い女が、仰向けに寝ている。薄い体の半分ほどは雨水に浸り、端正な顔立ちの目は閉じられ、扇のように髪が広がっていた。 「おい!」  声をかけたが、女はぴくりとも動かない。  黒い痕が、首輪のように細い喉を巡っている。  米山は唾を呑み、五郎を連れて来た道を戻った。地上に上がり、携帯電話で110番通報した。
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