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01.或る夜の風俗嬢
おおよそ、人間は二種類に分類出来るでしょう。
従える者と従う者です。
前者は社会的地位や富を持った権力者、後者は下働きの下女や街角で汗水を垂らして働く物売りなどが該当します。まぁ、物売りたちは誰かに従うというよりも、金銭の奴隷と言ったほうが適切でしょうね。それを言うと人間は皆、そうなのかもしれませんが。
さて、実は権力も富もなくとも人を従えられる場所がひっそりと存在していることをご存知でしょうか?
夜の館と呼ばれるその店では、今日も男たちが丸裸にされて、気高き女王に跪いています。彼らが日中振り回しているプライドという鋭い剣も、ここではシュンと小さくなって出る幕を失っているようです。
「………っはぁ、今日も最高だった。ありがとう」
男は高級そうな黒いスーツに着替えてそう言いました。
彼は二度目の来店ですが、なかなか素質があります。私は涎でベタベタになった爪先をタオルで拭きながら頷きました。
「なぁ、君の名前を教えてくれないか?こうして会うのも二回目だ。もう少し君のことを知りたい」
「まだ部屋の中に居ることを忘れているの?」
「え?」
私は革靴を履いた男の爪先を自分の足で踏み付けます。
「……う、あっ…何をするんだ……!?」
「私のプライベートに立ち入る権利が奴隷である貴方にあると本気で思っているの?勘違いが甚だしいわ」
「す、すまない…!悪かった、謝ります!」
そう言って忙しなくカチャカチャとベルトを外しに掛かる男を見て私は本気で呆れてしまいます。ただの叱責を聞いて、彼はまたプレイが始まると思ったのでしょうか。
なんとも楽しい頭の持ち主です。
「もう時間よ。あとは帰って自分でしてちょうだい」
「ああ、そんなこと言わないでくれ!このまま帰れなんてあまりに地獄だよ。僕はどうすれば良いんだ!?」
「その辺の路地裏に立ちんぼが居るでしょう。破格で抜いてくれる筈だから頼んでみたらどう?」
「君は意地悪だ……僕がそういったものを求めていないと知っているはずなのに!」
「どうかしらね。貴方に興味がないから知らないわ」
騒ぐ男を横目に、私は部屋に備え付けられた電話を手に取りました。「お客様がお帰りです」と伝えれば、どこで雇われたのか屈強な身体をした男たちが二人現れます。
「待って!」「まだ話がある!」と大きな声で喚き立てる男に私はヒラヒラと手を振りました。
「また遊びに来てね。今日の続きをしましょう」
「それまで待てるか……!」
その声を最後に扉は閉まりました。
私の好む静寂が部屋を支配します。
こうして私のプライベートを知ろうとする男は少なくありません。多くはただの興味本位だと思いますが、彼らが私の名前を呼ぶことを考えただけで私は寒気がします。
私は昼間、貴族の屋敷で下女と働いています。いえ、働いていたと言った方が良いでしょうね。何を隠そう一週間前に屋敷の主人が病に倒れて入院となったため、私は解雇されましたから。明日は新しい働き先を紹介してくれる人材派遣の会社に面接へ行くのです。
(また二重生活が始まるのね……)
私がこうした特殊な店で働くのは、なにもお金のためだけではありません。これは自分の尊厳のためでもります。日中は虐げられて、冷たい水で雑巾を絞るような作業ばかりしていても、夜になれば私は男たちを見下す女王になることが出来ます。
そう、この仕事は、私が私を守るための手段でした。
だから私は客に決して自分の名前を教えたりしません。名前は私を現実世界に戻します。下働きの下女の姿を思い出させるのです。そうすると途端に、私は泣き出してしまうでしょう。
静まり返った部屋の中で、私はメイクポーチを広げて赤く塗られたマニキュアを落とします。鏡の前に立ち派手な金髪のカツラを脱ぐと、くるくるとカールした地味な茶髪が現れます。このままでは清潔感を疑われるので、明日は三つ編みにして行く必要があるでしょう。
知らず知らずのうちに溜め息が出ました。
男たちはプレイを済ませて華やかな現実に戻ります。
私を待つ現実は、あまりにも目を背けたいものでした。
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