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初恋の人
仕事帰り、乗り換え駅で電車に乗り込む。動き出した電車がカーブで大きく揺れ、うしろに立っている人に思いきりぶつかってしまった。うしろの人は倒れ込みそうになった俺の身体を支えてくれて、慌てて体勢を直し振り返る。
「……有川先輩?」
背後に立つ男性の顔を見て、ぽろっと口から名前が出てしまった。
「え?」
この耳に優しい声……間違いない、有川先輩だ。でも先輩は俺を見て「誰だろう?」という顔をしている。あたりまえだ。もう十年以上前の後輩なんて覚えていないはず、と慌てて口を開く。
「す、すみません……! 俺、T中のバドミントン部で有川先輩に、あの、先輩が三年で俺が一年で……えっと、あ、森田です。先輩にすごくお世話になって……その……」
なにを言ったらいいかわからず、思いついたことをそのまま話していったらぐちゃぐちゃな説明になってしまった。これじゃ先輩が混乱するだけだ、と頭を働かせるけれど、まず俺自身が混乱してしまっていてどう説明したらいいかわからない。焦る俺を先輩はじっと見つめている。
「……森田、……森田……?」
「は、はい……森田です……」
「ああ、あの森田!」
ぱっと笑顔になった有川先輩が俺の顔を更にじっと覗き込んでくるので距離の近さに顔を引く。頬が微かに熱くなったのは気づかれなかったと思う。というか、「あの森田」とはどういうことだろう。
「よく覚えてたな」
優しく笑う先輩に「憧れていたので」と返す。それも本心だけど本当は……好きだった。でも、そんなことは言えないから、ここは無難に答える。
中学に入って部活を選ぶとき、特に入りたい部活はなかったけれどどこかの部には入らないといけないということで、小学校から一緒だった友人が入ると言うバドミントン部に一緒に入部した。そういう理由だから俺は完全な初心者。バドミントンのことは全然わからないけれど、綺麗なものはすぐわかった。部のエースと呼ばれる人にみんなは憧れていて、俺が惹きつけられたのは有川先輩だった。サーブをする姿がとても綺麗で、目が自然と引き寄せられた。
新入部員の初心者に二、三年生の先輩がそれぞれついたとき、たまたま俺についてくれたのが有川先輩で、初心者の俺にラケットの持ち方からラケットの振り方、ひとつひとつを丁寧に教えてくれた。ふたつ上というだけで大人に見えて、そばにいると緊張する。それでも先輩の柔らかい声をずっと聞いていたいと思った。徐々に胸が高鳴るようになり、もっと先輩のそばにいたいと思うようになっていき……。
好きだと自覚したけれど告白するつもりはなく、ただそっと気持ちを心の奥にしまっておいた。
先輩の引退、卒業で一気にやる気がなくなった俺は一年の終わりでバドミントン部を辞めた。先輩の卒業後、一度も会っていなくてもふとした瞬間に思い出す、心がむずむずする感覚。
俺の初恋。
「思い出してみると、あんまり変わってないな」
「そうですか?」
先輩は俺の肩にぽんぽんと触れて目を細める。変わっていないというのもなんだか恥ずかしい。
「森田は仕事帰り?」
「はい。先輩もですか?」
「そう。今、ジュエリーショップで店長補佐とジュエリーアドバイザーしてるんだ」
「すごい……格好いいですね」
そうじゃなくても先輩は昔から格好よかったけれど。これは俺の恋心によってそう見えたのではなく、先輩は本当に整った顔をしていて、大人の男性になった今はもう眩しいくらいだ。
「俺は文具メーカーで働いてて……」
仕事の話や、中学卒業からのことを話して、先輩は高校までバドミントンをやっていたけれど高校卒業と同時にやめたと教えてもらった。今でも趣味ではやっているのかと聞いたら、全然やっていない、と苦笑されてしまった。
懐かしい、むずむずする感覚が心に蘇る。でも電車が次に停まるのは俺が降りる駅。また会えるわけじゃない、と軽く目を伏せる。
「せっかくだから連絡先交換しようよ」
「え……」
スラックスのポケットからスマホを出す先輩を信じられない思いで見つめると、先輩が少し首を傾げる。
「あ、嫌?」
「嫌じゃないです!」
俺も急いでスマホを出して先輩と連絡先を交換する。連絡先の一覧に先輩の名前が入っているのを確認したら駅に着いた。
「俺、ここなので……」
「あ、そうなんだ」
「それじゃあ……」
「ああ、またな」
驚きを隠せないまま「はい」と答え、こんなのまた会えるみたいじゃないか、とどきどきしながら電車を降りる。ドアが閉まり、振り返ると先輩が小さく手を振ってくれているので俺も倣って小さく振り返す。電車が見えなくなるまで見送った。
買い物をして帰宅するとスマホにメッセージが届いている。確認すると有川先輩だった。
『ちゃんと帰れた?』
一言のメッセージにまた心のむずむずが蘇り、『帰宅しました』と一言返信する。
先輩は偶然の再会と、俺が先輩を覚えていたことを喜んでいるだけだ、と心を引き締める。心がむずむずして落ち着かない気持ちは、昔を思い出して懐かしい気持ち。
……あのとき、気持ちを伝えていたらなにか変わっていたのかな、と考えて、そんなの無理に決まっていると首を横に振る。ふう、と息を吐いて、先輩は素敵な人になっていたな、と考えてまた首を横に振る。
先輩のことを思い出してはぶんぶんと首を横に振って思いを散らしながら食事の支度をした。仕事の疲れはどこかに行ってしまった。
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