世界はポケットの中に

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 緊張した時とか大胆になりたい時、俺はポケットの中に手を突っ込む。ポケットの中に手を突っ込むと安心できるからだ。子供の頃からずっとそうだった。  これが喧嘩をするときにも役に立った。「ボコボコにしてやるぜ!」と相手がいくら強がっても、相手は両方の手のひらを見せているわけで、それで相手がこれから何をするのか俺にはまるわかりだった。  右のフックが飛んできた。やっぱりな。軽く避けてやった。俺はポケットの中に手を入れながらの体勢は崩さない。  こっちの手の内はまだ見せていない余裕がある。このケンカ、負ける気がしなかった。「野郎!」と相手はツバを飛ばしながら俺に向かってきた。  その瞬間、俺はポケットの中から手を出し、握っていたスマホのカメラを相手に向けて閃光を――カメラのフラッシュを焚いた。「まぶしっ!?」と相手は突然の目くらましに、俺への視線を逸らした。それから後はまあ、言わなくてもわかるだろう、俺の右のパンチが相手の顔面に見事命中し、つまらないケンカはあっという間に終わった。  そして俺は再びポケットの中に手を突っ込み、我が家に帰ったかのような安心感に包まれながら、その場から立ち去った。  あまりにもカッコよすぎる。『欲しい物は全部ポケットの中にある、ポケットの中に手を入れながら生きろ!』。この生き方、本にするべきではないか?  そして、帰りの電車は満員に近かった。  ポケットの中に手を突っ込みながら立っていれば電車が減速して揺れた時にも両方の足の裏は安定するものだ。周囲に立ってる人たちは電車の揺れに耐えている様子だったが、俺には余裕。みんなもポケットの中に手を入れながら満員電車に揺られていればいいのにな。  愉快、愉快。自分の顔がニヤけちまったのを感じたぜ。そしたら、俺の斜め前に立っていた学生服姿の女がいきなり叫びやがった。 「チカン!」  なんだと!?  そんなけしからんヤツ、この場から逃げようとしても俺の隠し手で捕まえてやるぜ。  ところが、学生服姿の女は俺の方にキッツイ視線を向けて、「コイツです! チカン!」と、つまり俺がそうだってこと?  もちろん、そんなこと俺はしなかった。だが、俺にはチカンの状況証拠が揃い過ぎていた。  満員電車の中で男たちはできるだけ手を上の方に向けていたのだったが、俺ひとりだけずっとポケットの中に手を突っ込んでいたこと。  駅員に「ポケットの中から手を出しなさい」と言われても、俺はポケットの中から手を出すことができなかったこと。  ポケットの中でスマホを握りしめていたこと。  何を言われても「はいわかりました」とポケットの中から手を出すことはできなかったこと。   だって、ポケットの中は俺に安心感を与えてくれるのだから……。  しかし、チカンだと思われているこの状況をどう脱したらいいのだ。  ついに警官までやって来て、俺はポケットの中から無理やりに手を出させられてしまった。 「ここまで強情にポケットの中に手を突っ込んでいるとは……。中に何が入っているんだ? ん?」  警官は俺のズボンのポケットの中に手を突っ込んできた。他人の手がポケットの中に入ってくるだなんて、俺はなんだか妙に気持ちの良いものを感じた。 「ん? んん? なんだこれは?」 「お、おまわりさん。どうしたんです? この、チカン。ズボンの中に危ないモノを入れてるの?」 「いいや。違う。彼のポケットは、ふ、深いんだ」  そう。俺のズボンのポケットは警官の肘もすっぽりと入ってしまうほど深かった。つまり、そんなポケットの中に手を入れている限りは女のお尻や体を触れるほどの柔軟性や伸縮性はないワケだな。 「ポケットの中に何か入ってるぞ。これは、教科書。ノート。体操着。弁当箱……まだ何かあるようだが、もういい。キミのポケットは、あれか、四次元ポ――」  おっと。それ以上言ってはいけない。  俺の清廉潔白さに学生服姿の女も「すみません。チカンだとは勘違いです」と理解し、それでも苦々しい表情を浮かべ、「ポケットの中に住んでいるみたいですね?」と唇をゆがめて言ってくれた。  そうとも。俺はポケットの中に住めないものかとずっと考え続けていた。 「四次元ポ――。ああいうのを作りたいなあ」  それは生涯の仕事として人生を捧げたテーマとなった。 <終わり>
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