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宝の鍵
自分の息の酒臭さで目を覚ます朝ほど、最悪な気分になることもそうはない。
頭が痛い。典型的な二日酔いだ。
酒を飲んでいたこと自体は覚えているが、細かい部分は靄がかかったように思い出せない。誰と飲んでいたんだったか。思い出そうとするが、どうにも記憶がはっきりしない。
これだけ泥酔していても自分のベッドの上で目が覚めるあたり、人間の帰巣本能というものは自分が思っているよりも優秀なものらしい。
そのままもう一度寝入ってしまいたい誘惑が頭をもたげるが、平常時と比べて明らかに速すぎる脈動に合わせて頭痛も波打つため、それもかなわない。重たい体を持ち上げ、水分を取ろうと死体さながらの緩慢さで流しへと向かう。
コップに注いだ水を乾ききった体に流し込む。そのままじっとしていると、次第に頭痛は楽になってきた。
改めて自分の状況を検分してみると、着替えすらせずにベッドに倒れこんだようで、背広を着たままだった。背中の部分を後ろ手で触ってみると、あってはならないところにくっきりと線が入っていることが分かった。これはクリーニングに出さないとだめそうだ。
酒臭いため息を一つついて、シャワーでも浴びてすっきりしようと決める。
シワだらけの背広をハンガーにかける気にもならず、ベッドの上に放り投げた。
少し熱めのシャワーを浴びると、少しずつ脳の機能が回復してきた。
髪を乾かしながらベッドに脱ぎ散らかした背広を渋々といった体でハンガーにかけていると、背広の右ポケットになにか硬いものが入っていることに気が付いた。
基本的に背広のポケットにものを入れる習慣がないので、酔っぱらって変なものでも拾ってきたかと、ポケットの中に手を突っ込み、その中身を取り出す。
「……なんだ、これ」
それは、小さな鍵だった。
何に使うのかも判然としない、小さい鍵。見た目としては南京錠の鍵くらいのサイズだ。
当然だが、この家の中にも身の回りの物にも、会社にもこの鍵を使うところはない。完全に使途不明の謎の鍵だ。
酔いに任せてその辺で拾ってきた、という可能性も捨てきれないが、これまで泥酔したときも何かを拾って来るようなことは一度もなかったので、一旦考慮からは外す。
どうやら記憶の靄を晴らす必要があるようだ。まだ少し痛みを訴えている頭をどうにか叱咤しながら昨日のことを思い出す。
昨日、誰と飲んだのか。
靄のかかった記憶の海に潜ってサルベージしていると、ほどなく記憶の欠片を拾い上げることができた。
「樫山、そうだ樫山だ」
昨日一緒に飲んでいたのは、樫山裕樹。
小学生時代で一番の親友だったのだが、中学に上がるタイミングで俺の方が転勤族の父親の関係で引っ越してしまった上に、当時は携帯電話なんて持っていなかったので長いこと完全に没交渉だった。
普通であれば俺と樫山もあの引っ越しを機に一生関わることもないはずだったが、なんの運命のいたずらか、二か月前に二十年近い歳月を経て俺たちは再びの邂逅を果たすこととなった。
と、仰々しく表現してはみたものの、仕事で営業をかけに行った先に樫山がいたというだけの話である。樫山も俺と同じように見た目には二十数年の歳月を塗り重ねてはいたが、顔を見た瞬間にもしや、と思い、名刺を見た瞬間に確信に変わった。
これだけ長いこと会っていなかったのに、よそよそしさなんてどこ吹く風、あっという間に仕事とは関係ない話で盛り上がった。
改めてまたゆっくり話そう、といって別れたのが、二か月前の話だ。そこからお互いなかなかタイミングが合わず、ようやく飲みに行けたのが昨日だったのだ。
細かい話の内容はいまだにちっとも思い出せないが、なぜこんなものがポケットから出て来るのかの手掛かりは樫山が握っているに違いない。
携帯の電話帳から交換しておいた樫山の番号を呼び出し、電話をかけると二回目のコールが鳴り終わる前に繋がった。
「あ、もしもし樫山か? 悪い、今大丈夫だったか?」
「なんだ、どうした。昨日散々話したばっかりだっていうのに」
「ああ、その昨日の話なんだけどさ。いい歳して恥ずかしいんだけど、飲みすぎたのか、全然昨日のこと覚えてないんだ。それでその、スーツのポケットの中から何かの鍵が出て来たんだけど、これなんだかわかるか? ひょっとして樫山のものを俺が持ってきちゃったのかと思ってさ」
「え、なんだ。全然覚えてないのか?」
樫山は電話の向こうで呆れているような、笑いをこらえているような、そんな声だ。
「まあ確かに、昨日お前相当酔ってたからな。ちゃんと帰れるのか心配してたくらいだから、覚えてなくてもむしろ納得だけどさ」
「あー、なんだ。せっかく久しぶりに話せたのに全然覚えてなくてすまん。楽し過ぎたからってことで一つ、許してくれないか」
「いやいや、別に怒ってるとかじゃないさ。お前が楽しんでたのは見ててもわかったし、俺も楽しかったからな。ええと、その鍵のことだよな。それは確かに昨日俺がお前に渡したものではあるが、元々はお前のものだ」
「……すまん、言ってる意味がよくわからないんだが」
素直に感想を伝えると、樫山は今度こそ声を上げて笑った。
「あはは、おいおい、昨日のお前の方がまだピンと来てる感じだったぞ。まあ相当昔の話だから仕方ないかもしれないけどな」
そう言われても全くといっていいほど思い出せず、言いようのない気持ち悪さが喉の奥に渦巻いている。
「ええっと、全然ピンと来てないんだが、要するにこの鍵はもともと俺のものってことか?」
「ああ、間違いない。昨日のお前も忘れてたけど、その鍵は俺がお前から預かってたものだ。お前が引っ越して行っちまった時にな」
樫山が俺を担いでいるという可能性も頭をよぎったが、そんな手の込んだ嘘をつくほど樫山も暇ではないだろう。
「うーん、全然覚えてないな。なんで俺はそんなことしたんだ?」
そう聞くと樫山は喉の奥を鳴らすような、妙な笑い声を漏らした。
「それを俺に聞かれても困る。当時の俺も良くわからないまま受け取ったからな。それが何の鍵なのかも知らんし、なんでそれを俺が預かったのかもよく覚えてない。ただ、大事なものだから、次に会える時まで持っててほしい、ってお前が言ってたことだけはなんとなく覚えててな。この間久しぶりにお前に会った時、その鍵をちゃんと保管してたのを思い出したんだ」
自分で渡したことすら忘れていたのに、わざわざ保管までしてくれていた樫山の律義さに舌を巻く。小学生の頃はお互いに適当で雑なやつだと思い合っていたのに、こういう一面があったのか、と今更ながら驚く。
「そうか、ありがとな。預けたこと自体を俺が忘れてたのは非常に申し訳ないが」
「いや俺もお前に会うまではすっかり忘れてたし、たまたま思い出したから渡しただけさ。思い出したのに渡さないのもそれはそれで気持ち悪いからな」
「しかし、せっかく受け取ったのにこれが何の鍵なのかがわからないことには意味がないな」
「俺もその鍵が何なのかは聞いてないからな。まあ少なくとも小学生の時に使ってた、もしくは持ってたものの鍵だってことだけは確かだろ。その辺を考えてみたら、おっと悪い、嫁さんから電話だ。そろそろ切るわ」
「ああ、すまん、助かったよ」
「また飲みに行こう。進展があったらその時にでも聞かせてくれ。じゃあな」
そう言うと樫山は電話を切った。
ベッドの上に携帯を投げ捨て、椅子に座りながら改めて件の鍵を眺める。
子供の頃に持っている、小さな鍵。
ふと思いついたものがある。
「机の引き出しの鍵か……?」
子供の頃使っていた学習机の一番上の引き出しは、鍵がかかるようになっていた。
ぼんやりとではあるが、思い出せる。木の色味をそのまま利用したナチュラルな色の机だった。
あの机の引き出しの鍵なのではないか。
他に思い当たる節もないことも相まって、そうとしか思えなくなってきた。
確認したいが、しかし、最大の問題がある。
「さすがに捨ててるよなあ……」
何せ、二十年近く前の物である。机自体は高校生くらいまで使っていたが、実家を離れて久しい今あの机が残っているのかは定かではない。会うたびに結婚はまだかとせっついてくる母さんとのエンカウントを避けるため、ここ何年か実家には帰っていない。それ以前に実家に帰っていた時も、子供の頃の机の所在など気にしたこともなかったので、あったかどうか全くもって自信がない。
「まあ、とりあえず聞いてみるか」
電話でも、お前もそろそろ嫁さんもらわないと、と精神攻撃されるのは目に見えているので気が乗らないが、このまま鍵のことが迷宮入りになる方が気持ち悪い。
意を決して母さんに電話を掛けた。
結論から言うと、まだ学習机は実家にあるとのことだった。
物持ちがいいと言えば聞こえは良いが、両親とも物を捨てるのが得意じゃないようで、思い出の品などはついつい取っておいてしまうらしい。今回はその性質に助けられたので文句をいう筋合いはないが。
ちなみに結婚についての攻防戦は、始まりそうになった瞬間に電話を切ることで事なきを得た。無駄な争いはしないに越したことはない。
昨日の電話では近いうちに帰ると伝えたが、ちょうど日曜日なので、実家へと車を走らせた。
転勤族だった父親も俺が高校に入学したあたりで落ち着いたようで、それ以来はずっと埼玉の郊外に住んでいる。俺の現住所からは車で一時間もかからないくらいの距離だ。
さしたる渋滞もなく、実家にたどり着いて、チャイムを鳴らす。
「おお、お帰り。どうしたんだ急に。随分久しぶりじゃないか」
玄関を開けてくれたのは父さんだった。直接会うのは当然数年ぶりになるが、随分と老け込んだように感じる。
「悪いね、なかなか仕事が忙しくてさ。……母さんは?」
「友達とカラオケだとさ。最近は結構な頻度で行ってるよ」
父さんの言葉には幾分かの呆れと諦めがにじみ出ている。長年連れ添った夫婦だからこその、良い意味での諦観というものもあるのかもしれない。
いずれにしても母さんがいないのはラッキーだ。鬼の居ぬ間に洗濯と行こう。
「父さん、俺が子供の頃に使ってた机ってどこにあるか知ってる?」
「机? あの学習机か? 多分元々のお前の部屋のままじゃないか。最近あの部屋は母さんが手芸用として使ってるようだが」
「手芸? 母さんそんなことやってたっけ?」
「ここ一年位かな。ボケ防止に良いとか何とかで始めたんだよ」
二人とももう七十歳を越えている。そういうことも気にしないといけない年齢に差し掛かっているということだ。
「どうする、コーヒーでも入れるか?」
「あー、そうだな。お願いしようかな。ちょっと部屋に行ってくる」
「わかった。ブラックでいいんだったな」
「うん、それで」
リビングに引っ込む父さんを背に、二階の元々の自分の部屋に向かう。
扉を開けると、どこか懐かしいにおいがした。
父さんの言っていた通り母さんが手芸に使っているようで、毛糸や編み棒や編みかけの何かが机の上に散乱してはいるが、家具の配置などはそのままになっている。
大学への入学と同時に一人暮らしを始めたので、この部屋で生活をしていたのは十年以上前のことになる。自分のことを感傷的な人間だと感じたことはないが、やはり少しばかりノスタルジーを感じずにはいられない。
とはいえ、懐かしむために帰ってきたわけではない。目的の机に対峙し、一番上の引き出しに鍵穴があることを確認する。
やはりある。
試しに引き出しを開けようとするが、案の定というか、開かないことに安堵する。これで開いていたら万事休すだった。
いよいよか、という気持ちで、ポケットの中から鍵を取り出す。
我ながらおずおずと、と表現するのがぴったりな所作で鍵を差し込み、一つ息を吐いてから鍵を回した。
カチャリ、という音を期待していたが、そういった音はしなかった。ちゃちな鍵なのでそんなものかと思いながら、しかし鍵は確かに回った。引き出しに手をかけ、力をこめると、長年使われていなかったことによる劣化によるものか、キィキィと音を立てながら、いかにも大儀そうに開いた。
そこに入っていたのは、二つ折りの一枚の紙切れだった。
取り出してみると、引き出しにしまわれていたからか、二十数年という年月の割に紙自体はそこまで劣化していなかった。
くるくると紙を回してみるが、外側には何も書かれていない。
畳まれた紙を開いてみた。
一言で表すのなら、それは地図だった。
小学生の俺が自分で描いたのであろう、稚拙な手書きの地図。
地図の上端には、太陽の上半分が描かれていて、その下に太陽よりも長い直線が真横に引かれている。日が沈むことを表しているのだろうか。
定規すら使わずに描かれた線はよれて揺らいでいるが、学校やその近辺の印象的な店の名前、ここの犬は良く吠える、といったト書き、果ては地図記号も駆使しながら必死に表現をしようとしていることが伝わってくる。そして、地図の一点に何度もぐりぐりと丸を付けてある箇所がある。
ここに行け、という意味なのだろう。
方角すら書いていない、地図としては落第もいいところな代物。なぜこれを描いたのか、この丸が示すところに何があるかまでは思い出せないが、しかしこの地図が示している場所は分かる。これは、俺が最後にいた小学校、すなわち樫山と出会った小学校の近辺の地図だ。
そしてこの丸の位置は、おそらく小学校のすぐ隣にあった神社のある山の中だ。
「……どうするかな」
この小学校は、神奈川の南の方だ。腕時計に目をやると、今が十四時前。ここからなら、二時間はかからずに着くだろう。日が沈むまでには間に合うはずだ。
少しだけ葛藤したのち、どうせ乗り掛かった舟だ、と行くことを決めた。平日はさすがに行く余裕がない。中途半端に気になった状態でこの一週間を過ごすより、完全に解決してすっきりしてしまった方が良いだろう。
地図を守り抜くという使命を果たし、今は空となった引き出しになんとなくもう一度鍵をかけ、鍵をポケットにしまった。
階段を駆け下り、リビングの父に声をかける。
「悪い、もう行くわ」
「なんだなんだ、慌ただしいやつだな。もう行っちまうのか」
「ちょっと用事ができちゃってさ」
父さんは呆れながら肩をすくめている。
「まったく。ほら、せっかく淹れたんだからコーヒーくらいは飲んでいけ」
そう言ってコーヒーの入ったマグカップを渡してきた。
コーヒーのことをすっかり失念していた。さすがにこれを飲まずに出ていくのは忍びない。
「ごめん、いただく」
両手でマグカップを受け取る。一口飲むと、思わずため息が出た。
「……おいしい。え、なんだこれ、おいしい」
心の底から出てきた感想に、父さんはいかにもしてやったりといった顔で喜んでいる。父さんのこういう顔を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「そうだろう。なんせ、豆から挽いてるからな。全然違うだろう」
「うん、インスタントは俺も良く飲むけど、なんか全然別物、って感じだ。なんだろう、香りが違うのかな」
「面白いくらい違うんだよな。本当は豆の焙煎もしたいんだが、それはもうちょっと先になりそうだ」
「コーヒー、昔から好きだったっけ? これもボケ防止?」
「はは、いや、実はお前が生まれる前は、結構好きでやってたんだよ。それこそサイフォン式でね。まああれも手入れが大変だし、小さい子がいて割れたら危ないし、いつしかやめちゃったんだ」
それは初耳だ。俺は俺が生まれる前の両親のことを全然知らない。
「まあそれで、最近は嘱託の仕事もしてるけど、結構暇でな。久しぶりにやってみるか、と思ったんだ。今はまだ、買ってきた豆を挽いてドリップしているだけだけどな」
「そっか」
上手く言語化のできない、胸に去来した思いをコーヒーと一緒に半ば無理やり流し込む。苦いというよりは酸味がきいていて、なぜだか少し切ない気持ちになった。
「ごちそうさま、おいしかった」
「はい、お粗末さまでした。もう行くんだろう?」
「うん、行くよ」
履き古してぼろくなったスニーカーをつっかけながら、玄関のドアを開ける。
「気を付けてな」
「うん」
そのまま出ていこうとして、思いとどまり振り返る。
「あのさ、また近いうち帰ってくるから、またうまいコーヒー淹れてよ」
父さんは一瞬キョトンとして、すぐに破顔した。
「ああ、いつでも帰ってこい。父さんも、腕を上げておくよ」
それ以上何かを口にするのは気恥ずかしく、一つ頷いて実家を後にした。
目的地に近づくにつれて、徐々に西日がきつくなってきた。日が沈むのもそう遠くなさそうだ。日の入りに間に合わせるため、少しだけスピードを上げた。
結果、懐かしの小学校に到着したのは十六時半頃だった。日は大きく傾き、西日が建物の隙間を縫って差し込んでくる。
目的地である神社のある山に着いた。入口に灰色の鳥居が一つだけあり、そこから延びるゆるい斜面に、鬱蒼と表現するには心許ない程度の木が並んでいる。
鳥居の先の斜面には階段がなく、整備もされていない土の上を歩いていくことになる。あちらこちらに木の根が張り出していて、何度か危うく転びそうになりながら、斜面の行きつく先にあるはずの拝殿へと足を運ぶ。
たまには体を動かすことを考えるべきかもしれない、家の近くのジムにでも行ってみようか、などと一時間後にはすっかり忘れていそうなことを考えながら、えっちらおっちら上っていると、やがて周囲を木に囲まれた、開けた平らな空間に出た。
空間の入口には坂の下にあった鳥居と同じものがあり、奥にはもはや神がそこにいるとは思えないほど寂れた、小さな拝殿がある。
暗くなってしまう前に上りきったことに安堵のため息をつきながら額の汗を拭う。
「さて」
ひとりごちながら、ポケットから地図を取り出す。位置関係で言っても、やはり地図の丸はここを示していることは間違いなさそうだ。
「……ん?」
改めて地図をよく見てみると、拝殿を表しているのであろう建物も描いてあるが、丸の中には含まれていない。少しずれているのだ。拝殿を背にして右斜め前のあたりに丸が付いているようだ。
その丸が付いているのであろう場所を探してみると、一か所だけ、明らかに木が少なく、ぽっかりと開いている空間があることに気が付いた。
そこを覗いてみると、思わず声が漏れた。
「おお……」
人工的に作られたのか、自然のいたずらかはわからないが、その空間から延びている視界だけ完全に開けていて、沈みかけの夕日の赤と黄金に照らされた小学校の校舎からその先の街の風景までが一望できる。
それは、美しいなどという言葉で片付けてしまうにはあまりにも鮮烈で、強く俺の心を揺さぶった。
そして、思い出した。
一人でこの山を探検しているときにたまたまこの景色を見つけて、自分だけの宝物にしようと思ったこと。
いつまでも忘れないようにと、地図を書いて、誰にも見つからないように机の引き出しにしまっておいたこと。
引っ越しで一番仲の良かった樫山と離れることになり、いつかまた会えたらこの景色を見せてあげようと鍵を渡したこと。
「これを見せたかったんだな、子供の頃の俺は」
新しいマンションが建ったり、古い店が潰れてなくなったり、当時の俺が見た景色と今俺が見ている景色は同じものではないのだろう。しかし今感じているこの感動は、きっと変わらない。
結局、日が沈みきるまで景色を見続けていた。
気温は下がってきているが、胸の奥は不思議な温かさで満ちている。
ろくに街灯などなく日が沈み一気に暗くなった山道をゆっくりと下りながら、ポケットの中から携帯を取り出して、電話を掛ける。
律儀にも鍵を持ち続けてもう一度この景色を見せてくれた樫山にも、この宝物をお裾分けしなくてはならない。
その為に、鍵を渡していたのだから。
「あ、もしもし樫山か? 悪いな連日。ああ、そう、その件。実は、見せたいものがあってさ……」
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