僕が押します

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僕が押します

タカがハルのマンションのエントランスに到着した。 「いま着きました」 タカからメールが届き、その後インターホンが鳴る。 ハルがドアを開けると、タカが立っていた。 「あ……タカさん……すみません、こんな」 タカは何も言わずに左手を伸ばし、ハルの頬に触れた。 タカの冷たい手に、顔がビクっと動いた。 「……泣いてたんですか」 「え?いえ、ただ気が動転してて、あの……おかしなことがあって」 「頬、涙がつたった跡がある」 「え!?うわ……、気づかなかった……」 ハルの頬に、くっきりと涙の跡が残っていた。 その跡を、タカが親指で優しくなぞる。 タカはハルに対し、申し訳なく思っているような、そんな表情をしていた。 「あ、見苦しい顔すみません!どうぞ、わざわざすみません、来てもらっちゃって」 ハルはタカをキッチン横のテーブルに通した。 「ここ、どうぞ」 「タカさん何か飲みま……」 「何があったんですか」 タカがハルの腕を掴み、言葉を遮って質問する。 「あ、あの、さっきこれ……」 ハルがCDプレーヤーをタカに差し出す。 「これは?」 「兄が、僕に聴かせてくれてたものです。子供の頃に」 「……ご両親が喧嘩してた時の?」 「はい。で、それを実家で聴こうとしたんです。でもなんでか分からないんですが聴けなくて。いや、機械的にはちゃんと動くんです。でも聴くなと抵抗する自分がいるような気がして」 「それってどんな感覚ですか?」 「指先が痺れて力が入らなくなるんです。それと、イヤホンを耳に近づけると耳鳴りと頭痛と……」 「……」 「何度も試したんですけどやっぱりだめで。タカさんに……相談したくなってしまって。すみません、いい歳して情けないですよね。自分のことなのに何から何まで」 「……」 「これって僕のその……」 「そっか。そうだったんですね」 「……」 「"視る"とかじゃなくて、何もしませんからハルさん手を貸してもらえますか?」 「え?はい」 ハルが両手をタカに差し出す。 「触りますね」 タカの手はいつものように冷たかった。 「こういうとき、本当は温かい手だといいんですけどね。温かいほうが、ほっこりして気持ちが軽くなるでしょ」 冷たいけれど、これがタカの手だ、とタカの冷たい手に包まれハルは少し気が和らいだ。 「すみません。何から何まで。なんだか今日は自分が、こんな歳でこのザマかよ、というか」 「謝らないでください。年齢とか関係ないですよ。ハルさんいま、自分の弱い部分にあえて触れているんですから。もっと僕を頼ってくれていいんですよ」 「……」 「それでこの音楽、ハルさんは聴きたいですか?」 「はい。ここまで聴けないと逆に気になるし、聴きたいです。そこも実は混乱してて。聴きたいと思っているのに、もう一人の自分が必死に抵抗する感覚があって」 タカは、CDプレーヤーを持ったまま黙って考えた 「じゃあ、先に僕これ聴いても大丈夫です?」 「はい、どうぞ。ここ、ボタン」 「ありがとうございます」 「じゃあ、聴きますね」 タカがイヤホンを耳に近づけ、再生ボタンを押す。音楽が流れ出す。 ピアノの音が流れ数分後、タカの表情が険しくなる。 その音楽にタカは聴き覚えがあった。 「これ……」 「え?知ってますかこの曲?どうですか?」 巻き戻しを押し、ある部分を何度も聴いた。 「……」 タカはその旋律に聴き覚えがあった。それはサエからもらったピアノの音色と酷似していたからだ。 「タカさん?」 「あ、いえ。これピアノの音です。普通に聴こえる」 「そうですか」 「もう一度、今度は僕と聴いてみましょうか」 「はい」 「いいですか?」 「はい……」 タカは左手でハルの手を握り、右手でイヤホンをハルの耳に近づける。そしてそのまま頬に触れた。 するとプツンっと何かが切れる音が響いた。 「あれ……今音が」 「……」 ハルの耳には、確かにプツンっと何かが切れる音がしたが、タカには聞こえていないようだった。 そしてハルの耳に、音楽が流れ出す。 「大丈夫ですか?」 「はい。……聴こえる。聴こえ……」 「ハルさん……?」 自分の頬に触れたままタカの手を、ハルは無意識に掴んだ。 CDが止まるまで、ハルは一点を見つめ黙ったまま聴いた。
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