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まるで屋台の暖簾でもくぐるような気軽さで、亜空間の中から榊博士は丸三日ぶりに帰ってきた。
「はぁー……疲れた、疲れた」
彼が出てきた、研究室の一角に開いた縦二メートルほどの空間の裂け目の奥はまるで深海のような青黒い一本道が果てしなく続いており、覗いているだけで吸い込まれそうな危うさがある。
「お疲れ様です、博士。いかがでしたか」
「うん、おおよそのデータは取れたよ。あとは数値化してプログラムに打ち込むだけ」
黒々とした髪をかき上げこともなげに言う榊に、中野は助手ながら尊敬を超えて空恐ろしさすら覚える。
榊博士は「一人で人類史を三百年進める」と言われるほどの頭脳を持ち、今は人類の夢「タイムマシン」の製作を行なっているところだが、実のところ、もうほとんど完成しているらしい。
榊が見つけた亜空間の道。そこは外の世界とは時間の濃度が異なり、道程の任意の場所に裂け目を作って出入りするだけで自由に過去と未来を行き来できる。
とのことだが、正直中野にはよく分からない。
だいたい亜空間と現実世界を繋ぐ裂け目は榊にしか作れないのだ。彼曰く「ポテトチップスの袋を裂く要領だよ」とのことだが、そんな感覚で時間旅行ができたらたまったもんじゃない。
天才なんて言葉すら生ぬるい。中野は時々、榊がやっていることは神に近しい行為なのではないかと思う。本来人間が踏み込むべきではない、神の領域。
「はぁ。もう一週間も家族に会えていないよ」
「これが終われば家に帰れますよ。さぁ、あともう一踏ん張りです」
ほとんど何もやってないくせにどの口がと榊は苦笑しつつ、カプセル型をしたタイムマシンに繋がれたPC端末を操って内部データに亜空間で取った時間軸情報をすらすらと入力していく。
マシンの起動ランプが緑色に点滅する。
「よし、OK。あとはマシン本体のボードに行きたい年数を入力すれば、未来に存在するこのタイムマシン内部へと繋がるはずだ」
「本当ですか!? すごい! 人類の夢の完成だ!」
中野が叫ぶのとタイムマシンの扉が開くのは同時だった。ばたんっと大きな音を立て、マシンの中から突然見知らぬ女性が現れた。
肩口まで伸びたサラサラの黒髪に、切れ長な二重眼。対照的にややボリュームのある唇。そしてナイフのように鋭く尖った鼻が、全体をクールな印象にまとめ上げている。端的に言ってとてつもない美人だ。
「だ、誰だあなたは! いつの間に中に!?」
取り乱した中野を美人の氷のように冷たい視線が捉える。こんな時になんではあるが、心臓がドキッと跳ねた。
「榊博士、ではないわね。どちら様かしら?」
「……そ、それはこちらの台詞です! 警察を」
「落ち着きなさい。中野くん」
いつものこともなげなトーンで榊が制す。
「これはタイムマシンだ。現代人の我々が未来に行けるなら、未来人が過去に行けるのも道理だ。そういうことだろう?」
「あなたが榊博士ね? さすがは人類史上最高の天才。話が早いわ」
未だ話についていけない中野をよそに、美人はにこりと人形のような笑顔を貼り付けて言った。
「黒澤と申します。三百年後の世界から、博士にお願いがあって参りました」
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