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目を見て、笑って
高校生活三年目、僕は恋をした。
こぼれた息が白い。
二月。しんしんと雪が降る中、僕は学校の中庭で、古びたベンチに座っていた。ベンチのそばに立つ銀杏の木は、すっかり葉が落ちている。
――きっと、来てくれる。
僕はかじかむ手をさすりながら、あの子を待っていた。
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高校三年生の梅雨の時期、僕はある夢を見た。
僕が教室で席に着いていると、あの子がやってきた。
あの子は顔を赤らめて、うつむきながら、
「今日、一緒に帰りませんか。」
と言う。
「いいよ」
と、僕は端的に了解した。
平静を装っていたが、内心ドキドキして、浮足立っていた。
明らかな好意を向けられるなんて僕には初めての経験で、心躍るものだった。
下駄箱のあたりで、ソワソワしながら彼女を待っていたところ、無惨にも目が覚めた。
良い目覚めだった。夢とはいえ悪い気はしておらず、むしろ幸せな気持ちになっていた。
――もしかして正夢になったりして。
僕はまだ夢を見ているような、ふわふわした気分で朝食を食べ終えた。
この夢から数日後、僕のクラスで席替えが行われた。
驚いたことに、隣の席には彼女の名前があった。
偶然か、運命か。
胸を高鳴らせながら初めて席に着いた時、あの子は言った。
「隣だね。やったあ」
笑った目元が可愛らしかった。
僕はこの言葉に撃ち抜かれ、かなり舞い上がった。華やかな物語が始まるような、そんな予感がした。
しかし、同時に卑屈な僕が現れて囁く。
――皆に言ってるかもね。だとしたら、がっかりだよなぁ。
卑屈な僕は、冷静で悲観的で皮肉な、もう一人の僕だった。嫌なやつだが、僕を守ってくれる存在だった。
僕の恋愛経験が少ないのは、こいつが原因だった。
こいつは、傷つくことを異様に怖がっていた。
しかし、あの子はそんな卑屈な僕を押しのけた。
僕の恋愛史に、華やかな爪痕を残した。
あの子は僕と目が合うと、女優みたいに目元キリッとさせて、キメ顔をした。そして、そのあと照れたように笑うので、僕もつられて一緒に笑った。
このやりとりが、僕は嬉しかった。
――僕以外にも、やるのかな。
授業中、眠たそうに机に伏せているあの子から、視線を感じた。目をやると、あの子はかわいらしい茶色の瞳で、僕を見つめていた。僕が視線に耐えられず、曖昧に笑いかけると、あの子も笑ってくれた。僕は幸せを感じた。
――笑った目元が、やっぱり可愛い。
お互いの進路の話をした。彼女の志望校を聞くと、僕も興味がある大学だった。それを伝えると、
「え、一緒にいこうよ!」
とあの子は言った。僕は嬉しくなった。ピンク色の花が、心でふわっとほころぶような、とてもあたたかい気持ちになった。
――進路、もう一度よく考えようかな。
この他にも、彼女はいろんな場面で僕をときめかせた。
だんだんと彼女の言動を、期待を持たずには解釈できなくなった。
卑屈な僕は消えていた。
――僕のことを好いてくれているのだろうか。もしそうなら言って欲しい、 きっといい返事ができるから。
僕は、おこがましくも、あの子から告白されるのを期待していた。
思春期の僕の恋心は、どんどん暴走していった。
自分に都合のいい妄想は、宇宙の如く無限に広がる。僕は図々しくも、付き合ったあとにあの子とどんな会話をするか、シミュレーションしていた。
その頃には、もはや妄想というより、思い込みに近かった。
卑屈な僕はいなくなり、恋愛相談をするような友達もいなかったので、僕の妄想のストッパーとなるものは無かった。
あの子に会えるから、学校に行っていた。僕はあの子に少しでも良く見られたくて、身だしなみに気をつかって、言葉遣いも柔らかくした。
そして、前より自分のことに興味を持てるようになった。
恋愛でこんなに自分に変わるとは、想像もしていなかった。
担任の気まぐれで、夏休みになるまで席替えは無かった。
僕は、卒業まで席替えがなければいいのにと思っていた。
僕は国立大学への進学を目指していたので、この夏は恋にうつつを抜かす気は無かった。しかし、夏休み中の学校の自習室で、あの子の姿を見た時は心の中でガッツポーズをした。
休み中もあの子に会える。
勉強で白黒に染まると思っていた夏が、この事実だけで鮮やかになった。
しかし。
夏の間、僕らは話すどころか、目を合わせることも一度もなかった。
――どうして、なんで急に
僕はうろたえた。何かしてしまったのかと、思いを巡らせる。
心当たりは無かった。
でも薄々、罪悪感を感じていたことがあった。
会話を始めるのは、いつもあの子だったこと。
僕から話しかけたことはほぼ無かったこと。
僕は「何もしない」をしていたこと。
目が合わない日々が続く中、あの子は自分から動かない僕に、愛想を尽かしたのだ、と結論付けた。
あの子が僕を好きだなんていう妄想は、ひどく勝手なのものだと気づいた。
僕らのつながりは、だんだんと朧なものになっていった。
僕は自分が口ベタだという自覚がある。
それ自体は悪いことでは無いはずだった。でも僕は、自分は根暗だからと言い訳をし、勇気を出すことや、考えることを放棄していた。それがいけなかったのだ。行動を起こさず、何かを得ようとするのは傲慢だった。
僕の恋心は、しゅるしゅるとしぼんで、自然に冷めていった。
自尊心は、前より一回り小さくなった。
唯一の救いは、勉強に集中できたことだった。
夏が暮れ、二学期が始まった。
あの子のもとに、他クラスの男子が通うようになった。背が高くて小顔で、韓国俳優みたいな、バレー部のヤツだった。
教室の扉のところにソイツがやってきて、それに気づいたあの子は奴に駆け寄り、休憩時間が終わるまで廊下で喋っている。
奴はどうやら、話も面白いようだ。
僕は夏休みの途中から、あの子を視界に入れることが辛くなって、なるべく顔を合わせないようにしていた。
あの子はもう、僕に話しかけてくれない。
尻に火がつくというのはこういう状況だ。僕は行動を起こさなければ、すべてが終わってしまうと思った。
「自分を変えなきゃ」なんて清らかな思いではなく、「ここで終わったらもったいない」という、わけのわからない貧乏精神が、僕を急き立てた。
僕は思い切って、ある朝、「おはよう」と挨拶をした。
多感な時期である僕にとって、女子への挨拶はなかなかハードルの高いものだった。
あの子はおはよう、と返してくれた。でも、わずかな違和感を感じた。
彼女が纏う空気に、なんとなく冷え切ったものを感じたのだ。僕に対する興味や関心が、彼女の中から、もうほとんど消えていることを直感的に感じた。
そっけない声でも無かったし、普通の挨拶だった。
僕の妄想という名の思い込みが、また暴走したのかもしれないが、もう真意は何でも良かった。
僕がそう感じてしまった時点で、多分、ダメなんだろうと思った。
夏休み中のあの、冷戦のような微妙な気持ちが渋滞して、最後の一押しとなったこの出来事で、何かが終わった。
一時的だったが、火山のように噴き上がって溢れた恋心は、今はコンクリートみたいに無機質なものに変わっている。
あの子がアイツと楽しそうに話すところを目にしても、他のリア充がイチャつくのを見るのと大差無くなった。最初こそ、胸がザワザワして落ち着かなかったのに、今では自分でもびっくりするほど冷めた目で見られる。
結局僕は、「ワンチャン付き合えそうな女子との関わり」に、心を踊らせていただけだったのだ。こう言ってしまうと、ひどく軽々しく最低なように聞こえる。
しかし実際、彼女に男の影が見えると、あっさり正気に戻ってしまうような、中身のない感情だったのだ。
僕は、薄っぺらな自分を知って、自己嫌悪に陥った。
そこから僕は、余計な感情は一切抱かず、ひたすら受験勉強に打ち込んだ。
ルーティーン化した勉強を、黙々とこなすうちに、僕は失恋から立ち直っていた。
11月の初め、あの子がアイツと付き合ったという噂を聞いた。その頃には、もうとっくに席替えをして、席は離れていた。
噂を聞いて一週間ほど経った頃。
掃除時間中、あの子が友達に「彼氏のとこ行ってきなよ」とからかわれているのを聞いて、僕の中で噂は真実になった。消えていたはずのザワザワが、また押し寄せてきて、僕は戸惑った。動揺が顔に出てしまわないよう、箒を動かす手は止めなかった。
頭の中に、様々な声が飛び交っている。
――アイツと付き合えてよかったじゃないか。楽しそうにしていたし。
――面白味のない僕といるより、アイツといるほうが、いいに決まってる。
――何も理不尽なことは起こっていないし、辻褄も合ってる。
――全く自然なことなのに、僕は、なんでこんな気持ちになっているんだろう。
その声は、いつか消えたはずだった、卑屈な僕のものだった。
心がぱっくりと裂けたようだった。真っ黒な傷口からは、何も流れ出でこない。
今この瞬間、僕は本当の失恋を経験したのだ。
あの時諦めたつもりだったのに、まだこの恋は終わっていなかったらしい。
ひんやりとした嫌な冷たさが、胸に広がる。
涙は出ない。でも、悲しいのは確かだった。
僕はまだ、彼女が振り返ることを期待していたようだ。
僕はゴミを捨てに行くという口実で、その場から逃げた。
背を向けたほうから、「声大きいよ!」と照れたあの子の声が聞こえた。
授業が始まり、いくつも共通テストの過去問を解かされるうちに、ザワザワはいつの間にか消えていた。僕にとって、勉強は気を紛らわせるいい薬だった。
十二月初旬、推薦入試の面接と小論文の試験を受けた。推薦といっても実質は、共通テストの点数が合否を左右するので、気を抜けなかった。
僕は勉強に明け暮れた。
冬休みはあっという間に終わる。起きて勉強し、食べて勉強し、寝て起きて、また勉強して過ごした。
共通テストを乗り切り、二月の初旬、僕は第一志望の国立大学に、進学が決まった。
それまでの反動か、僕は、勉強に全く手をつけなくなった。
本好きの僕は図書館にこもり、興味のあった小説を、片っ端から読み漁った。
風の噂で、あの子は推薦が上手くいかなかったことを聞いた。そこでまた、卑屈な僕が湧いてきて、
――彼氏ができて、浮ついたせいなのでは?
と囁いた。僕を慰めているつもりなのだろう。
しかし完全に「非リアの遠吠え」である。
恥ずかしくなったのか、卑屈な僕はすぐに消えていった。
しばらくして、彼女に告白をしようと思い立った。
ずいぶん思い切りのいい話で、僕自身も、とても驚いている。
図書館で本を読むうちに、自然と自分の心が整理されていくのがわかった。
視界がクリアになって、自分が何を望んでいるのか、心の深いところが見えてくるようだった。
受験勉強は、失恋の痛みから僕を解放してくれたが、視野も狭めていたようだ。根本的な解決にはなっていなかったのだ。
僕は倫理の授業で習った学者のことを思い出していた。夢というのは、自分でも気が付かない深層心理を表している、と言った学者だ。
僕はあの夢を見た時にはすでに、どこかあの子に惹かれていたのかもしれない。
心の中で冷え固まっていた火山が、小さく噴火した。
――あの子と、話したい。
もう完全に終わったと思っていたものが、再び熱を帯び始めた。
僕はスマホの写真フォルダを開いた。9月にあった球技大会で、クラスチャットに送られてきた写真。ソフトボールでホームランを打ったあの子が、笑顔でVサインをして写っているのを、僕は保存していた。
写真の笑顔は、いつか僕に向けてくれたものだった。
僕の心には、彼女に惹かれていていた時の、あの、あたたかな気持ちが戻っていた。
僕は個人連絡ができるアプリで、あの子にメッセージを送った。
『今日の放課後、時間があれば、校庭のベンチに来てくれませんか。話したいことがあります。』
チャット上といっても、半年ぶりの会話だった。僕は何度も文章を考え直し、あまりにも考えすぎた結果、敬語で送ってしまった。昼休憩に見返した時、少し後悔した。しかし、すでに既読が付き、
『うん、いいよ。』
と返信があった。
とりあえず断られなくてよかった、と僕は胸をなでおろした。
場所の決め手は、人があまり通らないことだった。
残念なことに、僕の高校では屋上に上がることは禁止されている。体育館裏には一年生の自転車小屋があるので、人通りが多い。
よって、全くロマンチックではないが、隠れた穴場である校庭隅のベンチを選んだ。
今日は一、二年生はテスト前なので、部活動はどこも休みだった。いつもはサッカー部が練習している校庭に、今は僕一人でいる。
あの子はまだ来ない。
ついさっきから、雪が振り始めた。量は少ないけど、風が出だしたら困るな、と思った。
心臓が痛いほど打っている。極度の緊張で、息も詰まった。
あの子を待つ間、色々な考えや感情が、浮かんでは消えた。
雪が振り始めてから少しして、校舎から一人の女子生徒が出てくるのが見えた。あの子だとわかった途端、今までよりさらに強く、心臓がドクンと波打つ。胸のあたりがスースーして、自律神経がめちゃめちゃになっているのがわかった。
僕に気づいたあの子は、走ってこちらにやって来た。
「ごめんね、遅くなっちゃって。進路のことで、先生につかまってて。」
「――っいいよ、全然。大丈夫。」
あまりの緊張に、最初の'い'の音が出なくて焦る。
「ありがとう。あの、話って?」
彼女の息が白く染まって空に散った。
「、、あのっ、あ、あの、ぼ、僕――、」
声が震えすぎて上手く喋れない。情けなくて泣きそうになる。
「うん」
彼女は真剣に、僕を見つめる。短い言葉なのに、なかなか声にならない。
野球の空振りのように、僕は口をパクパクさせて、何度も言葉を言い逃した。無様な姿を存分に晒してから、僕の口はやっと言葉を発した。
「あ、あ、あの、、」
大きく息を吸って、僕はしっかりと彼女の目を見た。
「君が、す、好きでした。」
彼女が次の言葉を発するまでが、永遠のように感じた。
でも一瞬で過ぎたような気もした。
頭がグワングワンして、わけがわからなくなる。顔が熱い。手の汗もすごい。僕は視線を落とす。
「――ありがとう、ほんとうに。伝えてくれてうれしい。」
僕は小さくうなずくことしかできない。
二人の間に沈黙が流れる。
僕は、付き合ってなんて、言うつもりはなかった。ただ好きだったと、彼女に伝えたかった。
「ごめんね」
と僕は言った。
だってこんなのは、彼女をただ困らせるだけだとわかっていたから。
彼女は少し驚いたように、目を丸く見開いた。彼女の口元が、ふっと緩んだ。
「私も、ごめんね。」
僕の唇は、きゅっと結ばれたままだった。
彼女が謝ったのは、僕の気持ちに応えられないことに対してだったのだろう。
でも僕には、「期待させてごめん」と、言ってくれたように感じられた。
僕が勝手に、彼女を好きになっただけだったのに。
「いいよ、全然。いいんだ。聞いてくれて、ありがとう。」
声はもう震えなかった。僕は精一杯の笑顔を作った。きっと上手く笑えていないし、涙も出そうだった。でももう、これでいいんだ。
雪がさっきよりも強くなってきた。
もう僕らは、笑い合ったりしない。
でも、優しい瞳をして、ちょっと悲しそうに、互いに目を合わせている。
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