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*二十八章の弐
ようやく心から笑い合えてほっとして、ぼくらはみすみ庵の稲荷寿司をまた食べ始める。
やっぱりここのお揚げは最高だなぁ……そう思いながら、口の中に広がる甘みの強い味をうっとりと味わう。
障子をあけ放った縁側からは梅雨前の強い陽射しが射し込んでいて、濃い青い空が見えている。
「そう言えば緋唯斗さん、つわりは落ち着いたみたいですね」
朔良さんに言われて、ぼくも今更に気づいた。そう言えば最近お揚げとか稲荷寿司以外のものも美味しいし、気持ち悪くなることも殆どなくなった。
そうかもしれません、とぼくが答えると、「じゃあ、もうすぐお告げがありますね」と、朔良さんは嬉しそうに言う。
お告げ……その言葉に、ぼくは飲みかけていた食後のお茶の手を止めた。
そう言えば金路の家からの帰り道に、不思議な夢を見たんだっけ……何か前に夢に見た時とは違うところにいて、それから……
「……赤ちゃんは、女の子だって、言われました……」
ぼくはお腹に手を当て、わずかに膨らみ始めた辺りをさすりながら呟くと、縹さんも朔良さんも飲みかけていたお茶をちゃぶ台に置いて目を丸くしてぼくを見る。
「え? 誰にですか?」
「え、っと……夢の中で、お狐様にお役目を代わってもらったって、薄紫の耳の人が……えーっと……」
鈴の音が、ぼくの耳の中に響く。丹塗りの柱の建物、白い狐のお面に、巫女服姿の……――かすみがかかったような記憶の中に、薄い紫のふわふわとカールした髪が揺れる。
ぼくが頭を抱えながら記憶をたどっていると、「――その方は、薄紫の緋唯斗のようなふわふわとした髪をしていませんでしたか?」と、後ろから声をかけられた。
ぼくが頭をあげて振り返ると、縹さんと朔良さんが来る少し前にお茶菓子を参道のお菓子屋さんまで買いに行っていた紺が帰ってきていた。
紺は唖然とした顔でぼくのそばに座り、「緋唯斗、あなた……夢で、その方と話を?」と言い、ぼくが恐る恐るうなずくと、紺は白銀の眼にいっぱいに涙を浮かべた。
「――紫音です……その方はきっと、紫音です……」
「えっ……」
「彼女は、何と言っていましたか?」
「赤ちゃんが、女の子だってことと……自分はお狐様の側仕えになる、ってことと……それから……」
「それから?」
「紺を、頼む、って……」
ぼくの言葉を聞いて、紺は深く安堵したように息を吐いて、縹さんと朔良さんがいるにもかかわらず、ふたりの前でぼくを抱きしめてきた。
「そうですか……彼女が、そう、緋唯斗に……」
紺の涙が、ぼくにはらはらと降り注ぐ。それはあたたかでやさしい雨のようだ。
紫音が行方知れずになってしまったこと、見つけられないまま縁が切れてこの世からいなくなってしまったことが紺はずっと気がかりだったのかもしれない。
好きだったとか恋人だったとかというのを抜きにしても、深い関係にあった相手が自分の前から消えてしまって行方が知れないままもう二度と会えないのは苦しいことだと思う。
それはもしかしたら……紫音も同じだったのかもしれない。何も言えないままにもう二度と逢えなくなってしまったんだから。
お狐様の許で生まれるのを待っている赤ちゃんの魂は妖力の塊だって朔良さんが最初に会った時に言っていたのを思い出した。
だから、いま一番お狐様との距離が近い赤ちゃんを宿しているぼくに、お狐様にお役目を代わってもらってまでして、もう心配しなくていいって紫音は伝えに来たのかもしれない。
都合のいい解釈だって言われるかもしれないけれど、それがなんだか一番しっくりくる気がしたから、ぼくはただ紺の涙を受け止めていた。
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