夢の底まで会いに来て

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──夢が夢であることを認識出来る時は往々にしてあると思う。例えば森の中、たとえば海の底。例えば雲の上。そんな場所に居るのは夢だからに他ならない。 俺は海の底に居た。風も光も届かない真っ暗な深海。手を伸ばせど自分の指先のかたちすら認識出来ず、個が個として存在していることも分からない。全てが母なる海に包まれ揺蕩う感覚が心地よく、また、そこはかとなく不気味でもあった。 「──……?」 それでも闇のなかで目を凝らしていれば、やがてとおくに見えるものもあるわけで。熨斗目花よりもいささか錆びついた色が満ちる視界に微かな光が写った。暗さに慣れたまなこにその光は眩い。眉間に強く皺を寄せて一歩一歩そちらへと歩んでいく。 ──……光の先には、ひとりの少女が居た。 すすり泣いているのであろう、震える細い肩。その輪郭は徐々に少女自身が発する光に食われていく。淡い燐光に包まれ崩れていく身体に触れようとすると彼女は首をゆるゆると左右に振って拒否を示した。 「──、……」 なぜ泣いているのかと問おうとしたところで俺は自分の声が出ないことに気が付いた。慌てて喉を摩ってみるも音が形となって舌に乗ることはなく、息を吸おうとしても普段の呼吸の半分も肺に取り込めない。 少女はまだ、泣いている。 「──」 ──気管が狭まり喉が細く鳴く。夢にしてはひどく現実的だと意識の外で自分自身が冷静な判断を下していた。背中には冷たい汗が伝い、手足の指先まで酸素が行き渡らずにだんだんと体温が下がり痺れていく。やがて伸ばした手は小刻みに震え始めた。 苦しい、苦しい、苦しい。 「──……っ……!!」 これは夢だという意識とこのままでは生命の維持が危ういという本能がせめぎ合う。静かな恐慌に浸されていく自我が、夢なら早く醒めろと絶叫していた。 そのとき。 光に輪郭を食われ、その形を失いつつある少女が不意にこちらを向いた。視線が絡んだ瞬間に俺は本当に息が止まってしまったかのような錯覚を覚える。 「──!!」 なぜなら少女の顔貌は幼い頃に離れ離れになった妹に瓜ふたつだったのだ。彼女は涙の名残もそのままに光の粒をまとった長い睫毛を瞬かせると、俺に向かって柔らかく微笑みかける。 待ってくれ、どういうことだ。なんでお前が。 いや、それよりも。 行かないでくれ。頼む。行かないでくれ。 俺はまだお前に伝えられてないことがたくさんあるんだ、夢ですら会えない夜を何回も越えてきた。 やっと会えたんだ、頼む。行かないでくれ。 まだ、もう少し。もう少しだけ。 「──……!!」 俺は持ち得る限りの思いの丈を叫んだ、──つもりだった。だがそれは儚い気泡となってむなしく口から溢れだすだけ。音となって少女に伝わる気配はない。 幼い妹の顔貌が、徐々に崩れていく。 待ってくれ、待っ──……!! 「──……っ!」 俺はベッドの上で勢い良く飛び起きた。読書灯も消した室内は暗闇に包まれており、まるで先ほどの夢の続きのように一寸先も見えない。無意識に喉を摩ったところで呼吸が普段通りに出来ていることを確認する。吸って、吐いて。吸って、吐いて──今まで見ていた夢に帰りたいとも、帰りたくないとも取れる言葉を小さく零した。 「……今さら何の用だよ」 彼女に会う手段は、現実ではもう存在しないのだ。 夢で会うしか願えなかったというのに。夢で会いたいと願わなかった日は一日たりともなかったというのに。今さら、今さら出てきていったい何を伝えたかったというのか。 ……俺は読書灯のあかりを点け、寝る前に読んでいた本へと視線を送る。ページの角が丸みを帯びて何度も捲られた形跡のある本だ。表紙には可愛らしい書体で『人魚姫』とタイトルが印字されていた。
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