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待つべき人
房江は高齢であり、施設に入っていた。認知症とは悲しいもので、彼女とて、例外ではなかった。ある日の事であった。房江は施設外に出ようとしたのだ。それに気づいた施設職員は房江をとめた。
「そろそろ、おいとまさせていただけないでしょうか?」
「房江ちゃん、おいとまって何?」
「そろそろ、行かないと哲夫さんが待っています」
「哲夫さんって誰?それに房江ちゃんの家はここの老人ホームよ」
「いえ、赤い橋で満月の夜に哲夫さんが待っているのです」
時は大正時代に遡り、房江の若かりし頃の話である。
雨が降っていた。雨は降っていた。雨は涙色で次第に雪へと変わり、房江の黒髪に積もっていった。それを拭おうとせず、房江は赤い橋で哲夫を切なくも待っていた。それは満月の夜であった。満月の夜が静かに房江を覆っていた。
「房江さん、お待たせしました。申し訳ありません」
「哲夫さん、もう来ていただけないのかと思っておりました」
「さあ、この赤い橋を渡って行きましょう」
「本当に大丈夫なのでしょうか?」
「この橋を過ぎたならば、そこには私達の行くべきところがあるのです」
「はい」
吐く息は白く、そう、房江は小さくうなずいた。そして、奉公先から哲夫とともに後にしたのだ。
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