明治編

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明治編

「月太郎、早よ起きんか!」  光子に尻を叩かれても、月太郎はまだ布団から出ようとしない。 「早起きは苦手なんだ。勘弁してくれよ」 「腰抜け月太郎! 早よ起き!」 「その呼び名はやめてくれよぉ」  「腰抜け月太郎」の汚名は村中に知れ渡っていた。新時代を迎え、血塗られた戦場から帰還した月太郎は、本来なら村の英雄のように祭り上げられても不思議ではない。だが月太郎は、凱旋とは思えぬ泣きっ面で皆の前に現れたかと思えば、妻の光子に縋り付きわんわんと大泣きしたのだった。  木南月太郎という名のこの男は、動乱の京都を生き抜けるだけの確かな力量を持った侍であった。倒幕という一つの正義を貫かんとする意思もあった。だが、それらが全て陳腐に思えてしまうほどに、月太郎は情けない男だった。  月太郎は血を見るのが恐ろしかった。刀で人を斬る度に、斬った人間から吹き出るその血を見て、十七にもなる男一匹が泣きべそをかくのであった。  妻であり幼馴染みの光子は、子供のように泣きじゃくる意気地なしの月太郎を見て呆れた。しかしそれ以上に、月太郎が無事に帰還した事に安堵し、結局は光子も涙を堪えきれず二人揃って泣いて抱き合ったのだった。そんな泣き虫夫婦を、村人達は微笑ましい目で見守るのであった。  光子は月太郎から刀を受け取ると、こびり付いた血を丁寧に拭き、蔵の奥に仕舞った。もう二度と、月太郎が人斬りの悪い夢に魘さないように。  明治の世になると、月太郎と光子は団子屋を始めた。誘ったのは月太郎の方だった。  団子作りを舐めていた愚か者の月太郎は、団子作りに必要な工程を遂行する為に早起きせねばならない現実を、今更突き付けられていたのだった。 「こら月太郎! 阿呆太郎! さっさと準備して作らんと、私等は飢え死にするぞ!」 「光子の鬼! 悪魔! 死神! 閻魔!」 「えんまぁ!?」  最早これが木南夫妻の日常であった。しょうもない事で怒り、嘆き、そして笑う。光子にとっては愛する人を失う恐怖から開放され、月太郎にとっては人を殺める絶望から救われ、互いに待ち望んだ平穏な生活が訪れていた。  そんなある日、村ではとある噂話が広がり、少々騒ぎになっていた。月太郎とよく酒を交わす六助という村の青年が、団子の串を作る材料を取りに竹林へ向かおうとする月太郎を呼び止めた。 「おい月太郎。お前、今日もあの竹林に行くのか? あそこは危ねえぞ。あそこで“のっぺらぼう”を見た人が後を絶たねえんだ!」
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