重ねた旋律

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 会場はお客さんで溢れていた。満席とは言わないけれど、多くの席が埋まってきたのを藍佳はずっときょろきょろしながら眺めていた。音楽雑誌は山ほど読んできたし、自身、ピアノに触れる機会は多かった方だったけれど、ホールに来てプロの生演奏を聞くというのはこれが初めてだった。彼はもうプロなのだ。  ピアノの音が、楽器の中で一番好きだった。トンと鳴らされたときのあの透き通った音色。低音のお腹に響くような音。均一に定められた音階が、まるで生きているかのように紡がれていくあの音楽が好きだった。  目の前の大きな黒い塊を見たとき、なぜか緊張が体を走るのが分かった。私が演奏するわけでもないのに、藍佳は自分でもそう思いながら目の前のグランドピアノを見つめた。今からコンちゃんが出てくる。雑誌では何度も見た、今の生のコンちゃんが。昔の面影を残しながら、それでもずっと大人になったコンちゃんが。  開演のアナウンスが流れると、会場は一気に暗くなった。さっきまでざわざわしていた会場内が一斉に静かになる。もう、出てくるのだ。彼が。  舞台袖から颯爽と現れた燕尾服の彼を見て、ドキッとする。凛とした表情。ここが自分の居場所だと言わんばかりの堂々としたいでたち。誰もなにも、彼を遮るものはない。そういう顔をしていた。  ピアノに付く前に客席に向かってお辞儀をする。顔を上げた直後、彼と目が合ったような気がした。彼が急にこちらに視線を向けたのだった。微かに笑みを滲ませると、俊はピアノに向かっていった。  手を鍵盤に乗せると、一瞬だけ目をつむって僅かに上を向いた。これは彼の儀式なのかもしれない。深呼吸しているように見えた。そして、最初の一音が鳴らされた。  最初はだれもが聞いたことはあるだろう、ベートーベン、ピアノソナタ第14番「月光」だった。第一楽章は、私が小六のときに発表会で弾いたものだった。第二楽章は一気に難しくなるというので、先生に第一楽章を薦められたのを覚えている。今や音楽オタクと化している藍佳にとってはとてもポピュラーすぎて驚いたが、演目を見ないでいたのは当日の楽しみを取っておきたかったからだ。静けさの心地良さ、胸に直接響いてくるような高音の主旋律に支えるような低音が寄り添う第一楽章。  曲目が進むにつれて、静から動へと曲が変わっていく。空気が震えるのを感じた。低音が、高音と混ざり合い、会場の空気を振動させている。躍動する音の粒たち。粒は塊となって、流れとなり、濁流になる。その奔流に飲まれるように会場はより一層静けさを増したような気がした。もう、ピアノ以外の音はなにも聞こえない。皆、息を潜めているようだった。  長い指、大きな体、長い脚。体全体でピアノを弾く彼は、もうあの幼い俊なんかじゃなかった。ピアノが友達みたいに楽しそうに弾いていた彼ではなかった。今や彼にとってピアノは体の一部となっているのだと強く感じた。長い長い、けれど一瞬のような時間だった。
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