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「く……わたしの中の堕天使が暴れている! ふ、ふるえが止まらないッ!」
両腕に包帯を巻き、右目に眼帯を付けたクラスメートが一人、呻き、机に突っ伏し始めた。
高校二年生になり、新しいクラスになった直後の出来事だった。
「また、始まったよ」
そう、誰かがつぶやく。だが、それ以上、誰かがマドカに反応を示すことはなかった。それでも、マドカは独り呻き続けている。
「あいつ……えっと、マドカだっけ、いつまで中二病やってんのかね?」
わたしの前で紙パックのジュースをじゅこーと飲んでいるカナが言う。カナの視線は中二病を発症しているマドカに向けられたままだ。
「いつまでだろうね」
わたしもそれに同調する。マドカの中二病は学校内で広く知られている。最も、一年生の時は違うクラスだったので、詳しくは知らないが。
「でも、中二病発症したのって、高校一年の三学期らしいよ」
同じ部活の友達から聞いた情報をカナに伝える。
ジュースを飲み終えたカナは、紙パックをつぶした。
「随分遅い発症だったんだな。アニメの影響か?」
「アニメ見たからって発症するもんじゃないよ」
「それもそうだな」
アニメを見てるから中二病を発症する、わけではない。わたしもアニメが好きだが、見ての通り、普通の学生だ。ちょっとテストの点数は低めだけど。でも、それだってアニメのせいじゃない。実力の問題だ。
ふとマドカを見ると、太ももに新たな包帯が巻かれていた。昨日まではなかったはずだ。また、増やしたのだろう。
「ちょっと、ゴミ捨ててくるわ」
カナは立ち上がり、マドカの隣を通り、紙パックをゴミ箱に捨てた。帰ってきたカナはなぜか眉間に皺が寄っていた。
どうしたの、と聞こうとした瞬間、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
カナは険しい顔をしたまま、自席に戻っていった。
翌日。
マドカの眼帯は外れていた。その代わりに、右頬にガーゼが貼られていた。天使の羽根が描かれている。
「うう……痛む。わたしの古傷が痛む……」
マドカはまた一人呻き出した。古傷が痛むとは、また中二病っぽい言い回しだ。というか、言いながら触れているのは右頬だ。それを言うなら、古傷ではなく、新しい傷だ。
思わずツッコミたくなるが、我慢だ。マドカに絡めば、わたしだって色物扱いされてしまう。
騒がず、目立たず、ひっそりと生きる。それがわたしのモットーだ。
「……カナ、どうしたの?」
カナはじっと中二病のマドカのことを見つめていた。
「何か気になる?」
「……いや、何と言うか」
カナは眉間に皺を寄せながら、歯切れの悪い言い方をした。カナは物事をはっきり言うタイプで、奥歯に物がはさまったような言い方を嫌う。
わたしはどちらかというと、カナの嫌いなおどおどした話し方をする傾向があるが、カナ曰く、わたしは良いらしい。何で良いのかは、カナ自身もわかっていないそうだ。
だから、カナの言い方が引っかかった。らしくない。
「いつものことじゃない? マドカが中二病を発症してるのは?」
「……本当に、発症してるのか?」
「どういうこと?」
思わずぐっと眉間に皺が寄ってしまった。
「……あいつの呻き方、わたし知ってるんだよな」
カナはマドカに双眸を向けたままだった。目が離せないのではなく、目を離したらいけない、と思っているように感じた。
しばらくそうしていたかと思うと、カナの目が突然見開かれた。そして、憂いに帯びた目に変わった。
「……ああ、そういうことか」
不意に、カナが立ち上がった。
「ど、どうしたの?」
「悪い。わたしがやらないといけないんだ」
カナは大股でマドカのところへと向かって行った。
カナはマドカの目の前に立つなり、その腕をつかんだ。
「痛ッ!」
マドカの顔が苦痛に歪んだ。中二病的に痛いのではなく、本当に痛かったのだろう。
でも、カナは普通につかんだだけに見えた。少なくとも痛みを感じるような強さじゃない。
わたしは慌てて、カナの元へと走ろうと席を立つ。
「わたし、力はほとんど入れてない。腕をつかむだけでは、痛みに顔を歪める程じゃない」
「……そんなこと、ない。腕をつかんだだけでも十分痛い! ああ、痛い! わたしの中の堕天使があふれ出てしまう! そうしたら!」
「だったら、どうなるんだよ?」
カナは低い低い声で言い放った。
わたしの体は、硬直した。カナの元へ走ろうとした足が、前に進まなくなる。生物的な危機感が発動した、としか言いようがない。カナの雰囲気は鬼気迫っていた。
教室中も静まり返っていた。異様な空気を感じ取ったのだろう。教室中の視線が二人に注がれていた。
「どうなるんだよ、って聞いてるんだけど?」
カナの言葉、声色にマドカは怯えた表情を見せた。
「ねえ、どうなるんだよ? 教えてくれよ」
マドカは答えない。ただただ怯えるだけ。
止めた方がいいのか……そう逡巡していると、カナが突然言い放った。
「マドカ、あんたの中二病の発症のきっかけ、当ててあげようか?」
その言葉に、マドカはさっと顔色を変えた。
「やめてッ!」
それは懇願に近い叫びだった。
「それだけは、やめてッ!」
マドカはカナにすがっていた。文字通りだ。カナの腰にすがっている。涙を浮かべ、眉を下げ、わなないている。
カナが鎌をかけただけかもしれないのに、そんなことが微塵も過っている様子がない。
普段のマドカからは想像もつかない、弱り切った表情だった。
「……やっぱりか」
カナはふっと短く息を吐いた。そして、膝を折り、マドカと目線を合わせた。
「ごめん」
言いながら、カナはマドカの頬にある天使の羽根が描かれたガーゼを、躊躇なくはぎ取った。
――ビリリッ!
聞いているこちらまで痛みが伝わってきそうな、痛ましい音が響いた。
けれど、その痛みは大した痛みじゃなかった。
マドカの頬にある青くて、大きな痣に比べれば。
教室がさらに森閑とした。言葉にならない。言葉として何も出てこない。
ただ感じる感情は、恐怖だった。マドカが受けただろう暴力の跡に対する恐怖だった。
「こ、転んだだけ!」
「これでも?」
カナは右腕の包帯も取り去った。そこには火傷の跡があった。
「これ、根性焼きだろ? 恐らく、たばこの火を押し付けられたってところだろ。違うか?」
「ち、違う!」
「……この期に及んで、まだ否定するか。まあ、わからんでもないけどな」
カナは先ほどとは打って変わり、マドカを心配するような、優しい声色だった。
しかし、その声色とは反対に、強引にマドカの包帯の全てを取り去っていた。
教室は、もう、マドカに対する偏見を失っていた。
代わりに向けられていたのは、マドカを心配する気持ちだけだった。
マドカの体には痣や火傷の跡が無数に刻まれていた。
もうみんな理解していた。マドカが中二病を発症した原因を。
ドメスティックバイオレンス。家庭内暴力だ。
それがマドカの中二病の発症原因だ。
マドカは家庭内暴力を隠すために、包帯をたくさん巻いていても問題ないように、中二病を発症した。痛みで呻いていても、誰からも悟られないようにするために。
痛ましいとしか言いようがなかった。
「……警察に行こう」
カナの声にマドカは首を振る。
「ダメ。警察に行ったら、お母さんと弟を守れなくなっちゃうから」
「まさか……あんた、一人で暴力を受けていたっていうのか!」
マドカはすっと目をそらした。それは肯定に他ならない。
「お父さん、昔は優しかったんだ」
目に涙を浮かべながら、話し始める。
「でも、ケガをして、仕事ができなくなってから変わってちゃったんだ」
もう、マドカは中二病ではなかった。いや、それどころか、その精神年齢はわたしたちのはるか上を行っている。その不必要な経験値もはるか上を行っている。
「わたしが、わたしが我慢すれば、きっと、また、優しいお父さんに戻ってくれる日が来る! だから、その時まで……」
「んなもん、待てるかッ!」
カナが話を遮った。マドカの胸元をつかんだ。体が持ち上がった。
なんて力だ。いや、普段のカナにそんな力はない。本気で怒っているんだ。本気で心配してるんだ!
「その間にあんたが壊れるッ! 壊れたからじゃ遅いんだよッ! 失ってからじゃ、遅いんだよッ!」
カナの熱を帯びた双眸が、マドカを捉えて離さない。
「今だよ……。今しかないんだ……。今を変えるのは、この瞬間しかないんだよッ!」
マドカの瞳が揺れた。涙が滲んでくる。瞳が濡れる。
マドカがぎゅっと目を瞑った。
「で、でも……ッ!」
マドカが自分の腕を強く強くつかんだ。
マドカに刻み込まれた傷は、相当に深いことが嫌でもわかる。わかってしまう。
その直後のことだった。
――パァァァァァァァァァンッ!
一瞬にして、教室は静まり返った。水が一滴でも落ちれば、それが教室内に響き渡る程に。
カナは渾身の力でマドカの頬を叩いていた。
そして、思い切り抱きしめた。
「マドカ! お願いだから、目を覚ませ! 負けるな! 理不尽な暴力なんかに屈するんじゃねえッ!」
カナはマドカのやせ細った、弱弱しい体が、逆のくの字に曲がる程、抱きしめた。
マドカの目に、涙が浮かぶ。
そして、涙が零れた。
それが、マドカの新たな始まりの合図となった。
「怖かった。怖かった。怖かった。怖かったよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
マドカの慟哭が教室を抜けて、学校中に響き渡った。
「ずっと、ずっと、ずっと、怖くて、怖くて、怖くて。だけど誰にも助けを求められなかった! 助けて欲しかったけど、何も言えなかった! 暴力をふるうお父さんの鬼のような形相がフラッシュバックして、何か言ったら、もっと酷いことされるんじゃないかって、怖くて怖くて怖くて! ママと弟に対して何かもっと酷いことするんじゃないかと思って、怖くて怖くて!」
マドカは子供のように泣きじゃくっていた。今まで我慢していた涙が、堰を切ったように、溢れ出していた。
カナはマドカを抱きしめながら、頭を優しく撫でた。
「一人でよく頑張った。でも、大丈夫。わたしたちがいるから」
カナはマドカをそっと離した。
「……ねえ、みんな」
カナの声に、教室にいるみんなが……いや、騒動を聞きつけて来た学校中の生徒が、先生が、大きく深く頷いた。
「みんな、マドカの味方だよ」
一瞬、マドカの涙が止まった。その見開かれ、揺れる双眸が、周囲を見回す。
そして、マドカは再び泣き崩れた。
みんなが駆け寄り、抱きしめる。そして、口々に謝罪の言葉と味方であることが告げられていく。
でも、その輪にカナはいなかった。
「大変なのは、ここからだよ。だけど、大丈夫。みんな、味方だから。みんな、あんたの味方だから」
カナは喧噪の中、一人、静かにそう 口にしていた。
~FIN~
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