原初の雪の思い出~snow ball earth~

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 脆弱な肉体。恵まれない境遇。そういう立ち位置に生まれてしまった者にとって、この世界は悪夢のようなものだ。まさしくそのように生まれついたものだから、(われ)は常々そう感じていた。  吾ときょうだいの生物学上の実両親は、堕胎できる伝手も金も持たず、惰性で吾らを生み落した。生んだ以上は死なせてしまうと犯罪と咎められるから、物心つくほんの少し前までは養育して、結局はそれに飽きたのかこの街を捨てて姿を消した。唯一の血縁であるきょうだいも救いようのない性根の犯罪者気質で、関わり合っても百害あって一利なし。  あらゆる者に門戸を開く、神の家。そこで分配される僅かな施しによって生き延びた。成長期に必要な栄養を摂りきれなかったこの体は、男子の平均的な体型に育たなかった。身丈も肉付きも。  吾の生まれた時代、故郷の港町ミラトリスは治安も民度も劣悪だった。成人した吾は無難に海運商の下働きになった。海には出ない、港での運搬作業をするばかりの雑用夫だ。成人男子としては遥かに頼りないこの体躯、その限界を超えているであろう重量の荷物を運ぶ。延々と。いつ、力尽き、倒れても不思議ではない。  ある日、吾は帰宅途中の路地裏で膝を着いていた。この街で、そのような隙を見せたら最後……そう間もなく、悪臭を放ついくつもの薦被りが物影から這い出して、取り囲んでいく。  ミラトリスの水夫は伝統として、首元に結べば臍まで垂れる長い布(バンダナ)を巻いている。それは街で暴漢に襲われた際、その布を解いて相手の首を絞めて抵抗するためだという。しかし、元より非力ですでに力尽きている吾には無意味な装備でしかない。たとえ万全であろうが、これを活用して立ち向かい、逃れられたものなどいるのだろうか……。 「それ以上近寄るな。彼に触れた手は、この刃で躊躇わず切り落とす」  眼前にまで伸びてきていた、枯れ枝のような指先がぴたりと静止する。  次の瞬間には周囲に集っていた布の固まりが蜘蛛の子を散らすように退き、吾の眼前には刃物の先端があった。宣言して一拍の間もなく進み出て、指のあった場所に刃を持ってきた。こけおどしではない、と、いうことなのだろう。  下賤の群れが追い払われたとはいえ、自分の眼前に刃を見せつけられたようなもので、吾はこの闖入者が敵か味方か、判断がつけられない。ただひとつ、わかるのは。  眼前にある刃物が真紅に染まっていること。それはこの世界では唯一無二の秘宝……「太陽の神の操る神器」ということ。  跪いた姿勢のまま、かろうじて、首だけを動かして見上げる。宵闇の中でも眩しく煌めくような純白の長髪を髷にして、同じく白い着物をまとっている。しかし、深い海の底のような青い瞳は対照的にくすんでいて、……悲哀を湛えた眼差しだった。 「……間に合って、良かった。僕は長らく、君を探していたんだ」  愛器とはいえ眼前に刃を突きつけた非礼を詫びながら、彼は赤い神器を鞘に納めて左手に持ち替える。そして、右手を吾に差し出した。……されたところで、吾にそれを受け取る余力はなかったが。  溜息をつく間もなく事態を察したらしい。白い男は手早く屈んで肩に手を回して強引に立ち上がると、吾の足を引きずるように歩き出した。背後の連中への警戒を怠らず、ちらちらと牽制の目線を送りながら。
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