12章:アイ

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 譲はもちろん、岩田も神崎も荒川を急かすようなことはしなかった。ある意味では荒川は被害者の一面も持っていた。せめて一人で抱え込んでいた感情をすべて流しきるぐらいの時間は与えてあげてもいい。  地面に落ちた涙もすぐに乾いてしまう。午前中は暑さが増しだったが、また少し気温が上がってきたようだ。 「やっぱり……」  空を見上げたまま荒川は小さな声で話だした。胸の奥から絞り出すような声は少しかすれている。 「朋子を殺したのは私です」  苦しそうな表情を浮かべる荒川に磐田はいつもどおり淡々と言葉を返す。その抑揚のない平坦さが荒川にとって何よりの優しさだった。 「君がそう思うのは自由だ。俺は荒川さんが原因だと思っていないが、原因をどこに求めるかはそれぞれの考えがあっていい。それこそ世界そのものと俺たちの見る世界は違うのかもしれない」  磐田は荒川がさっき述べたカントの純粋理性批判になぞらえる。 「だが、仮に罪を犯したのならそれをきちんと償うといい。南朋子が亡くなった原因が君なのなら南朋子がきちんと許してくれるやり方で償うしかない」  一見厳しい言い方だが根本の想いは譲と何一つ変わらない。それに松本がこの場所にいても同じことを言っただろう。 「……話してくれないか? 荒川さん。あの夜君と南さんの間で何があったか」  荒川が考え込む間、一瞬の静寂が屋上を包む。一度逸らした荒川の瞳が再び磐田と譲をしっかりととらえると荒川はゆっくりとあの日の事を話だした。  ベッドサイドに置いたスマホが大きく音を立てて震えている。ベッドにうつぶせで伏せていた荒川はそれに手を伸ばした。初めは無視をしようとしたがマナーモードにしているのが意味のないぐらいの音を立てるスマホに根負けした。  液晶の表示には「南朋子」と出ている。  ついさっき一方的に話を切って自分の部屋に戻ってきた相手だ。しばらく液晶の画面を眺めてどうするか考えたが、最後は根負けする形で通話のボタンを押した。  こんなことになるとは思っていなかった。自分はもっと冷静な女だと荒川は自分で思っていた。南が寮に帰ってきたさっきもそうだ。自分は安岡が拾ったというスマホを返したらそれ以上は余計な詮索をしないつもりだった。  恋人だった久保田と南が一緒に消えたと聞いた時も、夕方になっても南が寮に戻ってこないことにも荒川自身は動揺していないつもりだった。久保田のふらふらする性格はわかったうえでつきあっていたし、南に対しては妹のようにかわいがってきた後輩だったので信頼をしていた。  だからこそ女子寮に戻ってきた南がいきなり目の前で泣き出したことや、その南からアルコールの匂いと共に自分のよく知る香水の匂いがしてきたことにひどく動揺した。  南が泣きながら事情を話す。だが、それは一つも荒川の頭に入らなかった。南が言い訳めいた事を言わなかった気持ちも、本当はすべて久保田が悪いことも少し冷静になった今ならわかる。  でも、その時はだめだった。目の前の南と久保田のつける香水の匂い、視覚と嗅覚の不一致は荒川を混乱させた。心の奥では違うとわかっているのに口から出たのは南を非難する言葉だった。  たぶん人に対してあれだけ厳しい言葉を投げたのは初めてかもしれない。久保田の浮気に気づいた時も、別れ話をされた時も冷静な女を演じ続けていた。  荒川自身、南には甘えていたのかもしれない。厳しい言葉をぶつけて、そのまま一歩的に会話を切ると南を置いて部屋に戻ってしまった。
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