エリュシオン

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 僕を拾い育ててくれた人は、深緑の針葉樹に包まれた北の小国クリュスタロスの王家に仕える剣士で、名を、レヴォンと言った。  国王に親友とまで呼ばれる人がご主人だなんて、僕は誇らしくて、いつもレヴォンさまにくっついて過ごしていた。  何日も部屋に引き篭もって、大切な剣の手入れをしたり、たまには馬に乗って、国境の見回りと称した遠乗りをしたり。これといって豪遊はしないけれど、毎日汗を流して、適度な食事をとる、気持ちのよい日々。  けれど、あるとき恐ろしい疫病が流行り、僕は黒衣に身を包んだレヴォンさまの肩の上で、国王の死を嘆く、葬送の鐘の音を聴くことになる。  その日を境に、レヴォンさまは変わった。  お仕えする相手が、残された王妃さまと、まだ卵から孵ったばかりであろう幼い王子さまに変わったことが、その理由だったんだと思う。  僕には信じられなかった。だって、将軍も兵士も民も、疫病で数多く失ってしまったのに、争いごとを好まないレヴォンさまが自分から〝戦争に参加する〟と言い出すなんて──。  もちろん、僕はレヴォンさまが戦に負けるなんて思っちゃいなかったよ。僕のご主人に勝てるほどの腕前の剣士なんて、年に一度の剣術大会でも見たことがなかったから。  だけどレヴォンさまは、僕の予想を遥かに超えて負け知らずだった。常に正々堂々とした試合をするレヴォンさまが、戦に勝つためには手段を選ばず、同盟を結んでいた国を攻め滅ぼしたり、奮戦している仲間を見殺しにして戦果を上げることもあった。  敵の将軍を甘い言葉で誘い、寝返らせる。その反逆を、敵国の王に密告する。王が将軍を殺せば、将軍は冤罪で殺されたと噂を流して、王を廃位させる。そんな企みを巡らす傍で、軍備を整えるために税率を引き上げ、領民からは可能な限り搾り取る。  僕は絶対にレヴォンさまのことを嫌いになったりしなかったけど、心配で心配で、自慢の黒い羽根が抜け放題の、みすぼらしい姿になっちゃった。  そしてあの日──。あれは、レヴォンさまが大国同士の戦に参入すると決めた日のことだ。  王妃さまに呼び出されたレヴォンさまは、いつも通り僕を肩に乗せ、王宮の中庭へ向かった。  その夜は、夏至祭も近いというのにひどく寒くて、水晶を削って作られたドーム形の天井の外では、粉雪が大地を埋め尽くすほどに降り注ぎ、暖炉の火が恋しいくらいだった。 「レヴォン、あなたは本当に強情ね」   肩を落とし、溜息混じりに呟いた王妃さまに、レヴォンさまは頭を下げたまま、真冬の軒下に生えたつららよりも尖った口調で言い返す。 「エレクトラ様、もう何度もお伝えしたはずです。お気持ちはよくわかっている、だから口に出す必要はないし、聞く必要もないと」 「でも、このままではきっと後悔するわ」 「私は決して後悔など……」  否定しようとして顔を上げたレヴォンさまの言葉を遮って、王妃さまは続けた。 「あなたではなく、わたくしが」 「……では聞きましょう。それがこの国と、亡き陛下への裏切りにならぬ言葉であれば」  互いから目を逸らし、黙り込む二人。  しばらく続いた静寂を破ったのは王妃さまで、震える唇の僅かな隙間から、微かな声が絞り出された。 「わたくしは……、この白雪を見るたびに、あなたのことを想っております」  頬を染めて涙を溢した王妃さまに、レヴォンさまは一度伸ばしかけた手を何もせずに引っ込めて、再び深く頭を下げただけだったけれど。  二人が愛し合っているのは確かで、そのことは、僕だけが知っている秘密になった。  翌朝、レヴォンさまは日の出とともに出立した。そしてレヴォンさまの不在を見計らったように、隣国アスピダの大軍が攻めてきた。  万の兵士に、火を噴く武器、雪原での戦闘を十分に訓練された馬。報告を聞いたレヴォンさまは急ぎ帰国したけれど、すでに降伏を宣言させられた王妃さまは、王子さまと国民を守るため、その身を属国の証として差し出していた。  人質となった王妃さまが鎖に繋がれて連行されたという話を聞き、レヴォンさまは連れていた全軍を率いて、そのままアスピダに攻め込んだ。  でも、全ては無駄に終わってしまった。  レヴォンさまの反抗が切っ掛けで、王妃さまは見せしめとして処刑され、さらに手薄になった王都は、あっという間に陥落した。  王子さまを守り切ることも叶わず、崩壊したクリュスタロスに、敗走する兵士たちが戻れる場所はない。そしてレヴォンさまもまた、戦闘中に深い傷を負って、雪の中に倒れた。  赤いしみが足元に広がり、とうとう、肌身離さず持っていた剣を握る手に力が入らなくなったとき、寒さの中では寝かせまいと鳴き叫んでいた僕を呼び寄せて、レヴォンさまはこう言った。 〝俺は、汚れ過ぎている〟  そんなことない、と僕は叫んだ。  すぐに綺麗になるよ、怪我を治して、水浴びをして、毛繕いをすれば、すぐに!  だけど、僕の言葉はどうしても人間の言葉にならなくて、レヴォンさまは一人で喋り続けた。 〝俺は冥府の底へ逝く。先に逝ったエレクトラと同じ場所には、辿り着けないだろう〟   それなら僕が、レヴォンさまと同じ場所へ行くよ。絶対に絶対に、寂しい思いなんかさせないから! 〝テオよ、お前は清らかで美しい。頼む、俺の代わりに、エレクトラのそばに──〟  その言葉を最後に、レヴォンさまの目は完全に閉じて、白い息は空気の中に溶けてしまった。      *
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