2 忘れるわけがない

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「吉村がいつも碓氷さんに睨まれるって不愉快そうに愚痴っていたから、あいつの態度は碓氷さんへの苛立ちから来ているんだと思っていたんだ」 「確かにうるさいとは思っていたけど、睨んでなんかいないわ……」  唇を噛み締めて俯いた杏奈を見た由利は、眉間に皺を寄せ、大きなため息をついた。 「今の話を聞けばそうだろうね。吉村の勘違いだったんだろうな」 「その勘違いで私は三年間を棒に振ったの? 不愉快な思い出だらけの……思い出したくもない高校生活になったのに……。だから嫌いなのよ……金持ちなんて大嫌いだわ……」  悔しくて涙が溢れると、由利は手を離して杏奈を解放した。そしてポケットからハンカチを取り出して杏奈に手渡すと、彼女の体を抱き上げて再びソファへと座らせた。  由利は杏奈の隣に腰を下ろし、背もたれにどさっと倒れ込むと、片手で顔を覆って天を仰ぐ。 「少し気持ちが暴走したみたいだ……悪かったよ」  杏奈は目を見開いた。こんなふうに謝るなんて意外すぎる--杏奈は首を横に振った。  今日一日で、驚くことばかり起きている。それだけ由利のことを何も知らなかったのかもしれないが。 「俺がそうさせたわけだけど、気持ちが落ち着いたら言ってくれ。タクシーを呼ぶから」  約束を取り付けてやって来たのは杏奈の方なのに、帰り道を気にしてくれる態度にも驚き、不思議と彼の紳士的な一面を見た気がした。  先ほどは一歩間違えれば一夜の相手にされていたのかもしれないが、でもよく考えてみたら、彼みたいな人が杏奈を相手にするなんておかしな話だ。相手に困ることはないはずだから。  それでも理由を無理矢理考えるとすれば、相当溜まっていたとしか思えなかった。 「大丈夫です。タクシーなら一人で呼べますから」  むしろ駅から電車に乗った方が早い気がしたが、それはあえて口にしなかった。とにかく早くここから去ろう。 「わかった。だがタクシーに乗るまでは確認させてくれ」 「……わかりました」  杏奈が立ち上がると、 「山下の製菓工場の跡地についてはきちんと調査をするから、報告を待っていてほしい」 と、ソファにかけたままになっていたジャケットに腕を通しながらそう口にする。  きちんと対応してくれようとする姿に、杏奈は少しだけ胸がほっこりした。 「なんだか……由利さんは変わりましたね」 「……どう変わったんだい?」 「人として血が通ったというか……今のあなたとなら、いろいろな話をしてみたいと思います」  それは正直な気持ちだった。こんなに杏奈の話を聞いてくれるとは思っていなかったから。  そう話しながらドアを開けようとした瞬間、杏奈の体は再び壁際に押し付けられる。驚いて目を伏せた瞬間、由利に唇を塞がれた。
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