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月夜に咲く
昨日の夜半から降り出した雨は静かに、しかし止むことなく今日の正午を越えてもまだ降り続けている。梅雨らしい、肌にまとわりつくようなじめっとした空気が広がっている。
乱雑に生え広がるばかりであった広大な森を切り開いて、地域住民の憩いの場にしようというコンセプトのもとに作られたこの中央公園は、公園と言いながら遊具などがあるわけではなく、自然を人が親しみやすいように少しいじっただけの、巨大な遊歩道のような場所だ。メインの道はレンガを敷き詰めて歩きやすくなっているが、少し外れるとすぐに芝生になり、果てはけもの道のようになる。
地形を生かして作られている池では、雨に気を良くしているのか、蛙たちがやかましいくらいにゲコゲコと鳴いている。
榛葉正樹は、中央公園の隅にある東屋の下の、コンクリートのベンチに座りながら、ただぼんやりと雨に濡れる景色を眺めていた。
平日の昼間、しかも雨ということもあって、周りには人の気配は感じられない。もともとこの東屋は、どうしてこんなところに作ったのかと計画を立てた者に聞きたくなるくらい奥まった場所にあるため、地元住民でも東屋の存在自体を知らない人がほとんどだと思われる。
正樹が小学生時代にこの中央公園が完成したのだが、その頃に友人たちと中央公園の敷地内をくまなく探検した結果、この東屋を見つけた。
当時はここを秘密基地にしよう、と大層盛り上がり、結構な頻度でこの場所で遊んでいたが、歳を重ねるにつれて公園で遊ぶようなことは少なくなっていき、いつしか全く来なくなった。最後に来たのはそれこそ十年は前のことだ。それでもここまで迷わずに来られたのは、意識していなくとも、正樹にとってそれなりに思い出深い場所だったという事なのだろうか。
当時の友人たちは進学や就職に際してほとんどが地元を離れているため、この場所を知っているのは、もはや本当に正樹だけかもしれない。
当時の秘密基地としての記憶の懐かしさも相まって、行き場所のない正樹にとって、唯一、心を休められる場所だ。
リストラなどということが、自分の身に現実に降りかかるなんて、正樹は思ってもいなかった。
正樹が勤めていた会社は、大手自動車メーカーの下請けとして自動車の部品を作っていて、正樹はそこで技術者として働いていた。
自動車が特別好きだったという訳ではなく、家の経済状況により、実家から離れるという選択肢が正樹にはなかったため、実家から通える範囲で就職先を探した結果、高校時代の先輩の紹介でこの会社に入れてもらえたという経緯だ。
実家が裕福ではなかったこともあり、高校卒業と同時に働き始めて、七年の歳月が経っていた。もともとそんなに手先は器用な方ではなく、優秀な技術者であったとは言えないが、不器用ながらも言われたことはしっかりとこなしてきたし、それなりには一人前になったと自分では思っていた。
そんな折、正樹の会社に仕事を下していた大手自動車メーカーが、突然正樹の会社への仕事を半分に減らしてきた。
若者の車離れが叫ばれて久しいが、自動車の売り上げの低迷からその大手自動車メーカーで大規模な経営改革が起こり、その一環として各下請け会社への発注の見直しが起きた。結果として、正樹の会社への取引が整理されたということらしかった。
もとより町工場に毛が生えた程度の、小さな会社であり、売り上げのほとんどをその大手自動車メーカーに依存していたので、経営はあっという間にのっぴきならない状況まで陥った。
そうはいっても、現場の技術者として働いていた正樹にとっては、日々の業務が突然無くなるということはなかったので、経営状況の悪化などは噂としては耳に入っていたものの、あまり自分には関係のないことだと思っていた。
そして一昨日、正樹は社長に呼ばれた。
社長と言っても小さな町工場の経営者なので、社長室でふんぞり返っているような人ではなく、むしろ誰よりも腰が低く、いつもにこにこしているような人だった。だから、その社長の沈痛な面持ちを見て、正樹はなぜ自分が呼ばれたのかを察した。
申し訳ない、と社長は何度も正樹に頭を下げた。
正樹は会社の今の状況を聞かされ、どうしても辞めてもらう他ない、と嘆願された。退職金は可能な限り払うから、と。
初めは、クビなんて冗談じゃない、と反論しようと思った。毎月の給料の半分は実家に入れていたため、正樹の稼ぎがなくなると両親も相当苦しいことになる。いきなり無職になるなど、考えられなかった。
しかし、社長の申し訳なさそうな顔を見ているうちに、そんな気は失せてしまった。この人の良い社長がここまで言うのだから、もう本当にどうしようもないのだろう、と。結局、二か月分の給料を退職金としてもらい、正樹は職を失うことになった。もとより小さな会社だ、退職金など制度として確立されていたわけではないので、少額とはいえども、それが社長なりの精一杯の誠意だったのだろう。
本当に申し訳ない、でも君はまだ若いから、いくらでも次を見つけることができるはずだ、と社長に言われた。しかし当然のことながら、実際には辞めた次の日から次の仕事があるわけではない。
しかし、親にはリストラされたことをどうにも言い出せず、スーツを着て昨日も今日もこの東屋で時間を潰している。
雨足は強まることも弱まることもなく、しとしとと一定のリズムで東屋の屋根を叩いている。東屋の屋根は木製だがしっかりとした造りで、風さえ吹き込まなければ東屋にいて雨で濡れるということはない。
ワイシャツの胸ポケットに入れたタバコを取り出して、ジッポライターで火をつける。煙を肺の奥まで吸い込んでから吐き出すと、湿気のせいなのか、それとも他の要因によるものなのか、いつもよりも苦く感じた。
深いため息を一つ吐きながら、頭の重さに耐えかねたかのように、肘を膝の上に乗せて頭を垂れる。
こんなことをしている場合じゃない。
たいした貯金があるわけではないし、六十を過ぎて嘱託として働いている父親の稼ぎでは、一家三人の生活を支えることは難しい。一刻も早く次の仕事を見つけて、稼がなくてはならない。
それだというのに、なぜ自分はこんなところにいるのか。
リストラをされて、気付いてしまったことがある。
当然のことだが、会社そのものがなくなったわけではない以上、社員全員がリストラされたわけではない。それなりの人数がリストラされたようだが、会社に残った人間も一定数いる。その中には、正樹よりも若い技術者もいた。
社長は、正樹はまだ若いから次の仕事が見つかる、つまり、正樹ならばまだやり直せるから、という理由を口にしていた。しかし、本当にそういう理由だとしたら、正樹よりも年若い技術者がクビになっていないのはおかしい。
社長が正樹に嘘を吐いた、とまでは思っていない。傾いた会社を立て直すためにはリストラはやむを得ないことだった。社長がそのことを心苦しく思っていたのは本当だろうし、厳しい経営状況の中、心ばかりとはいえ退職金も渡してくれた。
なんのことはない、単純に、状況が悪化した会社にとって必要な人材という目線でふるいにかけたとき、正樹がこぼれ落ちたというだけの話なのだ。
高卒だからという理由ではなく、もともと勉強ができる方ではなかった。これといって人に誇れるような特技も長所もなく、七年間かけて培ってきた技術でも、自分よりも後輩の方が評価されて、自分は必要ないという烙印を押された。
そんな自分を雇ってくれる会社なんて、見つかるのだろうか。
正樹は、ひどく大きな壁が自分の目の前に立ちはだかっているような気持ちに苛まれていた。
手に持っていたタバコから、灰が地面に落ちた。どことなくその様が今の自分と重なっているような気がして、正樹はまた一つため息を吐いた。
その時、雨音に混じって、草を踏みしめる足音が正樹の耳に届いた。ふと顔を上げると、東屋のすぐ近くに人影があった。
「こんにちは。あたしも雨宿りしていいかしら」
その人影は、きれいな黒髪を肩まで伸ばし、白いノースリーブのワンピースを着ていて、肩から小さなカバン(ポシェットというのだろうか)をかけている。手にはところどころにピンクのハートがプリントされた透明なビニール傘を握っていて、透き通るようなソプラノは少女特有のそれだ。見た目から推測するに十歳そこそこといったところだろうか。
「お、おお」
突然人が来たことにも、突然声をかけられたことにも驚いて、生返事しかできなかった。正樹が俯いていたから、少女がここまで近くに来るまで気が付かなかったのだろうか。
少女は正樹の返事ににっこり、と表現するのに相応しい笑顔で返事をして、傘を閉じて正樹の対面にあるベンチに腰を掛けた。
「あたし、咲月っていうの。お兄さんは?」
唐突に始まった自己紹介に面食らったが、この狭い空間で無視をするというわけにもいかず、正樹も自己紹介をする。
「榛葉正樹、です」
距離感を掴めず、少女相手につい敬語が出てしまった。そんなことは気にした様子もなく、咲月と名乗った少女はなぜかとても楽しそうだ。
「そう、正樹っていうのね。よろしく、正樹」
「おお……、よろしく」
その答えに満足したのか、咲月はポシェットから文庫本を取り出し、読み始めた。
変な奴だ、と思った。
見知らぬ大人をいきなり呼び捨てで呼ぶということもそうだし、知らない大人、しかも男が一人でいる東屋になんて普通の子供は近づきもしないだろう。
この東屋自体は子供の嗅覚で見つけ出したのだとしても、そもそも今日は平日だ。人のことを言えた立場ではないが、学校はどうしたのだろうか。
色々と気になることはあったが、咲月は既に目を輝かせながら読書を楽しんでいて、完全に自分の世界に入っていた。それをわざわざ邪魔してまで質問をできるほど、正樹はコミュニケーション能力に優れているわけではない。まして見知らぬ少女などどう接していいのかもわからない。
この東屋を出てどこかに行こうかとも思ったが、雨の中を歩くのは億劫だし、親は正樹が仕事に行っていると思っているので、まだ家に帰るわけにもいかない。行くあてがない以上は、ここにいるしかないのだ。なんとなく子供の前でタバコを吸うことに罪悪感を覚えて、持っていたタバコの火を携帯灰皿でもみ消した。
そのままどれくらいの時間が過ぎただろうか。咲月はずっと、ただ夢中になって読書を続けている。正樹の方はと言えば、初めは咲月の存在が気になっていたが、特に話しかけてくることもなかったので、そのうち気にならなくなった。これといってすることもないので、雨音と蛙の鳴き声をBGMにうとうととしていた。
パタン、と本を閉じる音で目を開けると、東屋の外は暗くなり始めていた。
「暗くなってきたし、そろそろあたしは帰るわ。またね、正樹」
そう言うとこちらの返事も聞かず、傘をさして東屋の外へと出て行った。
「またね、か」
傘の行方を目で追いかけながら、正樹はぽつりとつぶやいた。
タバコを取り出して、火をつける。
煙は東屋の屋根にぶつかり、そのままゆらゆらと姿を消す。
気が付くと、いつの間にか咲月の傘は見えなくなっていた。
途中降ったり止んだりを繰り返しながらも、翌日も雨は降り続いていた。雨は嫌いではないが、こうも長く続くとどうしても気分が滅入ってくる。自分の置かれている状況を考えてしまうと尚更だ。
今まで通り、会社に行っていた時と同じ時間に家を出る。行ってらっしゃいという母親の声が胸に刺さった。
足が向かう先は、今日も中央公園の東屋だ。今はあの東屋が正樹の居場所なのだから。
それに、咲月がまたね、と言っていた。また明日ね、と言っていたわけではないが、なんとなく今日もあの場所に来る気がする。
別に会いたいという訳ではない。どちらにしろ正樹に選択肢はないのだ。
しかし、あの変な少女のことが気にかかっているのもまた事実だった。
東屋にたどり着くと、そこはいつも通りの無人だった。そもそも中央公園自体にもほとんど人影はない。こういう公園は本来、雨の時に来るところではないのだから当然だ。
昨日の咲月を見習ってという訳でもないが、家の本棚から歴史小説を見繕って持ってきている。正樹自身には読書の習慣はないが、父親が大の司馬遼太郎ファンなので、本棚にはずらりと歴史小説が並んでいる。
正直そこまで興味があるというわけでもないのだが、ただなにもせずに時間を潰すよりは、読書でもしていた方がいくらかは価値的な時間になるのではないかという、淡い期待を抱いての行動だった。
しかし、結果は惨憺たるもので、読み始めて二ページもめくらないうちに猛烈な眠気が襲ってきた。学生の頃から、教科書ですら読んでいると眠くなってくるという、活字への耐性の低さでは人後に落ちない正樹にとっては、文字の羅列というものを見るだけで、パブロフの犬よろしく、睡魔が呼び起されるらしい。
それでも何とか眠気と戦おうとしていたのだが、自分でも気づかないうちに夢の世界へと誘われていった。
「こんにちは。正樹はいっつも寝てるのね」
小さな鈴を鳴らしたような声で、正樹は夢の世界から現実へと引き戻された。
「ん、おお、おはよう」
寝ぼけ眼をこすりながら、挨拶を返す。そこには昨日と同じ出で立ちの咲月が立っていた。
「ふふ、おはよう。もう昼だけれど。また会ったわね、正樹」
そう言って少女らしくほほ笑むと、また昨日と同じように正樹の対面のベンチに座って本を読み始めた。
正樹はいつの間にか取り落としていた小説を拾い上げて、付いてしまった砂や小さな葉をぱんぱんと手で二、三度払った。
もう一度改めて読み始めようと思ったが、またすぐに眠くなってしまうのが目に見えていたので、母親が持たせてくれた弁当を食べることにした。
東屋の中央にあるテーブルに弁当を乗せて食べ始めると、読書をしていた咲月の目が弁当に向いた。
「あら、おいしそうなお弁当ね」
「おお、まあな」
口に物を入れてもぐもぐと咀嚼しながらそう返すと、咲月は少し眉根を寄せた。
「食べながら喋るのはお行儀が悪いわ。ちゃんと飲み込んでからにしなさい」
弟をたしなめる姉のような口ぶりでたしなめられた。どう見てもかなり年の離れた少女にたしなめられるなんて初めてのことだが、そんなに不快な気持ちにはならず、口の中のものを飲み込んでから素直に謝罪した。
「ん、すまん」
「うん、よろしい」
正樹の素直な謝罪がお気に召したのか、咲月は満足そうに頷いた。
「えっと、お前も食うか?」
おいしそうだと言っていたから、てっきり咲月も食べたいのかと思って、たこのウィンナーを箸で持ち上げながら聞いてみたが、それに対する返事は否定だった。
「ありがとう。でもお腹は空いてないの。だから遠慮しておくわ」
「そっか」
別に食べてもらおうと思って聞いたわけでもないので、そのまま持ち上げていたたこのウィンナーを口の中に放り込む。と、わかりやすく不機嫌な声で咲月が続けた。
「……それと、お前っていうのはやめてちょうだい。あたしには咲月っていう名前があるのよ」
正樹が弁当から顔を上げて咲月を見ると、頬を膨らませてフグのようになっている咲月がいて、危うく口の中のものを吹き出しそうになった。
「ああ、悪かった、咲月」
正樹は、また怒られないように口の中のものを飲み込んでから、今度はちゃんと名前を呼びながらもう一度謝罪をした。
「うん、許してあげる」
咲月はそう言ってまた、幼さを感じさせる笑顔を見せた。そしてそれで満足したとでもいうようにまた読書へと戻った。
弁当を食べ終わった後、無意識に一服しようと胸ポケットに手が伸びたが、目の前で読書をしている咲月の姿が目に入り、その手をそっと戻した。
さてどうしようかな、と思った時に、咲月の夢中で読書をする姿を見て、自分ももう一度読書に挑戦してみようと決めた。
不思議と、今度は眠くなることはなく、次第に物語の世界に引き込まれていった。
「もう暗くなってきたわね。そろそろ帰ろうかしら。雨だと暗くなるのが早くて嫌になっちゃう」
咲月の言葉に顔を上げると、確かに少しずつ暗くなってきている。
「おお、もうこんな時間か」
腕時計を確認すると、四時を少し回ったところだった。弁当を食べ終わったのが一時過ぎだったので、都合二時間以上も読書に没頭していたことになる。読むペースはあまり早くないので、読んでいた時間に対してページとしては大して進んでいないが、これほど読書に没頭したのは正樹にとっては初めての経験だ。
「ふふ。正樹、とっても集中してたわ。いたずらしちゃおうかと思ったくらい」
「勘弁してくれ」
どういったいたずらをしようと思ったのかはわからないし、いくら読書に没頭していたとはいえ何かいたずらをしようとする動きがあれば、それに気付きもしないということはないだろうが、両手を挙げて降参のポーズを取る。そんな正樹の態度が面白いのか、咲月はくすくすと笑っている。
しかし、咲月も読書に集中していたと思っていたので、こちらの様子を確認していたとは思わなかった。なんだかどうにも気恥ずかしい気持ちになる。何が恥ずかしいのかは、正樹自身にもよくわからなかった。
「じゃあ、またね」
ひとしきり笑った後、そう言って背を向けて歩き出そうとした咲月に、今日は自然と言葉を返すことができた。
「おお、また」
正樹から声をかけられた咲月は、正樹の方を振り返り、驚いたような顔を一瞬した後、またにっこりと笑って言った。
「うん、また」
咲月はそう言うと今度こそ、傘をさして歩いて行った。透明な傘にプリントされたハートは遠くからでも良く目立つ。
「しかし、あいつどこに帰ってるんだ?」
正樹は一人、呟いた。
子供のころの記憶だと、咲月が帰って行った先は整備されていない森になっているはずだ。森を抜けた先には住宅街に繋がっていたような気はするが、子供の足では森を抜けるのにかなり苦戦した記憶もある。
慣れていればそんなことないのかも知れないし、そもそもこの先が森になっているというのも子供の頃の記憶なので、この先も整備されて道が繋がっているのかもしれない。雨が止んだ時にでも歩いて確認してみればいい話だ。
ぼんやりとしているうちに、咲月の傘は見えなくなってしまった。いつの間に見えなくなったのかはわからない。
まだ家に帰るには早いので、もう少し読み進めてしまおうと決めて、正樹は読書の世界に戻って行った。
日をまたいでも、いまだに雨は止む気配を見せない。天気予報によれば、この雨はまだ五日間ほど振り続ける恐れがあるため、土砂災害に十分な注意を、ということだった。降り始めから考えると、一週間も降り続ける予報ということになる。梅雨とはいえ、そこまでの長雨はなかなか聞かない。
雨足はそれほど強くはないが、これだけ雨が降り続ければ地盤の緩みも起きてくるだろう。この近辺は山になっているので、気に留めておく必要がある。土砂災害に備える、といってもどうしたらいいのかよくわかってはいないのが実情ではあるのだが。
今日も飽きずに東屋へと向かう。喫茶店などで時間を潰すという選択肢もないではないのだが、この状況ではなるべく出費を抑えたいし、一杯のコーヒーで何時間も粘るのは性格的に向いていない。
それに、何かの間違いで知り合いに目撃されるのは避けたい。両親にはちゃんと話さなければならないと思っているが、もう少し気持ちの整理をしたいのも事実だ。そんなことをしている間に目撃した誰かから親に情報が行くのは、想像するまでもなく最悪の結末だ。
中央公園の東屋なら咲月以外の誰かが来る可能性は限りなくゼロに近いし、雨が降っているおかげで傘を低めにさしておけば東屋に向かう最中も誰かに見咎められる心配もない。
そして、あの東屋で過ごす咲月との時間を、心地よいと感じ始めていることを、正樹は認めなくてはならなかった。
自分しか知らないと思っていた場所に突如として現れた変な少女。
いきなり年上の男を呼び捨てにして、お姉さんぶって見せる少し生意気な、しかしなぜか憎めない不思議な女の子。
一緒にいて何をするわけでもなく、ただ同じ空間で過ごしているというだけ。それなのに、なぜか居心地がいい。
今日も来るという約束をしたわけではない。しかし、正樹には今日も咲月が来るという確信に近いものがあった。
東屋に着くと、正樹は鞄から昨日読んでいた歴史小説の二巻目を取り出した。
昨日は結局、一巻を読み終わるまで東屋で読み続けてしまった。始めのうちは読み進めるのがやや苦しかったが、少しずつ登場人物が自分の頭の中に入ってきて、情景が頭の中で思い浮かべられるようになってくると、どんどん楽しくなっていった。読書の楽しさがわかるようになってきた、ということ自体に対しても、なんとなく自分が賢くなったような気がして嬉しかった。
そのまま読書に夢中になっていると、またいつの間にかすぐ近くにまでハートの傘が来ていた。
「こんにちは、正樹。今日は寝ていないのね」
今日も、咲月はノースリーブのワンピースを着ている。この雨では洗濯物もろくに乾かないだろうし、余程のお気に入りで何着か同じものを持っているのだろうか。
「おう、こんにちは。別にいつも寝ているわけではないさ」
確かに咲月といる時は寝ている時間が多かったかもしれないが、それは寝る他にやることがなかっただけで、読書の楽しさに目覚めた今の正樹にとっては、睡眠よりも読書の方が正樹の中での優先順位が上がっている。
咲月はまたいつもの通りに対面のベンチに座って読書を始めた。邪魔するのも気が引けるが、今日は質問したいことがあった。
「なあ、咲月は学校どうしてるんだ?」
聞いてはいけないことなのかもしれない、とも思った。平日の昼にいつもここにいる時点で、なにか普通ではない事情があることは察せられる。それは正樹にも言えることなので、触れられたくないであろうことに触れることには躊躇いもあったが、そうは言っても咲月はまだ子供だ。立派な大人とは言えないにしろ、大人として事情位は聞いておきたいという気持ちもあった。
「なあに、正樹。変なこと聞くのね。今日は学校はお休みなのよ」
「休み?」
創立記念日か何かかと思ったが、連日休みなのはおかしいし、夏休みには一か月以上早い。
その疑問が正樹の顔に出たのだろう、咲月は露骨に不機嫌そうな表情になった。
「なによ、疑ってるの?あたし、嘘なんてついてないわ」
「ああいや、疑ってるってわけじゃないんだが。そんなに連日の休みなんてあるのかなと不思議に思っただけで」
不機嫌になってしまった咲月の機嫌を取ろうとどうにか取り繕おうとしてみたが、口から出た言葉は疑いの言葉そのものになっていた。それがわからないほど子供でもないらしく、咲月はますます不機嫌になってしまった。
「そんなこと言ったって、お休みなものはお休みなんだから仕方ないじゃない。失礼しちゃうわ」
頬を膨らませて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。その仕草は微笑ましいが、怒らせたままというのも忍びないので、とりあえず謝意を伝える。
「いや、すまん。ちょっと気になっただけで、疑ってるとか、そういう訳じゃないんだ。気を悪くさせたのなら謝る」
咲月はまだ機嫌を損ねているのかふくれっ面をしていたが、正樹の方に向き直ってはくれた。
「……ふん。まあいいわ」
実際、咲月が嘘をついているようには見えない。学校はお休み、と言っているが、それが何によるものかはわからない。家庭の事情があるのかもしれないし、なにか病気でもあるのかもしれない。もしかしたら本当に学校独自の連休があるのかもしれない。何にせよ、これ以上詮索してさらに不機嫌にさせるのも気がひけるし、そもそもそこまで根掘り葉掘り詮索するような資格は、文字通り赤の他人である正樹にはない。本人が話したくないのなら、それ以上は踏み込まないのも大人としての最低限の嗜みだろう。
「正樹こそ、お仕事はどうしたの?」
意趣返し、という訳でもないのだろうが、咲月はまだ不機嫌さの残る顔で聞いてきた。それは当たり前に返ってくることが想定されたブーメランだったが、いざ聞かれるとどうにも返答に詰まる。
「んー……。まあ、その、なんだ」
適当にごまかしてしまってもいいのだろう。いくら大人ぶっているとはいえ咲月は子供だし、たまたま同じ場所で同じ時間を共有しているだけの、限りなく薄い関係だ。ここに来なくなれば、もう二度と会うこともないだろう。
しかし、なぜだか、咲月には嘘を吐きたくないと思う自分がいた。理由なんてわからないし、ばかばかしいと思う気持ちもあったが、目の前の少女に対しては誠実でいたい、と思った。
「簡単に言えば、リストラ、ってやつだな。会社をクビになったのに、それを親にも言い出せなくて、会社に行くふりしてここで時間を潰してる、どうしようもない大人だよ」
初めて自分の口からちゃんと言葉に出すと、思っていたよりもあっさりと言葉たちは出てきた。
咲月は不機嫌そうな顔から、何を考えているのかわからない、真剣な顔というよりも無表情に近い表情になっている。こんなことを聞かされても、なんて言っていいのか、どんな顔をしていいのかわからない、というのが真情かもしれない。
しかし、一度吐露を始めると、堰を切ったかのように正樹の喉の奥から言葉が勝手にこぼれてきた。
「俺はさ、何か特別な力があるわけでもないし、頭がいいわけでもない。これといった特技もないし、人より優れてるところなんて全然ないんだ。人並みにはできていたと思っていた仕事での技術だって、俺よりも後輩が評価されて、俺はクビだ」
俺は子供相手に何を話しているんだ、と思っても、もはや自分では止められない。自分でも気づかないうちに目からは涙がぼろぼろとこぼれていて、声には嗚咽が混じって何を喋っているのかよくわからなくなっている。
「俺なんてさ、この世界で、必要とされてないんじゃ、ないかって。ばかだな、って思っても、怖くて。怖くて、どうしようも、なくて。こんなこと、してる場合じゃ、ないのに、動き出せなくて」
自分の中にこれほどまでに感情が詰まっていたのか、と思うほど、次から次へと感情は涙とともに言葉にならない言葉となって口からこぼれ出てくる。顔はみっともないという表現じゃ足りないほどにぐちゃぐちゃになって、もはや取り繕うこともできない。
嗚咽がひどくなり、声がもはや完全に言葉の形を成さなくなった頃、黙って聞いていた咲月が正樹の頭を撫でた。
「よしよし。辛かったのね。正樹ったら体は大きいのに、見た目よりもよっぽど子供なのね」
まるで子供をあやすような口ぶりも咲月に、正樹は言葉を返すこともできずにただしゃくりあげ続けている。咲月の小さい手はひんやりとしていて、気持ちが良かった。
「ねえ、正樹?人間ってね、誰でも無限の可能性があるのよ。それは特別な才能とか、そういうことではなくて、みーんなが持ってるものなの」
咲月は正樹の頭を撫でながら、続ける。その声は、やけに大人びて聞こえた。
「世界に必要とされてない、なんて、そんなことは絶対ないわ。正樹はこれから何にだってなれるし、なんだってできるのよ。今が上手くいかないからこの先も上手くいかないなんてこと、誰にも決められないわ」
咲月の言葉は、乾いた土に水をかけていくように、少しずつ正樹の心に沁み渡っていく。嗚咽は少しずつおさまり、流れ続けていた涙も止まった。
「まだまだこれからいくらでも可能性があるのに、自分で自分を諦めちゃうなんてもったいないわ。だって」
咲月はそこで言葉を切って、撫でる手の動きも止めた。
「正樹はまだ生きているじゃない」
ふっ、と頭の上の感触が消えた。
正樹が顔を上げるとそこには咲月の姿はなく、咲月のいたベンチにはハートの傘だけが残されていた。
「咲月……?」
正樹が声をかけても、それに応える声はない。
結局、その日は咲月に会うことはなかった。
今日も雨は予報の通りに降り続いている。
昨日はいきなり消えてしまった咲月を探したが、見つけることはできず、すごすごと家に帰った。腫れてしまった目が親にばれて詮索を受けることは避けたかったので、家に帰るなり自分の部屋に飛び込んで布団に潜った。
布団に潜って自分の世界にこもると、東屋での出来事が思い出されて仕方なかった。
子供の前で大泣きしながら自分の弱みをさらけ出すなど、恥ずかしいを優に通り越してもはや死にたくなる。穴があったら入ってそのまま埋まってしまいたいくらいだ。
そして、突然消えてしまった咲月のことが気になった。
正樹が相当に錯乱していたのは事実なので、突然消えたように感じただけなのではないか、とも思ったが、冷静に思い返してみても、正樹の頭を撫でていた手の感触ごと、咲月の姿が掻き消えてしまったようにしか思えない。
そんなことがあるわけない、とも思う。
だから、もう一度咲月に会って、確かめたい。
ついでに、みっともない姿をさらしたことに対する謝罪もしたい。
今日は土曜日だが、もともと土曜日も出勤していたので、身支度をして家を出る。昨日の今日で腫れた目が治るわけはなく、親に顔をじっくり見られるのが嫌だったので、今日は外で食べるから弁当はいらない、とリビングの扉越しに伝えてそそくさと出て行った。せっかく作ってもらったのに弁当を持っていかないのは心苦しくもあったが、正樹が持っていかなければ、母親自身が昼に食べてくれるだろう。無駄になるということはない。
東屋にたどりつくと、正樹は持っていたハートの傘をいつも咲月が座っている側のベンチに立てかけた。
昨日咲月が置いて行った傘をそのまま東屋に放置する気にもなれずに持ち帰ったのだ。さすがに家の傘立てに挿しておくと親に怪しまれるので、部屋に持って行ってカーテンレールにかけて置いた。傘の下のカーペットには傘が実在することを訴えるかのように、雨滴のあとが残っていた。
雨は降り止むことなく続いている。この雨の中、傘も差さずに咲月はどこに行ってしまったのか。
当然のことながら、咲月に対して恋愛感情を抱いているわけではない。世にはそういった特殊な嗜好を持つ人間がいることは確かだが、正樹はその類の人間には該当しない。
かといって、いわゆる保護者としての庇護欲のような、母性本能ならぬ父性本能が掻き立てられているのかというと、そうでもないような気がする。
咲月といると居心地がいい、という感情、感覚がどこから来ているのか。
会社にも家にも自分の居場所がない今の正樹にとって、この誰にも知られていない東屋という、かつての秘密基地で、同じ時間を共有することのできる少女は、心の拠り所となっているのではないのか。
だから、あれほどまでに、今まで生きてきた中でも一番といっていい程、自分の情けない姿をさらけ出してしまったのではないか。
名前しか知らない、三回しか会ったことのない、歳の離れた少女を心の拠り所とする男。そう冷静に分析すると、自分の精神状態が酷く危険な状態にあるような気がしてきた。
「やばいかな、俺……」
そうひとりごちても、正樹の言葉に答える人はなく、雨音の中にただ溶けていく。
実際問題、歳の離れた少女の前で突然大泣きする男など、十分過ぎる程にやばいのだが、そこについて考えるとドツボにはまりそうなので、正樹は考えることをやめておいた。
読書を始める気にはなれず、自分の傘と咲月の傘だけ持って立ち上がる。どうせここに来る人間などまずいないので、鞄も置いたままで東屋を出た。
咲月が来て、また、帰っていった方向へと歩いてみる。
東屋自体が公園の隅の方にあるので、東屋の周りも道と言えるほどの道はない。向かう方角は公園の中央からは更に離れていく方角なので、ほとんど人の手は入っていない。森とは言わないまでも、芝生と呼ぶには長い草が生えすぎている。文字通りのけもの道だ。
いや、けもの道と呼ぶにも違和感がある。
誰かが通った形跡が全くと言っていいほどないのだ。
実際、どれくらい人が歩けば道のような跡ができるのかはわからないが、いくら咲月が子供とはいえ、何度か通っている道ならば多少なりとも踏みしめた跡があってもいいはずだ。明らかに、正樹が初めて踏み入った人間であるとしか思えない。
違和感を覚えながらも、絶対におかしいと言い切れるほどの確証もなく、奥歯にものが挟まっているような気持ち悪さを感じながら、ゆっくりと歩く。
傘を叩く雨音が、少し強くなったような気がした。
長雨で足元はかなりぬかるんでいて、草の上からでも気を抜くと滑りそうになる。革靴が泥で汚れていくのに辟易しながら歩みを進めると、五分も経たないうちに行き止まりになった。
行き止まりといっても、もともと道などないのだが、そこには薄汚れた立て看板があった。
「この先危険!立ち入り禁止!」
赤いペンキの手書きでそう書かれた看板は、お世辞にも立派とは言えず、素人が手作りでベニヤ板を角材に打ち付けただけの粗末なものだった。いつから設置されているかはわからないが、風雨にさらされて、朽ちかけている。古い記憶なので定かではないが、正樹が子供の頃、中央公園ができたばかりの頃にはなかったような気がする。
この看板が設置されている先は木の生え揃った、上りの斜面になっていて、完全に森のまま残っている。つまりはここが中央公園の本当の端ということになる。
斜面には見える限りでも木の根がむき出しになっていて、あちこちで足を取られそうだ。子供の頃ならばアスレチック感覚で上っていけたかもしれないが、仮に足元がぬかるんでいない時でも、挑戦したいとはとても思えないくらいには急な斜面でもある。
昔の記憶通りなら、この森を抜けた先は住宅街だ。その先に咲月の住む家があるのだろうか。
しかし、やはりどうしても違和感がある。
ここに来るまでの道に全く人の通ったような跡がなかったこともそうだが、晴れている日ならまだしも、雨の日にこの斜面を上り下りするのはどう考えても危険すぎる。この先の住宅街に行くには近道であることは間違いないのだろうが、ぬかるんだ斜面というのは自分で想像している以上に滑るものだ。
それに加えてこの長雨だ。足元の悪さは相当なものだろう。そんな中を少女が傘を差しながら歩いてくるだろうか。
咲月は大人ぶっている、おしゃまな少女ではあるが、男子に交じって野山を駆け回るようなタイプの女子ではないように思える。
これらの違和感は、これまでに感じていた細かな違和感と、昨日の出来事と結びついていく。
なぜ、いつも気が付いたら近くにいたのか。
なぜ、学校に行っていないのか。
なぜ、三日間とも同じ服装なのか。
なぜ、道のない方角へと帰っていくのか。
そして、なぜ昨日、突然消えてしまったのか。
考えれば考えるほど、一つの結論にたどりつくのだが、正樹の理性、もしくは常識がその結論を否定する。
ポケットからスマホを取り出し、検索をする。この中央公園で、過去に事故、事件はなかったのか。
「……これだ」
記事は思ったよりもあっさり見つかった。今から五年前の記事だ。
「中央公園で児童が滑落し、死亡」
記事の見出しにはそんな文字が躍っていた。
「6月13日(木) ××市の中央公園敷地内で、郷原咲月ちゃん(10)が斜面から滑落し、死亡した。咲月ちゃんは中央公園の外縁の整備のされていない森を抜けて家に帰ろうとして、その途中で斜面から滑落したと見られている。連日の雨で地面は滑りやすくなっていたとみられ、公園の安全管理に問題はなかったのか、疑問視されている」
それだけの、短い記事だった。
本当にこの亡くなった郷原咲月ちゃんが、あの咲月なのかはわからないが、ここまで状況証拠が揃うと後は常識や理性くらいしか反論の余地がない。そしてそれらは人間が思っているよりも遥かに不確かなものである。
つまり、咲月はもう亡くなっていて、正樹が出会ったあの咲月は、幽霊に代表される非科学的な存在である、ということである。
オカルトに関しては全くといっていいほど興味がなかったので、肯定派でも否定派でもない。幽霊なんて、常識的に考えればいるはずがないとは思うが、何が何でも否定をしたいというほどでもない。科学的に証明できないから存在しないと言えるほど、科学に精通してもいない。
事実、咲月が幽霊であると考えれば、先の疑問は全て解決する。
唯一、今正樹が持っている咲月の傘が実在しているということに関しては疑問が残るが、ポルターガイスト現象のような実例もあるし、そんなこともあるのかもしれない。どうせ深く考えたところでわからないので、正樹は考えるのをやめた。
「もう、会えないのかな」
お気に入りなのであろう傘を置いて姿を消した咲月は、もう正樹の前には表れないのだろうか。
咲月の手はひんやりとしていたが、咲月の言葉は正樹の心を確かに温めてくれた。
どこか稚拙で、無責任な言葉かもしれないが、正樹にも無限の可能性があるのだと、確信を込めて伝えてくれた。
正樹は少なからず、その言葉に救われた。
情けない姿を見せたまま、励ましてくれたことへの感謝も伝えられないまま、もう二度と会えないのは、どうにも心残りだ。
「……ん?」
はあ、とため息をついて下を向いたとき、それに気が付いた。
やや大きめな縦長の楕円状の石が立ててあり、倒れてしまわないようにその周りを複数の小さな石で固定してあった。経年によるものか、石はところどころ欠け、削られている。
墓標、というにはあまりにも小さく粗末なそれを、墓標だと直感したのは、咲月が、郷原咲月ちゃんが亡くなったのはこの斜面だろうとぼんやり思っていたからだ。
咲月が帰っていく方角の行き止まりにある、後付けで作られたのであろう立ち入り禁止の看板。ここで何かしらの事故が起きたという証左に他ならないし、先程の記事からしてもここが事故現場であることはおよそ間違いないだろう。
当然、これが本当の墓であるわけはないと思う。当時の咲月の友人が作成したものなのだろうか。真相は知りようがないが、これが咲月の墓標であることは間違いないように思えた。
しゃがみこんで、墓標に触れてみる。雨に濡れた墓標は冷たく、ざらりとしている。その感触には、残酷なまでの現実味しかない。
石はただの石であって、それに意味を持たせるのは人間の勝手だ。誰からも忘れ去られたような場所で雨に打たれ続けるこの墓標には、感情などない。ただその削られて小さくなった形で、経過した年月を見る人に思わせるだけだ。
それでもなぜか、ここには咲月がいるような気がした。
ふと思い立って、咲月の傘を開いて、墓標に差し掛けた。
「傘、返しとくぞ」
雨に濡れ続けた墓標は、束の間の雨宿りの機会を得た。いずれ、強い風が吹けば傘は飛ばされてしまうだろう。
あの東屋でまた会えることを信じて、持ったままでいた方がいいのかもしれない。
しかし、ここに咲月がいると感じた以上は、この場所に返すのが正しいと正樹は思った。
ぱん、と一つ墓標に向けて手を合わせて立ち上がる。
来た道をなぞりながら、東屋へと戻る。正樹が歩いてきた道は、草が踏みしめられて一目でわかる。そんなことからも、咲月が生きた人間でないということへの確信が深まっていく。
そしてたどり着いた東屋の前には、ハートの傘を差した人影が立っていた。
「こんにちは、正樹。傘、返してくれてありがとう。傘がないとここまで来られなかったから」
そう言ってまたにっこりと笑う咲月の姿は、はっきりと、薄かった。咲月を通して、後ろにあるはずの東屋が透けて見えている。
「さつ、き……その姿は……」
正樹は、咲月にもう一度会えて嬉しいという気持ちよりも、咲月の姿への衝撃の方が強く、どうしていいのかわからなかった。
そんな正樹の気持ちとは裏腹に、咲月の表情は、透けていながらも晴れ晴れとしたものだった。
「あたしね、実はもう死んでるの。ふふ、驚いた?……あら、あんまり驚かないのね。知ってた、って顔かしら。なによ、つまらないわね」
透けているのに、頬を膨らました顔は昨日と変わらない。変わらないことが、正樹にはひどく悲しいことに思えてならなかった。
「……正樹、そんな顔しないで。あたしね、死んじゃった時のことはよく覚えてないのだけれど、気が付いたら心だけこの近くを漂ってたの。漂ってた、って言っても、どこかに行けるわけでもなくて、ただなにもできずにずっと心だけが浮かんでるみたいな感じだったわ。そうしたらね、神様が、あんまり早く死んじゃったあたしを可哀想だからって、雨の日の日中だけ、この東屋までだけなら、出て来られるようにしてくれたの」
咲月は話し続ける。
「でも、この東屋って本当に誰も来ないのよ。私と同じで、皆に忘れられちゃったみたいに。ずっと一人で本を読んでたわ。本も一緒に神様が出してくれたけど、あたしが死んだときに持ってた一冊しかなくって、繰り返し読み過ぎて内容を覚えちゃうくらいだった。つまらなかったわ。退屈で退屈で、でも他になにもできなくて。そうしたら正樹、あなたが来たの」
咲月はにっこりと、とびきりの笑顔を見せた。
傘を叩く雨音はさっきよりも弱くなっている。まだ降り続くはずの雨が、止もうとしているのだろうか。
「本当に嬉しかったわ。死んじゃってからは時間の感覚が曖昧で、同じ日を繰り返しているみたいな感じだったから、どれくらい時間が経ったのかはわからないけど、人と会うのも、人と話すのも、すっごく久しぶりだった。だから本当はもっといっぱい話したかったし、もっともっといっぱい遊びたかった」
そこで言葉を切ると、咲月は少し寂しそうな顔をした。
「でもね、もう死んでいる人間は、まだ生きている人間に干渉しちゃいけないんですって。神様にも、少し話しかけるくらいは特別に許すけど、それ以上はだめだ、って言われたわ。だから頑張って我慢していたの」
咲月は、ふふ、っと、楽しかった時のことをふと思い出したかのように、小さく笑う。
「でも、正樹ったらぼろぼろ泣き出すんだもの。放っておけなくなっちゃったのよ。そうしたら神様が怒って、消されちゃった」
「……! お、おい、咲月!」
咲月の体が、だんだんと薄くなっていく。このまま消えてなくなってしまうかのように。
しかし咲月はそれでも話し続ける。最後まで自分の声を正樹に届けようとするように。自分がいたことを覚えていてほしいと、そう言わんばかりに。
「本当はね、もうこうやって話すこともダメだったんだけど、これが本当に最後でいいから、正樹とお話しさせてください、って神様にお願いしたの」
雨はどんどん弱くなり、もはやぱらぱらと降るだけの小雨になってきている。
「あたし、自分が死んじゃったってことを、ずっと認められなかった。だからこの場所から離れられなくて、でも本当に消えちゃうのも怖くて。一人ぼっちでつまらなくても、このままずっといられればいいかな、って思ってたの。でも……」
そう言って俯いた咲月の目から、一つ、二つ、雫が落ちた。
「あたし、やっぱり、一人じゃつまらない! もっとちゃんと、正樹とお話ししたい!正樹と遊びたい!だから、だからっ、怖い、けどっ! ちゃんと消えて、ちゃんと、生まれ変わる……。そうしたら、今度こそ、あたしと、友達になってくれる?」
想いのたけを叫ぶように吐き出し、顔を上げた咲月は、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも笑っていた。ほとんど消えかかった姿で。
その姿は、とても美しいと、正樹は感じた。
「……当たり前だろ、そんなの」
正樹もこぼれてくる涙を堪えることができなかったが、最後まで咲月の姿を見ていようと、俯かずに、まっすぐに向き合った。
「……ふふ。正樹の泣き虫。約束よ」
咲月はそう言って、泣き笑いのまま小指を立てて右手を正樹に差し出してくる。
それに応えようと、正樹も右手を差し出す。
しかし、小指同士が絡むことはなく、咲月の姿は、傘ごと完全に消えてしまった。さっきまでそこにいたのが、まるで嘘のように。
「……約束だ。俺も、頑張るから。ちゃんと、自分の可能性を、信じてみるから」
正樹は小指を立てたまま、言う。正樹の声が咲月に届くかはわからないが、きっと届いていると信じて。
正樹が空を見上げると、いつの間にか雨は上がっていた。雲の切れ間からうっすらと陽の光が差し込んで、まるで天に昇る梯子がかかっているようだった。
正樹は傘を閉じて、歩き出す。
その顔にはもう涙はなく、ただしっかりと前を見据えている。
自分の歩く道が、どこかに繋がっていると信じて。
正樹が会社をクビになったことを打ち明けた時は、両親ともさすがに驚いていたが、すぐに笑顔になり、また次頑張ればいい、と言ってくれた。
「お母さんもパート増やすから、少し休んでもいいのよ」
母親はそこまで言ってくれたが、さすがにいつまでものうのうと休んでもいられないし、もう結構な高齢に差し掛かりつつある母親に無理はさせられないので、早く仕事を見つけて働かなくてはいけない。
それが咲月との約束でもあるのだから。
自室のパソコンで就職サイトを回遊していると、リビングから、あら、という母親の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「ほら、お父さん、見て見て。正樹も、ちょっと来て見てごらんよ」
母親の呼ぶ声に応えてリビングに行くと、甘いような上品なような、いい香りがした。窓際に置かれていた小さな鉢植えのそばに、両親がいる。
「ほら、月下美人の花が咲いたのよ。久しぶりに雨が止んで月が出た日に咲くなんて、素敵じゃない」
小さな鉢植えでは、白く美しい花が咲いていた。
「この花って、一晩しか咲かないのよね。でも本当に綺麗だわ」
母親は嬉しそうにはしゃぎ、父親も無言で花の美しさを愛でている。
「月夜に咲く、か」
正樹は、ぽつりとつぶやいた。
もしかして咲月が挨拶をしにきたのかな、なんて柄にもなくロマンチックなことを考えて、親に気付かれないように正樹は静かに微笑んだ。
梅雨明けは、そう遠くないところまで来ている。
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