第1話 増水季の訪れ

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第1話 増水季の訪れ

 新年を迎えた日から、既に一ヶ月半が過ぎていた。  夏の暑さも少しは和らぎはじめ、農夫たちは一息つきなから水路を開いて畑に水を招き入れる。  大河ナイル(イテルウ)の水位は、はるか上流の、「神秘の水源」からもたらされる増水によって、順調に上昇を続けている。あと一月ほどは水位の上昇が続き、それから減少に転ずるが、畑は、たっぷり二ヶ月は、水の下に隠れているだろう。  川の水位が上昇する増水期(アヘト)――毎年、この季節になると氾濫によって風景が一変する。水辺の広い土地が水の下に沈んで、村々は大きな浅い湖の間に点在する島のようになるのだ。メンフィスの街から下流の地域では、風景のほとんどが水の下だった。  文字通り、世界がほんの一ヶ月足らずの間に一変する。それも毎年、決まった季節に。雨の降らないこの国の隅々にまで、遥か彼方からやって来た大量の水が浸してゆくのだ。それはまさに、神の御業と呼ばれるに相応しい現象だった。  ちょうど上流と下流の中間地点にあたるメンフィスの街からは、狭い谷間を堂々たる大河として流れる北側の風景と、巨大な湖と化した世界に空を写したような南側の風景とが、両方同時に見て取れた。  城壁の上に立って、その風景を眺めているのは、並んで立っている二人の若者だ。どちらも、まだ少年と呼んでも差し支えない年齢だが、既に就職して一人前の役割をこなしている。  チェティは州役人で、穀物の税収管理をする書記。  ネフェルカプタハはこの街の主神であるプタハ神の神殿に仕える神官だ。  二人はかつての書記学校の同級生で、幼馴染でもあった。今はお互い就職し、それなりに忙しいのだが、特に用事がなくてもこうして暇を見つけては落ち合って、何をするでもなく、雑談しながら過ごしている。  今日は、この季節に特有の絶景を眺めに、近所で一番見晴らしの良い場所へやって来たのだ。  街の別名、白い城壁(イネブ・ヘジュ)の由来でもある立派な石積みの城壁は、壁際まで水が押し寄せてもびくともしない。  「はー、毎年のこととはいえ、すげーよなぁ」 ネフェルカプタハが、感嘆の声を上げる。  目の前では、小舟を浮かべて舟遊びをしている人々が沢山いる。普段は水が来ない場所まで水没して、小さな舟ならどこへでも行けてしまう。浅い水面をあちこち漕ぎまわったり、泳いだり出来るのも、この季節ならではだ。  「みんな楽しそうだね。水の上は涼しいのかも」  「舟に乗ったほうが良かったか?」  「いや…。今は、そんな気分じゃないし、いいや」  「なんだよ。今日は休みなんだろ? 気分転換くらいしろよ。てか、執政官に言いつけられた例の仕事、そんなに大変なのか」  「うん…。」 チェティは、ゆったりとした水の流れる光景を眺めながら、ひとつ、小さなため息をついた。  言いつけられた仕事、というのは、下流の州から移住してくる人々の受け入れのための政策を考えろ、というものだった。  それも、移住者が大神殿の私有地である神殿所領より、州の所有する農地で小作農になりたがるような魅力的な案を出せ、という、なかなかに無茶なものである。全ての州で一律で、下げることが出来ない国の税率に比べ、神殿所領のほうが税率的には有利なのにも関わらず。  そんな話を、大神官の息子であるネフェルカプタハに、あけすけに相談しているのだから、機密も何もあったものではない。もっとも、実際に政策が施行されれば皆が知るところになるのだから、情報が漏れたところで、特に問題も無いのだが。  「どうすれば良いのかな…。税率は変えられないのに、州の耕作地に人を呼ぶなんて。」  「まあ、何がしかの優遇つけるとか、そういうのしかないんじゃないか? 税の一部を別のものに変えてもいい、ってことにするとか」  「それはもう、考えたんだ。だけど、農作物にしろ労働力にしろ、税の種類は国に決められてるし、結局、神殿のほうが有利なのは変わらない。来週の州議会までにまた何か案を持っていかなくちゃならないのに、全く何も思いつかないんだよ」 チェティは、うんざりした顔で城壁に顎を載せた。彼の沈んだ表情とは裏腹に、目の前では、黒くたゆたう水面に太陽の輝きが反射して、きらきらと魅力的に輝いている。  世界は明るく輝いて、何の問題もないように見えている。  川の水位は、畑の作物の出来を直接的に左右する。この水位なら、今年も問題なく収穫は保証されるだろう。  そして目下のところ、大きな揉め事も、気になる事件も起きていない。  ――だが、チェティの頭の中には暗い靄がかかり、喉元に引っかかった小骨のように、言いつけられた仕事が不快感をもたらしているのだった。  そんな相棒の様子を見て、ネフェルカプタハは、困ったように頭をかいた。相方がこれでは、一緒にいるほうも調子が狂ってしまうのだ。  「今日、これから実家に戻るんだろ?」  「うん。さすがに、週に一度くらいは顔を見せないと、イウネトに文句を言われるから」 イウネトというのは、成り行きで決まった彼の婚約者だ。  「なら、可愛らしい婚約者になぐさめてもらえよ。ついでに、ジェフティさんの意見でも聞いてきたらどうだ。」  「兄上かあ…。」 チェティの長兄、ジェフティは、大神殿で筆頭書記を務めている。まるで秩序の化身の如く公明正大な人物で、頭の回転が早く、チェティなど到底敵わないほどに洞察力がある。  「俺に相談しといて、今更、神殿の関係者に相談出来ねぇとかはないだろ」  「まあね…。だけど、あの兄上だよ? 『自分が答えを出しては、お前の仕事にならない』くらいは言い出しそうじゃないか」  「あー…それは、あるな。なら、もう一人の兄貴のほう…ああ、そういや今、出かけてるんだっけ?」  「ペンタウェレ兄さんなら、そうだよ。今は、下流の第二州との境目まで様子を見に行ってる」 次兄のペンタウェレは、最近、東の国境にある砦から帰ってきたばかりだ。州軍に再就職して、今は「治安維持隊」なる部隊を任されている。  三年前に始まった東への遠征が失敗して、国境から続く街道の砦も全て陥落するという大敗北を喫した報せが届いたのは、つい最近のこと。  敗走の後、各地から集められていた傭兵たちも、徴兵された人々も、何も与えられず、帰路の保証もされず、着のみ着のままで国境の砦に放り出されてしまったのだ。  そのせいで、行き場をなくした遠征隊の兵は国境に近い地域を荒らしたり、勝手に住み着いたりして、元の住民を追い出している。スリや盗人になってしまった元兵士もいて、このメンフィス周辺でも、軽犯罪は増えている。  かつて砦の守備隊にいたペンタウェレは、そうした荒くれどもの扱いも心得ているというので、さっそく面倒な役割に駆り出されたというわけだ。  「せっかく街に戻ってきたと思ったら、また遠征とは、お前の兄さんも大変だな」  「そうでもないよ、ペンタウェレ兄さんはジェフティ兄上とそりが合わないから、顔見なくて済むって嬉々として出かけていった。今回はそれほど遠くへ行くわけでもないし、今の季節なら舟で移動できるから楽だって」  「ふーん…。兵士ってのは考え方が違うんだなあ。俺なんて、生まれてこのかた一日以上、この街を離れたこと無ぇっつのに」  「えっ? そうだっけ?」  「そうだぞ。そのはずだが…何か、あったっけ?」  「いや、何でもない。」 チェティは、何故か肩をすくめて口を閉ざす。  「おかしな奴だな。」  首を傾げながら、ネフェルカプタハは、視線を遠くへ投げかける。水に取り囲まれた視界の半分と、いつも通りの街の雑踏が広がるもう半分の視界とを交互に見比べた。  水位の低い時でも使えるよう、深く地面を掘り込んだ船着き場以外の場所には、街を水没させないための高い土手が築かれて、水を仕切ってある。  街の西側に広がる農耕地へは、街の北と南に掘られた大きな運河から水が引き込まれ、網の目状の水路によって畑へと引き込まれているのだ。  「ここから見えない場所まで行く、っつぅのは、あんま想像できねぇな」  「そうだね。兄さんみたいな遠くへは、行く気もしないよ」  この街に住むほとんどの人間が、城壁の上から眺められる範囲を超えて遠出することは無いだろう。出かけても、せいぜいが、少し上流か下流の近隣の町、あるいは川の対岸くらい。  一生を、生まれ育った街の周辺から出ずに過ごす者は多いのだ。チェティの二番目の兄ペンタウェレのように、その先まで、――海や沙漠まで足を伸ばし、己の目で世界を見てきた者など、どれほど居ることか。  「――そうだ。新しく迎えた聖牛、元気にしてる?」 ふと彼は、話題を変えた。  「ああ、元気も元気だ。飯をよく食うし大人しいっつって、エムハトの奴が喜んでたぜ。たまに薬草園の脇で運動させてやってるんだが、こないだ…」 他愛もない世間話。  それから、時間が来て二人はいつものように別れた。そろそろ、ネフェルカプタハは神官の日課をこなしに戻らなければならないのだ。  一年で最も活気のあるこの季節。  街の守護神である冥界神の統べる闇の世界とは対照的な、太陽の輝きの支配する明るい時間が長く続く。  最も、冥界神の妻は太陽の娘であるセクメト女神だ。そして二柱の間の息子ネフェルテム神も、太陽の化身とされる神だから、この季節には、妻と子が代わりにしっかり世界を見張っているのだろう。  この季節、管理された水辺には、明るい色をした水連の花が咲く。まるでで、太陽そのものの化身であるかのように、光のような花弁を空の映る水面に大きく開かせながら。  ネフェルカプタハと別れたあと、チェティは、城壁の中に続くつづら折りの階段をゆっくりと降りて大通りに出ると、そこから小道へと入り、実家のほうへ向かって歩き出した。  この街で生まれ育ち、裏路地まで知り尽くした彼にとっては、人通りの多い大通りをわざわざ通る必要はない。どんな小道からでも、家に続く道を辿ることが出来る。  と、狭い路地の向こうから、足早にこっちに向かってくる人影があることに気がついた。  (あれ? …) 珍しい格好をした、若い男だ。毛織物だろうか、異国風の上着を腰に巻き、引き締まって日焼けした上半身を晒しながら、迷いなく路地を潜り抜けている。  チェティは、反射的に脇へ退いて、やって来た男に道を譲った。相手は急ぎ足だが、こちらは別に急いでは居ない。ゆっくり家に帰ればいいだけなのだから。  男とすれ違う時、毛織物の、柔らかい感触が軽く腕に触れた。何ということはない旅人のはずなのに、チェティは、その男の纏う独特の雰囲気が、少し気になった。  (ペンタウェレ兄さんみたいな雰囲気だったな。軍人さんかな?) 戻ってきた遠征隊には、アジア(アアム)人――まとめてそう呼ばれる、国境より東のどこかの小国に住む部族出身の傭兵も、沢山いたという。彼らもまた、この国出身の兵士たち同様に、行き場をなくしてどこかに定住の地を求めているはずなのだった。  チェティの許嫁として彼の実家に同居している少女イウネトの母親も、東の異国人だったと聞いている。異国出身でこの国に暮らす人々は、最近では、珍しくもない。  ましてやこここは、一帯で最も大きく賑やかな街、州都メンフィスだ。  人と物が集まり、再び散ってゆく水運の要所。特にこの季節は、昼夜を問わず大小の船が行き来して、川の上流と下流とを結んでゆく。  だからチェティも、その時は、とくに気にも留めなかった。  すれ違った男は武器を帯びているわけでもなく、なにか後ろめたい様子も無かった。法を犯していないのなら、出身がどこの誰であろうと、特に問題はないのだから。
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