おばあさんが降らせた雪

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
雪の積もることなんて滅多にない都会で生まれ育ったジュンくんは、その日の朝の大雪がうれしくて仕方なかった。 こんなに積もった積もった、たったのヒト晩で、と自宅の庭の風景が一面真っ白に変えられたのを見て、奇蹟というのはこういうことを言うのだろうかと大袈裟にも感心した。 学校に行くと、クラスのみんなも大はしゃぎで、体育の時間は運動場で雪合戦をやったが、それでも物足りなくて、休み時間にもやった。 その後も、雪は降り続き、この地方でのこんな大雪は観測を始めてから初めてのことですとTVの中の気象予報士も驚きの声を上げていた。 それでも、降り続いた雪は根雪となることもなく、そのうち溶けるんだとパパとママから教わったジュンくんは、そっかーと気落ちしたが、そのぶん、雪のあるうちにぞんぶん、楽しめることをやっちゃおうと決めた。 今日の午後にはようやく雪もやむでしょうと天気予報で告げられた、その日曜日、ジュンくんは早起きをして、庭に出て、掬った雪で顔を覆った――「エヘッ、これって、雪の顔洗いだね」。 ひえーっと冷たさを感じないわけはないが、耐えられないことはない。耐えられないでどうするんだよとキモチを踏ん張らせると、キンとツラいような快さが来た。 ボクは今、雪で顔を洗ったんだ。この世ってものにかれこれ10年ぐらい生きているが、雪で顔を洗うのなんて初めてのことだよ、これってイカしてんじゃんか、と誰彼構わず自慢したくなった。 それからジュンくんは、キッチンの食器棚から持ってきた、ちいさなガラスの器に雪を移して、粉砂糖を掛けてまぶしたものを、そっと食べてみたりもした。ヒンヤリを通り越して、何だか怖いくらいの冷たさをもらう舌――ミルクもかけてすっかりカキ氷になんてしちゃおうかな。ジュンくんはワクワク感を抑えきれない。 「何をしているんだい」 その時、縁側から声が聞こえた。 おばあさんの希江子さんだった。車椅子に乗っている。希江子さんは年寄りのせいか、いつも早起きで、その分、朝の時間を持て余しているようなところがある。 「さっきから見ていたよ」 耳が遠くなっている分、大きな声で話し掛ける。 「何をさぁ」 何を見られていたか判っているくせ、ジュンくんは、そんなこたえ方をしてあげる。 希江子さんは嬉しそうに顔を歪めて(それはちょっと今にも泣きそうな表情を浮かべているようにも見えるのだが)、ほら、ジュンちゃん、あんたはこうやってね、と短い腕で、顔を洗い、そのあと、雪を食べる、そんな動作をしてみせる。 「バレちゃってたかぁ」 ジュンくんは、冷たい手で頭を掻いた。 ジュンくんはそれから、縁側に近づき、雪投げのポーズをした。 ソーレと架空の雪玉をヒトツ投げると、上手に手を突き出して、希江子さんは享け止める。 ストライクッ、なんてお褒めの言葉も透かさずくれるが、ホンモノの方が、いいなぁとリクエストなんかもした。 仰せにしたがい、手のひらで適量の雪を掬って、玉を拵えるジュンくんだが、さすがにそのまま希江子さんに向かって投げるのにはためらいが勝った。 雪玉を享け損なって顔になんて当たってしまったら、たいへんだ。何しろ、おばあさんなのだから。 だが、どうしたの、ジュンちゃん、ほら、投げて投げて、と希江子さんはせがむのだった。 リクエストにお応えして、ジュンくんは、ゆっくり雪玉を投げようとした。1歩2歩と希江子さんに近づけるだけ近づいて……すると希江子さんは、こちらを少し睨むような顔になった。 「手かげんは、やめてほしいよ」 決然とした言い方だ。 「せっかくの雪じゃないの。そんな恐る恐るって感じじゃあ、雪さんに対しても、シツレイってものだよ」 それもそうだねとジュンくんはすなおに、あとずさりして適度な距離感を取り戻して、雪玉を投げた。 希江子さんは上手に受け止めた。胸の前で受け止めた雪玉を、そっと口に持って行って舐めるようにして、おいしいと言った。 雪遊びなんてするのはどれくらいぶりだろう、と希江子さんは感慨深げな顔つきを、孫に向ける。一つ溜息を付く。雪遊びと言ったって、ジュンくんが、雪玉を投げて、自分が受け止めた、それだけのことだけれど……でも、それだけのことがこんなにうれしい愉しいと愛しさが募る。 もう雪投げはやめて縁側に腰かけているジュンくんを、車椅子の希江子さんは、少し見降ろすような姿勢である。 「おおきくなったね」 それでも思わず、そう言わずにいられない。背丈が伸びただけではない。強い投げ方をしては、おばあちゃんが困ると思いやってくれたりもした。気が付かないうちにも、この子は成長しているのだと感心する。 おおきくなったね、とあらたまっての口調で言われて、ジュンくんは少し照れた。 生まれた時からいっしょに暮らしているのだから、今気が付いたというように今さらそんなことを言われても、という気持がある。 おおきくなったね。もう1度呟くように言われると、ジュンくんは立ち上がり、希江子さんの後ろに回って、彼女の肩を揉んだ。 「ああ、いい気持だ」 希江子さんは、そのまま眠ってしまいそうなか細い声で、有り難がる。 ジュンくんは、肩を揉む動作を休ませないまま、言った。 「おばあちゃんの肩って、硬い」 「凝ってるからね」 「ううん、そんなんじゃなくて」 そう、そんなんじゃなくって……その先の言葉がうまく出てこない。 ジュンくんは、ほんの少し焦りのようなものを感じて、そうすると、肩を揉む動作が鈍った。 「どうかしたかい?」 気遣われていると感じる。こんなことじゃいけない、とも思う。このぼくの方から、気を使ってあげなくてはいけないんだとジュンくんは思う。 「雪投げは、疾っくにしたんだろう。学校のお友達とかと」 「うん、したよ。体育の時間にもお昼休みにもね」 「雪だるまは……」 そこまでのことはしていない、と言いかけて、うん、1コだけね、ちっちゃいやつをね、とジュンくんはウソをついた。 体育の時間、雪合戦に飽きると、雪だるまを作ろうと子供たちは張り切ったが、あいにくそこで終業のチャイムが鳴って、おあずけになってしまった。学校が終わったら、作ろうと言い合っていたのだけれど、放課後になると、猛吹雪のようなことになって、集団下校を促され、それどころではなくなった。 翌日になると、これが面白いところだが、何だか気勢がそがれたのか、誰も雪だるまのことは言い出さない。かくして、雪だるまはまぼろしの産物となってしまったようなところがあったのだ。 「作ろッか。いっしょに、さ」 希江子さんは、急に陽気な声を上げた。 「そうだよ。雪だるまさんをさ、ちっちゃくてもいいからさ。お人形さんみたいなのだって、雪だるまさんは雪だるまさんだよ」 希江子さんは、庭中の雪を見渡して、威勢のいい声を上げた。このおばあさんにも、これほどの元気な声が出せるんだとジュンくんは驚く思いがしたが、いっしょにさ、と言われても、車椅子の希江子さんとどうやって、雪だるまを拵えればいいのだろう。 孫の迷いを、しかし、希江子さんは素早く察したか、わたしは目玉を入れるお役目ね。それくらいなら、カンタンだよ、と笑う。 それから、希江子さんはテキパキと雪だるまづくりのための指示を与えた。 お風呂場から、お風呂の蓋を持って来させて、その上に何枚も新聞紙を敷かせる。昨日の朝刊、おとといの夕刊とジュンくんは、新聞紙を分厚くさせ、さて、そうして、その上に雪だるまを乗っければいいんだな、と理解したが、それじゃあ、車椅子のおばあさんは何のお役目も果たせないと気づいて、キッチンから俎板を持ってきた。その上に、雪だるまを乗っけて持ち上げれば、わたしゃ、オ目目の係ネ、うん、ボタンのオ目目、入って嵌め込んであげるのよと腕まくりをしそうなおばあさんを満足させてあげられるだろう。 その目玉用のボタンは、どうしたものやら、これこれと希江子さんが、上着のポケットから取り出す。ポトンってね、畳の上なんかに落ちていたのを拾っていたの、いつか役に立つこともあるのじゃないかってね。その予感が、こうして当たったと希江子さんは自慢気な顔になる。 「パパとママももうじき、目を覚まして起きてくるだろうから、そうしたら、びっくりさせてやろうよ。おばあちゃんととジュンちゃんの二人で拵えた雪だるまさんだってね」 共働きの両親の日曜の目覚めは早くない。1週間分の仕事の疲れを癒すだけ癒したいというような眠りの時間を、パパとママは格別のものとしているのだから。 これから起き出して来て、驚くパパとママの顔を見たい、とジュンくんも思った。 淳くんは素手で拵えたちっちゃな雪だるまさんを、もう、俎板の上に載せた。持ち上げて、おばあさんの目の辺りまで持って行く。 希江子さんは、よいしょと嬉しそうな声で言ってから、ボタンの目玉を、雪だるまさんの顔に埋め込む。最初、それじゃ、おばあちゃん、お鼻のあたりだよ、とジュンくんから注意されてしまったが、ごめんなさいよと謝ると、正位置に両目のボタンを嵌め込んだ。 そのお鼻の部分は、庭の梅の木の根元の雪を掻き分けて見つけた、先のとがった小石を入れこんだ。お口は、適当な物が思いつかず、ジュンくんが人差し指で、スッと切れ目を入れることで済ませたが、それでも何とか格好が付いた。 「出来上がり、出来上がり」 おばあさんと孫は揃って、拍手をした。 雪はすっかりやんで、もう、たくさん降ることもないのだろう、と見上げる空の真ん中辺りから、降る雪の代わり、何かの声が聞こえて来そうで、淳くんは耳を澄ました。希江子さんもそうしている。 何か、聞こえるよね。そうだね。 わざわざそんな言葉を交わし合ったりしないまま、希江子さんとジュンくんは頷き合った。 パパとママはまだ起き出して来ない。 起こしに行ってこようかなと気持を逸らせ、縁側にと上がるジュンくんの頭を、希江子さんはゆっくり撫でて、もう少しお待ちなさいよ、とやさしい声で言った。 ――あのちっちゃな、ちっちゃな雪だるまさんは、どれくらいの時間、あのままの姿でいられたのだろう。 雪を降らさなくなった空は、それから、陽の光を照らさせ、庭一面の雪を呆気なく消した。 だから、もう、午後の何時かには、融けてしまっていたことだろう――。 そして、 その幾日か後、希江子さんは、急の発作を起こして、息絶えた。 もともと心臓の持病があったが、それにしてもこんなに早く、とパパとママは悲しがった。 ちっちゃなちっちゃな雪だるまさんの顔に、両眼を入れたおばあさんは、こうしてやると、何だか自分のオ目目を、雪だるまさんにあげたような気持になるね、と笑った。 でも、私のオ目目は、こうして右も左もちゃんと見えている、有り難いことだね、ともう一度笑うと、またジュンくんの頭を撫でた。 ぼくの目もしっかり見えている、とジュンくんは、快晴続きの空を見上げる。 両眼を開けて空を見ても、閉じて空を頭の中で思い浮かべていても、どっちだって、希江子さんの顔が、笑顔が浮かんでくる、とジュンくんは泣きそうになったが、泣かなくっていいんだよと、静かな声が降って来た。 声が降れば、また雪も降って来る。 おばあさんの降らせる雪なんだ、とジュンくんは泣き顔を、ちょっぴり晴れの気分にさせたいように、少し笑った。そうして、まぼろしの雪を本物にしてやりたかった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!