1節 フランス菓子

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1節 フランス菓子

 雪の玉を作る。そのためには薄力粉、バター、粉砂糖、アーモンドプードルが必要だ。ブール・ド・ネージュ。フランス語で「雪の玉」という意味の焼き菓子である。  私は粉ふるいに薄力粉を入れて側面をたたいた。白い粒が編み目を通ってきめ細かになっていく。受け皿に降り積もる様はまるで雪のようだ。粉をふるう作業は慣れているはずなのに、意識が過去に引っ張られる。 「お母さん」  つい呼んだ名前は稼働中のレンジフードに吸い込まれた。返事はない。耳を澄ませても、空気が循環する音と、金属製の枠を一定の間隔でたたく音しか聞こえなかった。孤独だ。キッチンに立つ自分は間違いなく一人であった。  ふうと息を吐き出す。粉が舞わない程度のため息では、感傷的な気分から抜け出すことはできそうになかった。  粉ふるいから手を離して視線を上げる。  年季の入ったレンジフードに、桃を模したキッチンタイマーが貼り付いている。液晶画面に表示されている時刻は午後二時だ。  三年前に買い替えたキッチンタイマーは、見た目のかわいさもさることながら、機能面も充実している。時刻表示は搭載された機能のうちのひとつだ。  胡桃沢(くるみざわ)家の食におけるよりどころであり、花の女子高生と呼ばれる三年間を共にした調理器具でもある。  冷蔵庫からバターを取り出して、そろそろ二時間になる。柔らかくなっただろうか。確認すべく、人工大理石で造られた白い天板に視線を戻す。  ふるった薄力粉の奥に、食品用ラップフィルムでふんわりと包んだバターを置いていた。天板の奥に右手を伸ばす。人差し指を立てて、食品用ラップフィルムの上からバターを軽く押す。バターは力が加わった分だけへこんだ。常温に戻ったらしい。  回れ右をして二、三歩ほど進む。冷蔵庫の横を通り過ぎれば、炊飯器やトースター、オーブンレンジなども収めた食器棚がある。今回の目的はオーブンレンジだ。ブール・ド・ネージュの生地を焼く前に庫内を予熱しておく必要があった。  下準備が終わってひとまず肩の力を抜く。  数秒後、私は口角を上げて気合いを入れ直した。  (きびす)を返してキッチンの引き出しを開ける。必要なのはボウルと泡立て器だ。空のボウルにバターを入れて、泡立て器で練っていく。  お菓子作りを始めたのは、亡くなったお母さんがきっかけだ。仕事とは別に趣味として楽しんでいたように思う。お母さんは腕が立つ素人だった。身内びいきは言わずもがな、記憶の美化もあるだろう。それでも見えなくなった背中をまだ追いかけている。  調理器具もほとんど買い替えず受け継いだ。私は、生前のお母さんと同じ場所に立ち、同じ調理器具を使い、きっと同じように香り立つバターを嗅いでいる。
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