遺された自画像

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 修復が完了するまでには年単位の期間が掛かった。修復とはいかに困難な作業なのかをその期間で思い知った。  結局、父の部屋は売れるものは売って、あとは遺品整理の専門業者に頼んですべて処分してもらった。アルバムが出てきたようで、どうしますかと聞かれて、私はそれは受け取ることにした。そこでやっと、父の顔を改めてちゃんと知ることになった。アルバムの話も母にしようか迷ったけれど、母の心労を思うと言わない方がいい気がして、私の部屋に置いておくことにした。  工房に顔を出すと、電話でも興奮気味だった安藤が顔を出してきた。なんの絵が出てきたかは電話では教えてもらえなかった。直接見ていただいた方がいいかと思います、とだけ説明されてやってきたのだった。  工房にはいくつか部屋があり、一人一人の作業場が設けられているということだった。そこで、安藤の作業場に案内されていた。 「こちらです」  そう言って、イーゼルに乗せられた布の掛けられた絵画の前に案内された。白い布の掛けられたその絵は、果たしてどんなものだったのだろう。安藤がもったいぶった様子でゆっくり布をめくる。  そこに出てきたのは、 「え、これ……お母さんと…私?」  それは、まだ生まれてきたばかりの赤子を抱く、母の若い頃にそっくりな女性の絵が描かれていた。なんて優しい表情、柔らかい色使い。あの精密な風景画を描いた父の作品とは思えないほど、その絵には温かみがあった。綺麗に場面を抜き取るだけじゃなく、そこには愛情が感じられたのだった。 「この絵はたぶん、三十年かそれ以上は経っていると思われます。下の絵に損傷はあまりなく、上の自画像だけが剥がれやすくなるように描かれていたとしか思えませんね、やはり」  安藤は、笹枝先生のこんな作品が見つかったなんて知れたら、コレクターたちがこぞって欲しがるでしょうね、と言っていた。  ”私の自画像を残す。  悔いの残る人生だった。  それでも、私は幸せだった。  愛する、妻と娘へ”  何度も読み返した遺書が頭を過る。  不器用な人だったのだろう。絵を描く以外に表現する能力が乏しく、母への愛情も、私への愛情も、表立って表現することができない人だったんじゃないか。不意にそう思ったとき、思わず目頭が熱くなるのを感じた。今まで赤の他人のような気がしていた父が、初めて父親なのだと実感したようなそんな感覚だった。  私は愛されて生まれてきたのだと、初めて実感できた気がした。
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