第15章 婿養子

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第15章 婿養子

1968年(昭和43年) 1月8日。 祐二は、小谷野家を訪問する。 大きな門の横にある木戸口を潜り、広い庭に出た。 井戸の前を横切り、玄関に着くと呼び鈴を押した。 すぐに亮子が出てきた。絣の着物を着ていた。 亮子の案内で敷居を跨ぎ、開け放された囲炉裏のある部屋の前を通り、隣の広い和室に通された。 その中央には、檜の巨木で作られた日光彫の大きな和風のローテーブルと、座卓が四つ置かれている。 廊下側に座った。 亮子が、一旦部屋から消えた。 しばらく待たされたが、彼女がお茶をお盆にのせて再び現われ、四つの茶碗をテーブルの上に置いた。 「まもなく姉夫婦が来るから、少し待っていて。あまり緊張しないでリラックスしてね」 床の間の掛け軸を見ながら「分かっている。気持ちが落ち着くように深呼吸している」と、言って深呼吸をした。 今日は、一着しかない仕事用の背広を着こみ、白いシャツに亮子からもらった手編みのネクタイを締めてきた。 何度もネクタイの結びを調整し、緊張を紛らせた。 結婚の承諾 やがて、姉夫婦が笑顔を作って部屋に入ってきた。 婿養子の正二郎よりも、妻の恵美の背が高い。 亮子がいつも祐二に聞かせているように、姉は面長の顔に奥二重のきりりとした目、高い鼻が整っている。 往年の女優のような、円熟した女の美しさがある。 とても、農家の長女とは思えない気品に満ちている。 亮子とも似ている。 おそらく亮子も年を重ねると、姉のような体形と長い顔たちに変わっていくのだと思った。 それに引き換え、夫の正二郎は風采の上がらない体で、家長としての威厳や風格が備わっていない人物に見えた。 夫婦が座卓に座り終えると、家長の正二郎が口火を開いた。 「初めまして、松岡さん。私は小谷野正二郎です。こちらが妻の恵美です」 恵美が笑顔で、お辞儀をする。 「初めまして、松岡祐二です。よろしくお願いします」と、祐二も頭を下げる。 「亮子から貴方の気持ちと、貴方の家庭の事情も聞かされています。私たちは、基本的に二人の結婚には大賛成です。特に、貴方は長男と言っても、家を継ぐような環境にもないと伺っているので、何の問題もないと考えています。そうだよね、恵美さん」と言って、妻に相槌を求めた。 「ええ、そうですとも。お似合いのカップルだわ。亮子が中学生の頃から、貴方のことをよく聞かされていたのよ。その頃から貴方に『首たっけ』だったようですね・・・この子は」と言って、亮子の方に顔を向けた。 亮子は下に顔を向け、黙って頷いている。 続けて、「今は農家でも、自由恋愛の時代になっています。ただそれでも、代々続く農業を継承していくには、自由恋愛が許されない場合もあります。私たち夫婦もお見合い結婚です。それも正二郎さんには婿養子に入っていただいたの。お聞き及びでしょうが、小谷野家は女系家族で後継ぎの『男手』がなかったものですから、そういうことになりました。それが農家の宿命なのです」と、一気に喋り続けた。 どうやら妻の恵美が、主導権を握っているようだ。 祐二は、恵美を見ながら黙って聞き入っていた。 その後しばらくは、亡くなった両親や姉妹の家族や親戚のこと、母屋、倉、納屋の家屋、それに田畑の広さと貸し駐車場など、小谷野家のルーツや現在の概要を聞かされた。 豪農であることが、うかがい知れた。 話が一段落すると、蕎麦で軽い食事をとることになり、おせち料理の残りとお餅もテーブルに並べられた。 祐二は、これで結婚を承諾された、と考え安堵した。 落ち着いて、食事をすることができた。 ただ、まだ亮子は神妙な面持ちで、配膳の手伝いをしていた。 その食事が始まっても、落ち着かない様子。 結婚の条件 「ところで、そろそろ本題のお話しをしたいと思います。松岡さんよく聞いていただいて、こちらの希望に対する、ご返事を聞かせていただきたいのです」 「はい、わかりました」 すると今度は、正二郎が話を始めた。 「大事なことなので、本日すぐにご返事をいただかなくても、後日でもけっこうです」 (えっ・・・これから本題があるの、結婚を承諾してくれてその確認なのでは・・・) 再び、恵美が膝を前に進め「私からお話ししますわ」と、口を開く。 「実は、本題と言うのは、単刀直入に言わせていただきますと、松岡さんに小谷野家の婿養子になっていただきたいのです。つまり、私たち夫婦の養子です。こちらの事情は、たぶんお知りになっていると思いますが、私たち夫婦には後継ぎの子供がおりません。私もこの年齢になっており、子供の誕生は、あまり期待できない現実に直面しています。すでに嫁に出た7人の妹の夫の中からの婿養子も考えられます。ですが、できるだけ若い人達に、後を継いでいただくのが理想的だと思っています。貴方にも亮子にも、農業の経験はないことは百も承知の上で、考え抜いた末の小谷野家としての結論なのです」 と、条件付きの結婚承諾であることが告げられた。 予想もしなかった申し出に驚き、頭の中が混乱した。 亮子はこの話を知っていたのだろうか、それにこの提案に賛成なのだろうか。 自分一人では決められる話ではない。 すぐに、返す言葉が見つからなかった。 「条件付きの結婚の承諾とは言いたくはないのですが、婿養子が小谷野家の結婚の条件になります。それに婿養子ともなると、例え家を継ぐ必要がないとは言え、後々の問題もありますから、松岡さんのご両親の了解も事前に確認させていただきたいのです」 と、正二郎が家長らしく最後をまとめた。 しばらく沈黙が流れた。 祐二は、考えがまとまらない。 亮子と結ばれるためには、何でもする気持ちでいたが、果たして自分に農家が務まるのか不安がある。 何よりも、亮子の本心を聞きたかった。 決心は、すぐにはできなかった。 しかし、この場で何らかの言葉を発し、場を繋げることをしなければならない。 沈黙の後、重い口を開き始めた。 それは、自分でも予期していなかった言葉が自然に出てしまった。 「亮子さんと結ばれるためには、何でもする覚悟でいましたから、養子のお話を喜んで受けさせていただきます。それから、私の両親にこの件について了承してもらえるように、後日、実家に戻り話しをしてまいります」 さらに続けて、 「ただ、お願いが一つあります。この4月から、夜間大学ではありますが、進学することが決まっています。それを認めていただければと思います。それと、今ここで亮子さんの、この養子の件についての、彼女の気持ちを確認させていただきたいのです。二人の間では、この件についてまだ話し合っていません。是非二人だけの時間を、ここでいただきたく思います」と、言い切った。 姉夫婦が顔を見合わせた。 恵美の表情は柔らかい。 「ええ、よかったわ。ご両親のご了承を待ちましょう。そうね、隣に続き間がありますから、今二人でよくお話して、お互いの気持ちを通じ合わせておいた方がいいわね。じっくりお話合いをして頂戴。私たちは、しばらくこの席を外しますから、話し声が聞こえることもないでしょう」と言うと、夫を促して部屋から出て行った。 若い二人は、隣の続き間に移り向かい合って座った。 「ごめんなさい、養子の件を伝えることができなくて。年末からお正月の間はいろいろな行事が重なって、貴方に連絡することができなかったの。びっくりしたでしょう」 「ああ、勿論驚いた。それで君はいいのかい?二人で公営住宅やマンションに住みたい夢があったろう・・・」 「ええ、それは今でも思っているわ。私だって姉たちのように、この家を出て都会的な生活を送りたいと望んでいたけれど。親代わりの姉夫婦に真っ向から逆らうことは、なかなかできないの。それに母が亡くなる前から、姉さんに子供ができなかったら、私が婿さんをもらって小谷野家を継ぐように、と遺言もあったの。でも当時は、私には現実的にピンと来なかった。姉も健康そうだし、いずれ子供ができるものと思っていたの」 「ううん、そうだったのか。そもそも僕との恋愛の行方もどうなるか、分からなかっただろうし、今思えば、去年の夏から急激に恋から愛になって、結婚話に急発展したのだから、婿養子の話が出る間もなかったよね」 「それでも、少しは私の家の事情も説明しておけばよかったわ。私自身、農業をするという気持ちが全くなかったから・・・貴方は養子になって一生農業することで、本当にいいの?」 「正直何も考えていなかったから、自信も何もない。でもこれが結婚の現実で、二人の愛だけではなく、結婚というものは、家との結び付きがどうしても出てくる。避けられないと思う」 「それで貴方は本当にいいのね」 「今、決心した。亮子はいいのか」 「貴方が決心したら、私はついて行くだけ。貴方が養子の話を断ったら、駆け落ちしてでも、貴方について行く覚悟でいたの」 「駆け落ちする覚悟なら、僕もあるけど。その場合は一番苦労するのは君だ。僕は、すでに天涯孤独のようなものだからいいけど。君は、この家やこの地を一歩も出てない。社会に出た経験すらない。二人が安住できて幸福な家庭を築くなら、この婿養子の話は二人が結婚するための最良の条件かもしれない」 「貴方がそう思ってくれるなら、何も言うことはないわ。私は嬉しい。この家で貴方と暮らしたい」 「ようし君の気持ちが分かった、婿養子の話を進めてもらおう。僕も実家の了承をもらってくる」 「姉に相談したときに、結婚は早い方がいいけど、私の短大の卒業後がいい、と言ってくれているの。それに、貴方が大学に合格していることも話したら、結婚してこの家から通学すればいい、と言ってくれているの・・・それでいいのかしら?」 「そうだね、有難い話だ。貯金があるから会社勤めをしなくとも、学業は続けられる。すると新婚後の昼間は農業の手伝い、夜は大学の生活になるのか」 二人は次第に、現実的な結婚生活の話にのめり込んでいった。 「それじゃ、お姉さんたちに報告しよう」 二人は立ち上がり、抱き合ってキスをした。 短いキスを終え、隣の広い和室に戻った。 亮子がすぐに姉夫婦を呼び、再び4人が顔を合わせた。 祐二は二人の相談の結果を報告し、 「未熟な二人ですが、これからよろしくお願いいたします」と、丁重な挨拶を行った。 父の快諾 次の日曜日。 祐二は久しぶりに前触れもなく実家に行き、養子縁組の了承を求めた。 実家は、すでに船橋市から東京の渋谷区に転居していた。 2度目の家族解散の後、裕二はいなくなっていたが、再び順子とその子供達は元の暮らしに戻っていた。 不定期ではあったが、幼い腹違いの弟や妹に仕送りをしていた。 継母宛てに送金していたが、生活費に使われていたかもしれなかった。 渋谷区広尾町の天現寺橋の交差点近くにある都営住宅の一室に足を踏み入れたとたんに、父親が働いていると直感的に察知した。 庄作は<調査会社(興信所)>を立ち上げていた。 ただ、従業員はいない。 電話があるだけの、夫婦二人の個人業であった。 電話帳に小さな営業広告を出しているだけだったが、口コミで身上調査や浮気調査の依頼があり、何とか生計を保ってはいた。 そうしたこともあって、その3DK佇まいはいつになく物が整理整頓されて小奇麗であった。 こういう場合には、安定した生活が続いている証でもあった。 従って、父親の庄作は荒れてはいない。 おみやげには、生活の足しにと思い食料や飲み物とお菓子を買っておいた。 継母も珍しく笑顔で、血の繋がりのない息子を迎えた。 両親の気分が良さそうなうちに、用件を済まそうとすぐに養子縁組の話を持ち出した。 その話を聞くと庄作は、 「いい話じゃないか、これで一人片付く。目出度いことだ。まあ農家の暮らしは、朝早くから働き体は楽ではないが、食いパッグレルことはない。悪い条件とは言えん。貧乏人の倅としては、運の良い結婚だ。とにかく目出度いことだ」と、意外にも機嫌よく了承してくれた。 あまりにも呆気ない結論に、逆に不安も過ぎった。 念を押して機嫌を損ねるのも怖いので、よけいな事を言うのを避けた。 大学進学のことも伏せた。 最後に、実際の結婚は来年の春以降になることを伝えた。 妹と弟の元気な顔を確認すると、長居を避けて早々に実家を立ち去った。 この結果をすぐに、自宅でその報を待っている亮子に電話で伝えた。 彼女は、飛び上がるほどの大きな声で喜んだ。 姉夫婦にすぐに伝えるから、と電話を切った。 翌週の日曜日。 祐二は小谷野家の姉夫婦を訪ね、両親が養子縁組の件を了承してくれたことを直に伝えた。その日は、小谷野家の夕食に誘われ、お酒もふるまえられた。 若い二人は、幸せな気分で酒に酔った。 その後二人は、これまでの人生の中で、一番喜びに溢れた時期を迎えていた。 土曜、日曜日、祭日にはデートを楽しんだ。 オートバイで房総半島をツーリングし、東京に出ては、映画を見たり、ボウリングに興じたりした。 時間に余裕がある時には、ラブホテルで亮子を抱いた。 抱かれる度に、彼女は美しく磨かれてゆく。 ほほがこけ、目は奥二重になり、顔は彫りが深くなり長くなった印象で、姉の恵美に日増しに似ていく。 やがてウェストも細まり、臀部にかけての腰のラインが、あのヴィーナスのように美しいラインを描く。 彼女の心の中も心配症が嘘のように消え、精神的にも充実した毎日を送っていた。 たまに祐二は、小谷野家の食事に呼ばれ、やがて家族となる姉夫婦と亮子との団欒の時をすごした。 ときには泊まっていくように言われ、夜遅くまで4人で結婚後の生活設計などを語り合い、心を通わせてすごすのであった。 自分の実家の殺伐した家庭とは異なり、小谷野家の人々は穏やかで人にやさしい。 この人達と一つ屋根の下で共に一生を送れることができると思うと、胸に熱いものがこみ上げてくる。 これも全て亮子のひた向きな愛のおかげだと、いっそう彼女が愛おしくなる。 短大の春休みを利用して、亮子は自動車教習所に通い、運転免許証の取得を目指した。 農家の一員となれば、軽トラックなどの運転が必要になる。 一方、同じく祐二も自動二輪の免許証はあったが、自動車免許証がないため直接運転試験場に赴いて、実技試験に合格してその資格を取得した。 彼は、紙問屋や印刷工場の構内で洋紙や印刷物の搬出入の手伝いで、トラックやミニバンを運転していたので、車の操縦には慣れていた。 そうしたことで、運転実技には自信があった。 こうして、二人はその愛を深め、結婚と養子縁組の成就へ向けてともに歩んでいった。 二人の時間は、軽やかに幸福の白い羽を飛ばしながら、穏やかに流れていった。
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