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第1章 商家の跡継ぎ
裕二の父の庄作は、学徒出陣で浜松の駐屯地に召集されていたが、日本国は1945年(昭和20年)に太平洋戦争で米国に敗れた。
沖縄に米兵が上陸し、東京などにはB29戦闘機による爆撃で街々は焼け野原の焦土と化した。さらに広島と長崎には原子爆弾が投下され、多数の日本人の命が奪われた。
戦争終結に庄作は、内航船に乗って東京・浅草の実家を目指した。
その船には、従軍・看護婦として祐一の実母も乗船していた。
二人は、その船中で知り合い親しくなっていた。
この内航船の最終寄港地は、神奈川県の横須賀港であった。
庄作は1925年(大正14)年生まれのN大学の学生である。
一方、祐一の母は1928年(昭和3年)生まれの看護婦(看護師)で、若い二人は意気投合してそのまま神奈川県横須賀町で同棲生活に入っている。
その後二人が正式に結婚するのは、横浜市神奈川区藤棚町のアパートに転居後の1948年(昭和23年)の9月のことになる。
それは、祐一が誕生したからであった。
祐一の誕生月は同年の9月であったから、二人はいわゆる<できちゃった婚>であった。
赤子が誕生したにも拘わらず、父の庄作は相変わらず働く意思がないまま、学生時代のポン友と麻雀に興ずる毎日を送っていた。
そのため稼ぎもない家計は、窮乏生活のどん底状態に喘いでいた。
戦勝国の米軍から支給される「ララ物資(米国の民間団体からの無料供与)」による脱脂粉乳やカンパンなどで食事を補っている有様だった。
ついに、その貧乏暮らしに耐えられなくなった母は、幼い祐一を連れて藤棚町のアパートを飛び出して、実家のある横浜市子安町へと移るのであった。
その後、こうした庄作一家の極貧状態を知った浅草・鳥越の松岡家の本家から、ただちに本家に戻るようにと強い要請があった。
こうして庄作一家の親子3人は、1952年(昭和27年)に松岡家の本家へと入ることになる。
父母が裕二を連れて横浜から浅草鳥越の父の実家である商家へと転居したのは、一家を支えるべき庄作が無職で働かないために生活が成り立たなかったことにあった。
だが、そこには庄作の悪企みの下心も見え隠れしていた。
お坊ちゃまの生活
祖父の商家は、装身具、カバンや雑貨などを取り扱う比較的規模の大きい問屋業を営んでいた。その実家の跡取りは庄作の長兄の幸吉だった。
だが幸吉には、娘二人が生まれていたものの男子には恵まれていなかった。
つまり、跡取りがいない状況にあった。
そのため会長で実質的な経営者である慶吉(裕二の祖父)は、三代目を継ぐ候補に苦心していた。
そこへ、その祖父の慶吉と顔がよく似ていた孫の裕二が、両親とともに居候を決め込んできたのである。
こうしたことから、会長の慶吉は俄かに孫の裕二を猫可愛がりして、三代目の跡取り候補として英才教育を施すのであった。
見るからにみすぼらしい幼子は、一転して上等な衣服を身にまとい沢山の玩具や絵本などを与えられることになった。
例えば、洋風の赤チエック柄のシャツに、絵柄の付いたハイカラなセーターを着せられた。
コール天のズボンには、ベルトに収まる皮製のホルダーが二つ装着されている。
本物と見間違うほどの2丁拳銃がそこに収まっている。
まるで西部劇映画のスターとそっくりのいで立ちである。
さらに、すぐさま幼稚園の入園手続きが採られて、鳥越神社の先にあるキリスト教系の「ポーロ幼稚園」にベレー帽をかぶって通園することになった。
送迎は店のお手伝いさんが担当していた。
加えて、絵画教室やヴァイオリン教室にも通うなど、まるでお金持ちの<お坊ちゃま>のような豪奢な生活ぶりに変貌するのであった。
しばらくすると祖父の命令により、裕二だけが両親が居る社員寮から引き裂かれて、祖父や二代目の叔父一家とともに本家の大邸宅に寝起きすることになった。
それは商人としての素養などを身に着けるための教育を受けるためであった。
毎日のように続く上げ膳据え膳の贅沢な食事に、痩せこけていた裕二は見る見るうちに肉付きが良くなっていった。
こうして裕二は、商人としての礼儀作法や風習や慣習を教え込まれていった。
商人としての返事の仕方やお辞儀に始まり、清潔な身だしなみまで細かな養育を受けたのである。この3歳から6歳までの期間は、裕二にとっては夢のような王子様扱いをされたお坊ちゃま生活を送っていた。
そもそも心根がやさしい裕二が邸宅に遊びに訪れていたのは、園児や近所の子供の女の子ばかりであった。
その広い和風庭園の中で、女の子に囲まれて<ままごと遊び>ばかりするのであった。
こうして松岡本家の手厚い待遇に気をよくした父の庄作は、再び昼間から家を飛び出して夜な夜な学生時代の仲間を集めては麻雀などに明け暮れる放蕩生活をするようになっていた。
それは毎日のように雀荘に通い続けるだけではなく、夜にはその雀荘の娘との密会も重ねていたのである。
その浮気の相手こそが、やがて祐一の継母となる田辺順子だった。
暗転
田辺順子の一家は、国鉄・飯田橋駅近くでもっぱら学生相手の雀荘を営んでいた。
順子は長女で有名な洋裁学校を出て、戦時中は軍事奉仕として縫製工場にも駆り出されていた経験があった。
その顔は瓜実顔で、目が大きくて整った顔立ちの美人であった。
さらに当時としては、背が高く身長が170cm近くもあって、アマゾネス的な女体をしている日本人離れしたグラマスな肉体派の女性であった。
女学校当時は、八頭身の健康優良児として表彰されるほどだった。
その容姿はまさに外国人モデルのようで、雀荘に通う学生らの憧れの的であった。
その容姿端麗で肉体派の若い娘を、強引に誘惑したのが裕二の父の庄作だった。
妻帯者の身でありながらも、庄作は強引に肉体関係を迫ると彼女を妊娠させてしまった。
庄作は裕二の母と離婚して、田辺順子と再婚することを決意する。
彼はすぐに本家の父と兄にそのことを告げる。
その報告を聞いた本家の父と兄は激怒した。
そして三代目の継承者としての裕二の立場を考慮して、その実母との離婚を断じて許さない結論を下した。
それでも我儘な放蕩息子の庄作は、愛人の妊娠を盾にして父兄の言い分を拒み続ける。
本家の父と兄が決断した結論は庄作を「勘当」することだった。
問題は、跡継ぎ候補の裕二の処遇問題であった。
本家は、裕二をすぐにでも養子に迎えるつもりだった。
しかし、親権は父の庄作にもあった。
その庄作は、ついに本家との手切れ金を要求して、勘当という絶縁の道を選んだ。
本家では止む無く、放蕩息子の要求を承諾するとともに、手切れ金を拠出して孫の裕二を養子に迎える段取りを整える。
ところがあくどい庄作は、既に金を貰って台東区根岸にある愛人宅に身を移していた。
そして、その隙をついて裕二を誘拐同様に本家から連れ出したのである。
本家では、すぐに警察に通報して相談する。
だが、裕二の実母とともに庄作にも親権があることから、養子縁組が成立していない段階では実家の言い分が通らなかったのである。
こうして裕二は、実母と別れて父とその愛人の3人で台東区根岸に同居することになった。
庄作が裕二を連れ出した理由は、父親の愛情ではなく裕二を自分が困窮した際の切り札として手元に置く魂胆であった。
その後、庄作は本家から受け取っていた手切れ金を元手にして、江東区深川清澄町に<松岡工房店>を開業することになる。
その深川清澄の地は、継母となる順子の生まれ故郷でもあった。
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