星屑の聖橋 ~さらば恋人よ~

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星屑の聖橋 ~さらば恋人よ~

[目次] プロローグ 第1章   商家の跡継ぎ 第2章   若い叔母 第3章   継母の憂鬱   第4章   相乗り登校 第5章   野菊の九女 第6章   恋する二人 第7章   母をたずねて 第8章   独りぼっちの上京 第9章   ミッドナイト・ハーフ 第10章   年上のひと 第11章   火花と悲 第12章    甦る愛 第13章   そよ風の二人 第14章   プロポーズ 第15章   婿養子 第16章   破談から駆け落ちへ 第17章   瀕死の重傷 第18章   記憶喪失と継母の秘密 第19章   肺結核 第20章   愛のフラッシュバック 第21章   さらば恋人よ 第22章   愛と死を見つめて エピローグ はじめに 本小説は二次創作の作品です。 具体的には、既に当『エブリスタ』に掲載されてきた『君だけの紙芝居』と『聖橋に消えた恋』をベースにして、より事実の部分を挿入して横断的かつ総体的に一つの作品に纏めたものになります。いずれの作品も私自身の著作であり、かつ二次創作になるので著作権の問題はありません。 そして、より完成度を高めるために総集編としてのストリーの一貫性を維持しながらも、恋愛や愛欲模様については深堀できたものと自負しています。 但し、全くの新作ではありませんので、既存作品をご既読いただいた方々には、新鮮味に欠けるきらいがあるかもしれません。 従って、当『星屑の聖橋』は、より私自身の青春時代の体験を赤裸々にした私小説的作品に近づきました。但し、決して事実だけを綴ったドキュメンタリーではなく、あくまでも創作の域を出ないフィクションの小説であります。 つまり、事実の出来事と創作との合体です。 翻って、当小説は太平洋戦争が終焉した直後の所謂<昭和時代>の中期が舞台設定であります。 そのことから、平成時代や令和時代とは文化、経済、通信などの社会構造が著しく異なっております。例えば、スマホもまだ普及していなかった時代でもあり、当時の生活や文化に違和感を抱く方が多いかもしれません。 そうした現代とは異なる時代環境下における私的な体験では、貧乏暮らしの中で家庭内暴力(折檻)、継子虐め(差別)などがあり、また義務教育でありながらも一度として親から登校や勉強を命じられることもなく、全く自由のない半封建的な家庭生活の中で家事や子守などを強いられてきました。そのため、止むを得ず塀の中の児童相談所にも入所しました。 しかし、そうした中でも思春期を迎えて、異性との本格的な恋愛を経て死ぬほど愛するような恋愛も経験してきました。 やがて勤労学生として現実の生々しい実社会に一歩足を踏み入れると、戦後の経済復興の闇夜にも染まり、競争社会などの殺伐とした世に生きていく中で、流されるままに様々な異性と身も心も触れ合いました。 貧しくて大人しい気弱な少年が生きていくことは、常に艱難辛苦が伴い砂を噛むような辛酸の連続でもありました。 他方、『昭和時代』と言えば、多くの方々が先ず「バブル期」の昭和を想起します。しかし、それは錯誤による誤解です。 バブル現象の特徴期は、1991年(平成3年)~1993年(平成5年)になります。 あの所謂<バブル>で主役を演じたのは、証券業界や建設業界などのごく一部の大企業による一過性の景気高揚の狂奔劇でした。 そのことによって、我が国の8割を占める中堅企業、零細企業、個人業に従事する多くの庶民の生活実態とは、乖離していた格差社会の象徴的な経済現象でもありました。 このように「バブル≒昭和」と誤解されていますが、正しくその昭和時代を大別すると、 ①第二次世界大戦・以前の<軍国主義>に狂奔した昭和時代、 ②敗戦直後からの経済復興期にかけた人口増加の昭和時代、 ③高度成長期から生活水準がより高まった時期で、その後に前述の一過性の<バブル現象>があった平成時代へと移るのです。 なお当小説の舞台は、上記②の昭和時代に当たり、当小説の主人公は1948年(昭和23年)生まれのいわゆる「団塊世代」(昭和22年から同25年)に当たります。 戦後の経済復興のために<子供を産めよ、育てよ>という我が国の太平洋戦争の敗戦から、その裸一貫のゼロ状態からの再出発の位置にあった昭和時代における青春物語となります。 当時の社会世相を探ると、大相撲は年2場所制で夏場所は東富士、秋場所は増位山が優勝しています。一方、野球では既に高校野球が春と夏に行われていました。プロ野球は8球団制で、横文字でジャイアンツ、タイガース、ホークス、ブレーブスなどが存在していました。夜景に野球を楽しむ<ナイター>が始まったのもこの頃のことでした。 他方、主人公と同じ1948年生まれの有名人では、前田美波里、前川清、鳩山邦夫、福永洋一(騎手)、森山良子、鈴木宗男、都はるみ、江夏豊、山田久志、「春日局研究」の第一人者である上野千鶴子先生(社会学者)などの方々がおります。 NHKの朝ドラの素材になった笠置シズ子が歌う<東京ブギウギ>が大流行したのも1948年(昭和23年)のことです。 さらに、世間を震撼させた「帝銀事件(多重性の毒殺事件)」や「寿産院事件」が起きたのもこの年で、福井大地震(死者3,769人)の勃発と警視庁に「110番」制が導入されたのもこの年のことでした。 翻って、当時でも1)資産家、2)中流階級(ホワイトカラーやブルーカラー)、3)下層階級(肉体労働者)という収入差による人間格差がありました。 当小説の主人公の父親は「学徒出陣」で内地ではありましたが軍隊に召集されています。 太平洋戦争末期では、ゼロ戦で敵艦隊に死を覚悟して爆死するという、いわゆる学徒出陣組による神風・特攻隊が編成されていました。 裕二の父親は、その学徒出陣により内地の軍隊に駆り出されて青春を戦争に奪われた一人でありました。 その戦争に青春を奪われた事で、文学青年を志していた父の精神は反社会的な体質に変貌していったと思われます。 但し、江戸末期まで武士だった父の祖父(裕二の曽祖父)は髷を捨てて、明治時代に入ると上京して商人となり大成功をおさめた大店の当主となった人物でした。 そうした中流階級のボンボン育ちで、苦労知らずの我儘な人間が裕二の父親です。 この奔放な父親はまともに働かないため、その家族は浮浪者一家に近い貧乏暮らしが続くのでした。 その殺伐とした逆境の全てを語り綴ることはできませんが、はっきりと言えることは「事実は小説よりも奇なり」だという事です。 例えば小学校の転校歴では、全て旧名ですが①江東区立・白河小学校(入学)→②国分寺町立・国分寺第二小学校→③市川市立・若宮小学校→④市川市立・鬼高小学校→⑤福生町立・福生第一小学校→⑥国分寺町立・国分寺第二小学校(卒業)です。 なんと6年間に6回も転校を余儀なくされています。 当時の教科書は全国統一ではなく、その度に教科書を買い替えるお金もなく、また転校の隙間の期間も多々あっため、算数の九九算が習得できたのは6年生の卒業間際の頃でした。 そうした流転を繰り返す貧乏一家にあって、前半生の青春時代の中で、挫きそうな心を癒して支えてくれたのが異性の心優しい人々でした。 それでいて思春期の初恋や青春時代の恋愛模様は、美しくも儚いものでもありました。 それらの数々の思い出は、老境の今となってもエスプリとして私の心を痛烈に支配しています。現代の若人にとっては時代錯誤の恋愛模様かもしれませんが、実際に存在していた「愛すること、愛されることの美しさ」の一端を、現代の若人にも知っていただければ望外の喜びです。 作者:ガンリィ・ジョンジー <登場人物> ・松岡祐二   松岡家の長男。小柄で細面の顔だち、二枚目ではないが女性の母性本能を擽る隠れた魅力もある。性格はおとなしく温厚そのものだが、好きな女性には積極的。 ただ、どんな女性にもやさしすぎる欠点も。 幼い頃に両親が離別し、実父と継母に育てられるが、極貧生活の中で父の暴力や継子苛めなどに加えて家事労働も強いられる。働きながら夜間高校に通いも、その傍ら六本木のサパークラブで働く。その間に様々な多くの女性と関係するも、心から愛する中学時代の小谷野亮子を慕い続ける。やがて亮子と婚約し小谷野家の養子縁組も決まるが、父の粗暴な行動で破綻する。 亮子と駆け落ちの約束の日、まさかの交通事故に遭遇。 記憶を失うとともに、肺結核を発症して大学病院から長野県の結核サナトリウムへと変転する。 ・小谷野亮子(こやのりょうこ) 大農の女系家族の九女の末娘で、野菊のような純朴な心の持ち主。 ただ内面は女そのものの情念に溢れている。 大柄ではないが肉感的な美貌の持ち主。 中学生の時に祐二と結ばれ、相思相愛の関係になるも高校受験失敗で会えなくなる。 だが3年半後に再び二人の愛は蘇る。 深く愛し合った二人は婚約、婿養子と順調に愛を育むも、裕二の父親の粗暴な行為で破談になってしまう。二人は駆け落ちを計画するも、その日に愛しい祐二は消息不明となってしまう。裕二の子を宿していた亮子は、籠の鳥となっても彼が戻ることを固く信じて一人待つのであった。 ・石田百合子 松岡裕二と小谷亮子の中学校のクラスメート。 バレーボール部のスポーツ・ウーマンで長身の美人で俊才でもあった。 密かに裕二を慕っていた。 大学進学が決まった頃になって、突然に裕二のアパートを訪ねてその愛を告白する。 ・伊藤雪子 諏訪の農家の一人娘。サナトリウム病院で働く純朴な少女。 祐二の恋人の亮子と顔も体付きも似ている。祐二と結婚するも結核病で急死してしまう。 ・藤久美子 祐二の小6の同級生で初恋の女性。家が裕福で美人の人気抜群の女の子。 バレエ部の花形マドンナだが、母性愛なのか貧しくひ弱な祐二に魅入られる。 二人は自転車の相乗り通学をするが、その途中の茶畑で結ばれる。 ・沢村レミ 元モデルのハーフ美女。背の高い見事なプロモーションの持ち主で、祐二が勤めるサパークラブの人気一番の若きホステス。祐二と正月を共にすごすことになる。 ・木村貞子 上野(旧・竹町)のクラブ『蘭』の人気ホステス。 祐二の働くサパークラブに客として現れるが、美人でもない年上の子持ちの貞子に祐二は魅了される。 ・小谷野夏江 祐二が下宿するアパートの50歳代の管理人。 部屋での祐二と亮子の愛欲ぶりを盗み見し、その夜に祐二を誘惑する。 母性愛から裕二にオートバイをプレゼントする。 小谷野家の親戚だが、亮子はそのことを知らない。 ・田島洋子 諏訪のサナトリウムの看護師。 祐二と雪子のキスの現場を目撃して、祐二を恫喝して肉体関係を迫る。 ・松岡順子(旧姓・田辺) 裕二の継母。スタイルは八頭身のグラマーな肉体派。 顔立ちは、うりざね顔の美人。 裕二の父との間に一男・一女を産むも、長年正式に入籍(婚姻)できないことから、継子の裕二を虐待する中で弄ぶ。 ・田辺小百合 継母・順子の妹。 裕二の義叔母に当たるが、年の差は9歳しかない若き叔母。 何かと裕二を心配してくれるやさしい姉のような存在。 だが裕二の父親とは、そりが合わずにやがて疎遠になってしまう。 ・松岡庄作 裕二の実父。 短気で粗暴な大男。実家が明治維新までは武家であったことを誇りにして<武士は食わねど高楊枝>を地に行く傲慢な怠け者。 人に対して頭を下げることができない我儘な男であった。 明治維新では、藩主でもなかった武士は例え家老職であっても、明治時代には皆すべて平民となったものです。その藩主や貴族ですら、その全てが華族(侯爵、公爵、伯爵、子爵、男爵)にはなれた訳ではありません。 そして、昭和に入り太平戦争が終わるとGHQ(連合国最高司令官総司令部)の命令によって、明治時代から続いていた華族制度も解体されたのです。 こうしたことから、裕二の父親は時代錯誤も甚だしく、封建時代の気質を残していた男だった。 プロローグ 主人公の松岡裕二は1948年(昭和23年)生まれの、いわゆる「団塊世代」のど真ん中に当たる。今でも最も人口が多い年齢層になる。 その松岡裕二の記憶は、父の実家である浅草鳥越にある商家の敷地内にある社員寮の一室から始まっている。1952年(昭和27年)の頃のことであった。 この年の日本は、敗戦国の疲弊した経済から脱するため、金融政策の第一歩として「国際通貨基金」と「世界銀行」に加盟することとなった。 また、前々年からの「朝鮮戦争」の勃発による戦時特需もあって、我が国は敗戦の苦境を脱する体力はまだないものの、俄かに希望と活気が溢れだし始めていた頃にあった。 裕二の父の松岡庄作は、アクセサリー、装身具、雑貨などを扱う大店(問屋)の六男の末弟であったが兄3人が病死や戦死する中で、実質的には三男と言えたが末っ子であったため、我儘な苦労知らずの人間であった。 その大店の敷地内に庄作と妻、子供の裕二が横浜から転がり込んで来て、家族3人で居候をしていた。 少年の生まれた地は、横浜市西区藤棚町であったが、その後には実母の実家である同市の神奈川区子安町に祖母と4人で暮らしていた。 両親のそもそもの結婚の経緯は、従軍看護婦をしていた実母と学徒出陣後に退役していた父とが、引き揚げの内航船で知り合って結ばれたもの。 従って、庄作はまだN大学の学生であり、就労の経験のない若者だった。二人はいわゆる<できちゃった婚>で裕二が生まれた後に正式の婚姻届けを行っていた。 翻って、松岡本家の社員寮の一室において離婚を強制的に迫る父は、それを頑として拒む妻をその大きな素手で殴りかかっていた。 妻はすぐさま畳に崩れて倒れこんでいた。 さらに大男の父が襲いかかろうとしたとき、幼稚園児であった息子の裕二は、室内用の箒(ほうき)の長い柄を振りかざして、懸命に父を背後から叩いた。 この幼子の意外な挙動に驚いたのか、父は妻への暴力を止めて部屋から出て行った。 まもなく裕二の両親は別居し、息子の祐二は父親に強引に連れられて、台東区根岸に住んでいた愛人宅の小さな借家に移り住んだ。そこは、竹やぶに囲まれた別荘風の佇まいがあった。下町の根岸には、文人や噺家が住んで江戸時代の名残がある文化的な香りがする下町の風情があった。 父の庄作はそこで愛人と婚約を結び、息子の祐二は、実質的に継母となった若い女性に育てられることになった。 但し、父と愛人との「婚約」や「結婚」は正式のものではなく、実態として夫婦生活を送っていたものの、裕二の実母と父は離婚が成立しておらず、法律的には夫婦ではなかった。 こうした事実を裕二が知るのは、交通事故で瀕死の重傷を負った後の20歳の頃になる。 この背景には、裕二の実母が父との離婚を拒み続けて、離婚が成立していなかった事実があった。まさに実母と継母との女の戦いが数年以上も続いていたのである。 当時幼子の裕二には、当然のことそういった法律的な背景があったことは全く知らない。 従って、実質的に父と愛人の3人暮らしが始まって以来、裕二は実質的に継母となった旧姓・田辺順子を新しい母として「お母さん」と呼んでいた。 産みの母親でないことは自覚していたが、ただ実母の顔やその声もうろ覚えの状態であった。その母の顔も当時の女優の<小暮実千代>に似た面影だけが、うっすらと頭の片隅にあっただけだった。 その後の父の庄作は、祖父から暖簾分けとして開業資金をもらい、深川清澄町に新居を兼ねた装身具店を開業するのだった。 そして1955年(昭和30年)4月、祐二は深川の白河小学校に入学する。 その直後に、この地で継母の順子は女の子を産んだ。 それを契機にして、祐二は両親からのけものにされ始める。 元々、彼は発達障害があったためか、日常生活の行動が緩慢でいつも鼻水を垂らしていた。性格は無口でおとなしい。 体も大男の父に似ず、小柄で痩せこけていた。 食事や入浴などで粗相を起こすと、父と継母から罵声を浴びせられて折檻を受けた。 そして、早々と装身具店の「松岡工房」は倒産した。 放漫経営のうえに、店員に店の金を持ち逃げされていた。 それを皮切りにして、その後の祐二は小学校を6度も転校することになる。 当然、その度に引っ越しをしていたから、松岡一家は、まさに絵に描いたような「引っ越し貧乏」を地で行く、窮乏生活を繰り返すことになってゆく。 その中で、稼ぎのない自分への怒りも手伝って、庄作の精神は病んでいった。 妻や子供に対する暴力だけでなく、親戚、知人、友人、勤務先など接する人々に危害を加え、警察沙汰になることも度々あった。 住んでいた近隣とのトラブルも転居を繰り返す要因の一つであった。 さらに、いつしかアルコール中毒症にもなっていた。 転居先は東京近郊を転々とした。 東京では台東区の浅草鳥越を皮切りに、根岸、江東区清澄町、都下北多摩軍の国分寺町、西多摩郡の福生町、千葉県では市川市の北方(ぼっけ)、鬼高、船橋市本郷など、引っ越しと祐二の転校が続いた。 これらの転居が連続した理由は、父の仕事の関係だった。 一般的な転職や転勤ではなく、そのほとんどは仕事につかず、明日食べる米が米櫃(こめびつ)の底をつくと、祖父や兄弟の縁故を頼って、働きだすというパターンであった。 その結果、祐二の家族はどん底の貧乏暮らしを強いられた。 継母の実家を含め、親戚などから借金することは日常茶飯事のこと。 父は双方の親戚から、怠け者の暴力男として嫌われていった。
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