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ヨットハーバーのレストラン
その人は、まるで夕暮れの海岸に吹く風のように、艶やかで、涼やかだった。
ただ、目を奪われた。
今までの人生で出会った、誰よりも一番、印象的な人だった。
東条大智の父 隆元が道楽で始めた、ヨット。
そのヨットの停泊する、ヨットハーバーに併設する、イタリアンレストランのシェフが、その人だった。
細身で、手足が長く、長い髪を無造作に一括りにして、垂れ目で、人好きのする笑顔を湛えていた。
左の目じりの小さな黒子まで、その人の美しさを引き立てていた。
「やぁ、阿見君、テイクアウトでコーヒーを二つもらえるかな」
隆元は、気軽にその人と話し始めた。
愛想よく挨拶を交わして、コーヒーを紙コップに注ぐと蓋をして、砂糖やミルク、マドラーと一緒に、持ち手のある紙袋に入れて、丁寧に、両手を添えて、斜めにならないように注意しながら渡してくれた。
そのしぐさにさえ、グッときてしまった。
紙袋を受け取ったのに、立ち去ることができない。
「こいつは、俺の愚息でね」
カウンターに寄り掛かった隆元が、大智を顎で指しながら、話し始めた。
「息子さんとセーリングなんて、いいですね」
カウンターの中で、彼は、にっこりと笑った。
彼の笑顔に、完璧にやられてしまった……
笑顔で手をふる彼に見送られ、そのままギグシャクと店を出た。
ヨットに乗りこんで、カップフォルダーにそれぞれ紙コップを置いた、そこでようやく息ができた。
ヨットに乗っているときは、キャプテン 隆元に、逆らうことはできない。
いいように使われる。
隆元は、ヨットに付いている、小さなエンジンをかけて、近くに停泊している、他のヨットにぶつからないように、入江の外側に出る。
そこまできたら、大智が、シートから立ち上がって、甲板を歩き、たたんでおいた帆を開く作業をする。
カバーを外して、体重をかけてロープを引いて、マストの上まで引き揚げる。
帆が風を孕むのを確認してから、ロープをくくる。
波に揺られ、揺れるヨットのうえで、足を滑らせそうになりながら、シートに戻る。
ヨットの帆が風をいっぱい受けられる角度に調整する、行きたい方向を向いて帆の角度を調整する、ヨットが走り出した。
帆で、風を受けるように、調節しながら、目は進行方向を見る。
向こうの岸まで、波が揺れる、波頭がキラキラと光っていた。
少し遠くで、魚が跳ねた。
いつもより、景色の全てが輝いて見えた。
恋に落ちると、世界は色さえも変えることを、初めて知った。
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