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4.おなか、すいた
ぶうううん、かすかなモーター音が聞こえる。
目を開けた私は、まだ朦朧としながらぼんやりとその音に耳を傾ける。
低く、地鳴りのように響く音。
これは、冷蔵庫の、音。
「ああ、私」
呟いて私は冷たい扉から身を起こす。ずっと固い扉にもたれていたから体が痛い。
小さく伸びをして私は時計を見上げる。出かける支度をしなければならない時間だ。
──そろそろ時間だよ。朝ごはんを食べて会社に行かなければ。卵がまだある。目玉焼きでも焼いて食べるといい。
私の耳の中を誰かの声がふいに横切る。柔らかい響きのその声に私は目を瞬く。
夢の中の彼の声。あまりにも場違いな、言葉。
彼の声に押されるようにして私は冷蔵庫の扉を開く。ここのところ仕事が忙しくて中は閑散としている。ざっと見回し、私はふっと息を止めた。
ホルダーに卵が二つ、まだ残っていた。
のろのろと卵を取り出し、ぱたり、と扉を閉める。
「本当に、残ってた」
あれは、夢だと思う。
けれど。
──長い間気になっていた。おなかの中は空っぽなのに、それにも気づかないくらい、苦しいだけが満タンに詰め込まれて冷やされ続けていたようだったから。
白い服を波風にはためかせ、こちらを見つめる彼。
まさか、とは思う。でももしも本当にそうなら、彼は私のことを憎く思わなかったのだろうか。
自由なくせに、贅沢にも勝手に不自由になっている私を。
それが許せなくて……私にあの海を見せたのだろうか。
荒涼としたあの、海を。
ただ、こうも思うのだ。
あの海は本当に私の心象風景だったのだろうか。
もしかしたら彼の心の海でもあったのではないか。
ぶううううん、と冷蔵庫がかすかな唸り声を上げる。
その音を聞いたとたん、おなかがぐうう、と鳴いた。
「おなか、空いたね」
閉じた扉を撫で、私は囁く。
いつも通り、ただ冷やすためだけの音。
空っぽの空間もひんやりと凍らせ続けるだけの、音。
けれど、そうわかっていても、寂し気なその音の狭間に彼の声が聞こえるような気がした。
昨夜のあれはただの夢であり、彼の表情を晴れやかにする術などきっとない。それでも、もしもできることがあるとしたら。
私は卵を手にしたまま流し台へと向かい、水切り籠に伏せてあったお椀を手に取る。
かん、かん、と硬い音を立て、卵をお椀に割り入れると、目に鮮やかな黄色が私の網膜を焼いた。
その黄色は、夢の果てで視界を白く覆った朝日を髣髴とさせた。
夢の世界にあった太陽。お椀の中に並ぶ二つの黄色を見下ろしてから、私はそっと傍らに立つ冷蔵庫へ微笑みかけた。
「帰り、買い物行ってくるね。牛乳も、野菜も。卵も。いっぱい、買ってくるね」
そうしてそれを私はちゃんと食べる。
食べて食べて。またあなたを空っぽにして。そこに新しい卵を詰め込む。
無為なものじゃない。私の血肉になっていくものたちをあなたは冷やす。
私はその、あなたが冷やしたものを体内に抱いて、歩き出す。
それはきっと、不自由だけれど、自由で、冷たいけれど、熱を持つ行為だ。
あなたが教えてくれた、不器用ながらも、世界と繋がる方法のひとつだ。
ぶうううううん。
鳴いたその声は、少しだけ、少しだけ、弾んで聴こえた。
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