序章

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序章

鉄臭い。  壁に染み付いた血の匂いだろうか。それとも、目の前の鉄格子の錆びた臭いだろうか。打ちっぱなしの壁は武骨という他なく、赤黒い汚れがこびり付いている。明かり取り用の窓もなく、牢の外の灯火でなんとかわたしたちも周りを認識できる。  こんな血腥い部屋……一体ここは元々何に使っていた部屋だったのだろう。想像するだけで吐き気がしそうだ。  鉄格子で外界と隔たれた豚小屋のような座敷牢の中には、わたしとそう変わらない年頃の子どもたち――おおよそ十歳前後だろう――がすし詰めにされている。襤褸切れのような服を着せられ肌も薄汚れているが、子どもたちは全員、一目見ればはっと息を飲むような美貌を持っていた。昨日まではお母さん、とすすり泣いていた子たちも今ではすっかり大人しく、皆死んだような絶望の瞳をして口を閉ざしている。  ――それも無理はない。  なぜなら、わたしたちは、これから貴族や富豪が多数出席するという闇オークションに掛けられる予定の『商品』だからだ。  オークションで落札されれば一生好事家たちの奴隷として生きなければならない。もちろん、落札されなければ次のオークションを待ち、それでも売れなければ『処分』されることとなる。……生物のしての死と、尊厳の死、どちらかを選ばせてやるという、つまりはそういうことである。  要するに、ここにいる子どもたちが見目のいい子ばかりなのは『そういう』理由からだった。そしてここにいるのは皆、ほとんどがストリートチルドレンの孤児、あるいは家族や親しい人間がいたとすれば、スラムの貧困家庭か貧しい孤児院から、口減らしのために売られたか、だ。――ああ、まったくもって腐っている。この国は世界でもそれなりの治安の良さと評判だが、一皮剥けばこんなものだ。国の暗部なんて覗くもんじゃないな。  そしてわたしも、気分は最悪だ。  こんな『仕事』大嫌いなのに、こんな現場を見てしまえば、否応なく『誰かがやらなければならないのだ』と思い知らされてしまう。 「ロッティ、無事かな……」  隣に座っている――早々に自分の運命を悟ったのか、ここに放り込まれて数日間ずっと静かにしていた少年が、不意にぽつりと呟いた。明るい髪色に綺麗な目をした彼は、その容姿の愛らしさと珍しさからここに攫われてきたのだろう。呟きから察するに、親しい子と一緒に攫われそうになって、ここに彼だけ放り込まれたのだろうか。こんな状況下で他人を気遣えるとは。まったく、こういう清廉な精神構造こそを大人が備えるべきだ。  ――コツ。  暗闇の中で研ぎ澄まされた聴覚が、遠くで鳴った足音を拾う。足音と歩く速度からして大人。それも屈強な男。  ――コッ、コッ、コッ、コッ。  わたしはごくりと唾を飲み下した。覚悟を決めるように、他の子どもたちも怯えながら唾を飲み込む。……だがわたしの緊張は、彼らとは少し意味が異なる。  ……早く、早く、早く。  そう念じていると不意に、耳につけた小型の改造通信機がぶん、と震えた。 『――こちらC地点。第一フェーズは滞りなく。行動を開始せよ』  きた。  わたしはぴんと背筋を伸ばすと、奥歯を二度鳴らす。『了解』を示す符合だ。  そして首をこきこきと鳴らすと、ふぅ、と細く長く息を吐き出し、近づいてきている足音が牢の前で止まるのを待つ。 「時間だ」  鞭と短銃を持った、屈強な男が牢の中を覗き込み、言った。「出ろ」  子どもたちはのろのろと立ち上がると、鉄の手枷と足枷をそのままに、ほとんど動かせない足と手を引き摺りながら、なんとか動き出す。それを見て男はふんと鼻を鳴らすと、牢の扉を開けた。子どもたちがそこから這い出す。  わたしの隣の男の子が扉から出ていくと、牢の中にはわたしだけが取り残された。男は動かないわたしを見ると、チッと大きく舌打ちをした。そして、「オイ」と低い声で唸りながら中に入ってくる。 「出ろってんのが聞こえてねェのかテメェ」 「ぼ、僕、死にたくない、おねが、たすけて」 「ッセェいいから出――」  男がわたしの首根っこを掴もうとしたその時だった。  わたしは瞬時に肩の間接を外し、後ろ手に拘束されていた手を前に持ってくると、もう一度肩を入れる。そして鉄の手枷で、思い切り男の米神を抉った。 「カッ……」  不意打ちの一撃。  ろくに悲鳴も上げず、男は力なく倒れ伏す。どんなものだって利用して自身の武器とすることができなければ、この『仕事』をする者としては三流だ。  わたしは男に息があることを確認してほっとしつつも、手早く着衣を漁り、持っているはずの鍵を探す。早くしなければ、時間は限られている。  こんなのわたし以外の『彼ら』であれば、わざわざ鍵など探さずとも自分で外せるのだが、それをわたしは、少しでも鍵が複雑になると鍵開けを諦めるしかなくなる。どんな鍵でも針金、いや、ヘアピンさえあれば開けられますワハハと豪語する同僚たちに比べ、わたしは壊滅的に不器用なのだ。  やがてそれらしい鍵束を探し当てると、わたしは急いで手枷足枷を外した。ガシャンガシャンと重い音を立てて地面に落ちた枷を踏みつけながら、軽くなった手首と足首を回す。 「ふう」  わたしは気絶した男に枷を付けてやると、牢の外に出る。  そこには数日を共にした拉致被害者の子どもたちが、こちらを呆然とした顔で見ている……が、詳しく説明している暇はない。  わたしは慌ててそこにいた全員の枷を外すと、「聞いてくれ」と言った。 「今は悠長に話している暇はない。でも必ず助かるから頑張ってくれ」 「え、あの……」 「地下から出たら裏手に回れ。裏手には黒塗りの大きな馬車と自動車があるが、馬車の方に乗り込むんだ。そうすれば安全なところまで送り届けてくれる。……追っ手がかかる可能性も考慮するとうちまでは無理だろうが、とにかくここからは離れられるから」  男を牢に放置したまま、わたしは牢の鍵を閉める。ガチャンと錠が掛けられたのを確認すると、わたしは彼らに指示した方向とは違う方向へとさっさと足を進めようとする。 「お、おい! そっちは裏じゃないだろ、おまえはどうするんだよっ」 「僕はまだここでやることがある」  ずっと隣にいた男の子に呼び止められたので、そうとだけ答える。するとせめて名前を、と言われたので、わたしは立ち止まって子どもたちを振り返った。ため息をつきつつ。 「――僕はユリウス。でももう会うことはないかと思うから、忘れていいよ。どうか元気で」
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