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1.恋しくて
仕事が終わると体がめちゃくちゃ重くて、髪も肌も油でべたべたしていて、正直もうフライパンなんて絶対に振りたくないのだ。絶対に。でも。
「カイト、おなか、すいた」
当然のような顔でスペアキーを持って帰り、当然のような顔でそれを使って部屋に上がり込み、当然のような顔でテレビの前で寝そべりながら、とっておきだったビールをちびりちびりとなめているこの男にこう言われると、全身を覆う油の存在をカイトは忘れる。
「あのなあ……今、十一時だぞ。こんな時間に食べて大丈夫なの、お前」
口調だけは荒々しく指摘すると、彼、ユウヒは気だるげに薄茶色の髪をかきあげながら口許を歪めた。
「一週間も我慢したんだ。作ってよ」
容赦なく押しかけてきておいて身勝手だ。
他のやつだったら絶対に叩きだしている。それでも頷いてしまうのは、カイトにとってユウヒが特別だからだ。
「太って仕事減っても知らないぞ」
上着をコート掛けにかけ、手早く手を洗う。キッチン横の壁に引っかけられた飾り気ない麻のエプロンを身にまとって冷蔵庫を覗くと、小松菜と厚揚げが見えた。
「炒め物でいいよな」
「うん」
弾む声が返ってくる。ちらり、とリビングを横目に見ると、ビール缶を片手にユウヒがこちらに笑顔を向けていた。
色素の薄い、やたら透き通った瞳が、リビングのシーリングライトの無機質な光を反射し、からかうように光っていた。
「ずっと撮影で、かっぴかぴのロケ弁ばっかりでさあ。カイトの飯が恋しくてたまらなかった」
ずくり、と胸の奥が熱くうごめく。そうかよ、と素っ気なく返し、カイトは流しの下から包丁を取り出す。
言葉を投げかけ、満足したのか、ユウヒの意識はテレビの世界へと戻っていき、料理が終わるまで彼の目がこちらに向けられることはなかった。
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