思い出の花

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 目を覚まして周囲を見回し、エリーナは小さく笑う。いつもの見慣れた薄暗い部屋ではない。エリーナの部屋は窓が小さく高いところにしかないから日中でもランプを灯さなければいけないほど暗い。この部屋はカーテンを閉めていても眩しいほどに明るい。もう昼を過ぎたからこんなに明るいのだろう。昨夜はずいぶんと夜更かししてしまったから起きられなかった。アヤメも起こさないでくれたからなおさらだ。  視線を巡らせるとアヤメが隣のベッドで眠っていた。エリーナは小首を傾げる。ディオンの姿がない。彼が勝手にどこかに行くとは思えない。日中は気絶してしまうから起こそうとしてはいけないと言われた。ならば、彼はこの部屋のどこかにいるはずだ。アヤメは知っているのだろうか。  エリーナはベッドを降りて、アヤメの顔を覗き込む。切れ長の鋭い目は閉じていると少しやさしそうに見えた。いつもは高く結い上げられた黒髪が流れ、厳しそうに見える顔を隠している。 「下ろしていた方がアヤメは美人だと思うわ」  ぽつりと呟くとアヤメが目を開けた。鋭い黒の目がふと緩む。 「お嬢様、お早いお目覚めですね」  元々隣り合ったベッドで寝るアヤメの寝起きや寝顔を見るのも特別珍しいことではないが、今日はいつもと違って見える。環境が違うせいだろうか。 「そうでもないと思うわ。とっても明るいもの」  アヤメは枕元に置いていた懐中時計を確認する。 「本当ですね。ずいぶんと寝すぎましたね」 「そうね。お腹すいちゃった」 「身支度を整えて食事に参りましょう」  アヤメはすぐに支度を始めた。 「ねぇ、おじいじ様は?」  ふわふわの金の髪をアヤメは丁寧に三つ編みにしていく。 「クローゼットでおやすみですよ」 「クローゼット?」 「はい。日中はどうあっても目覚めないため見つからないようにされるのが常なのだそうです」 「そう。起こそうとしちゃダメって昨日言われたわ」 「そうでしたか」  アヤメはそう答えて、三つ編みにリボンを結ぶと、自分の髪をさっと一つに結い上げる。 「ねぇ、たまにはかわいく結わないの?」 「あまり向いているとも思いませんもので」 「そうかしら? アヤメは美人なのだし、せっかくお屋敷じゃないんだもの、少しはおしゃれしたらいいのに」  わずかに頬を赤らめたアヤメはついと顔をそらす。 「考えておきます」  いつも厳しい横顔の彼女が照れるのを見るのは初めてでエリーナは思わず小さく笑う。 「なんです?」 「別に。アヤメもかわいいところあるんだなって思っただけよ」 「お、大人をからかうものではありませんよ」  そう言ったアヤメの顔は真っ赤だった。大人といっても二十代半ば、まだまだ若さが見え隠れする。 「さ、朝食に参りましょう」  エリーナのドレスのリボンを結び、アヤメは襟を正す。彼女はいつも男装している。女騎士だからという側面が強いらしい。 「そうそう、おじいじ様がね、もしも出かけるなら両替屋と古着屋さんを探すようにって。おじいじ様だけじゃなくて、わたしとアヤメも着替えた方が目立ちにくいからって」 「一理ありますね。両替屋はどうして探すかおっしゃっていましたか?」 「おじいじ様が持っているお金がすっごく古いの。だから、使うために変えなきゃいけないんですって」 「でしたら両替屋だけでなく骨董屋も見つけておいた方がいいでしょう。場合によってはその方がよいでしょう」 「ふうん、いろいろあるのね」  本で得られる知識は十分にあるとエリーナは自負しているが、普通の生活のこととなるとさっぱり知らない。  宿の朝食は温かくておいしかった。いつもは遠くの食堂から運んでこられるからどうしても冷めている。アヤメがスープだけはと温めてくれるが、十分ではない。使われている食材の質は落ちるとアヤメが教えてくれたが、温かい食事が初めてのエリーナには気にならなかった。アヤメは複雑そうにしたが、エリーナは気にしないことにする。初めての自由。初めての外だ。  食事の後、二人は街に出かけた。アヤメが事前に確認を取ってくれていたから、探している店にはすんなりと着いた。 「すごくたくさんあるわ」  古着屋に所狭しと吊るされたドレスやジャケットを見上げてエリーナは感嘆の声を上げる。ここが王都のそば近くの町だから品ぞろえが豊富なんだと店主が得意げに教えてくれた。 「アヤメ、わたしあれがいいわ」  青い華やかなドレスを指さすとアヤメが困った顔をした。 「お嬢様、そちらは舞踏会などに着て行くものです。私たちが今探しているのは普段着ですよ」 「そう。つまらないのね」  エリーナが唇を尖らせると気風のよさそうな女主人が一着の青いドレスを差し出した。 「お嬢ちゃん、青いドレスが好きならこういうのはどうだい? これなら姐さんも文句あるまい」  シンプルだが青いギンガムチェックのドレスは腰にリボンが付いていてエリーナの好みだった。アヤメの顔を伺うとほっとしたような顔をしていた。 「これならいい?」 「はい。お嬢様にお似合いかと」 「すてき」  エリーナはにっこり微笑んで、アヤメのドレスも選んでほしいと頼む。女はアヤメを一瞥して、シンプルな臙脂のドレスを差し出した。 「あんたにはこういうのが似合うと思うよ。そんな軍服じゃなくね」  アヤメは少し気分を害したようだったが、なにも言わずに会計を済ませる。 「また待ってるよ」 「ええ、きっとまた夜に来るわ」  女は少し不思議そうにしたが、手を振って二人を見送った。 「お出かけって楽しいわね」  手を繋いで言うとアヤメは複雑そうにエリーナの手をぎゅっと握る。毎日鍛錬を欠かさない彼女の手は大きくてごつごつしている。 「お嬢様、やはり帰りませんか? もう十分遊ばれたでしょう?」 「いやよ。まだ帰らない。おじいじ様と劇場にも行ってないもの」 「劇場?」 「おじいじ様が演劇やバレエが見られる素敵なところだって」  アヤメはこめかみを抑えてため息を吐く。 「わかりました。大旦那様と劇場に行かれたら帰ってくださいますね?」 「考えておくわ」  エリーナはアヤメの手を振り払って宿に向かう。せっかくの楽しい気持ちが一気にしぼんでしまった。どうしてアヤメはそんな水を差すようなことを言うのだろう。  エリーナはクローゼットに駆け込む。もう日は傾いたが、まだ夜ではない。ディオンが死んだように横たわっていた。眠っているとはとても言えない真っ青な顔で呼吸もしていない。驚いて胸に触れてみたが、心臓も止まっているのか鼓動を感じなかった。この姿を彼が隠したがるのも当然だ。  エリーナはふと息を吐き、膝を抱えて座り込む。死にながら生きている彼と生きているのに死んでいるような暮らしをしてるエリーナはある意味では似ているのかもしれない。 「お嬢様、言い過ぎました。隠れていないで出て来てください」  アヤメはすぐに言い過ぎたと謝ってくれるが、考えを変えることはない。彼女はいつも正しい。間違っているのはエリーナだ。わかっていても出て行きたくなかった。 「一人にして」  そう返すとアヤメはため息を吐いて、紅茶を淹れる。それがいつものパターンだ。そして隠してあるお菓子を出してくる。お茶が入る頃にはエリーナも少し素直になる。  けれど、ここは宿で、いつもとは違う。アヤメは鍵をかけて部屋を出て行った。お湯や茶葉をもらいに行ったのかもしれない。だが、エリーナは世界で一人きりになってしまったような寂しさを感じた。隣に倒れているディオンはまだ起きず、話し相手になってくれることもない。  不意に涙が溢れた。初めて屋敷を離れても寂しく感じなかったのはいつも一緒のアヤメがいたからだ。エリーナは一人では何もできない。 「おやおや、かわいい子が泣いているね」  不意と声がして振り返るとディオンが目を覚ましていた。 「おじいじ様、もう夜?」 「うん、そうね。日没と日の出が基準になってるから真っ暗じゃなくても起きるよ。それで、どうしちゃったのかな、僕のかわいい子孫は」  エリーナは唇をへの字にする。 「アヤメとけんかしてしまったの。わたしが悪いのはわかっているのだけど、まだ帰りたくないの」 「うんうん、なるほどね」  ディオンはエリーナの頭をやさしく撫でる。 「君は賢いいい子なんだね。ちゃんとわかってる。帰りたくない気持ちもわかるよ。ひとところにずっといると息が詰まるものね」 「おじいじ様も息が詰まるの?」 「そうね、少しね。僕の場合心臓が悪いからあんまり動けなかったって言うのもあるけど」 「心臓が悪いの?」 「そ。人生の大半寝てる。今もね。エリーナ、あと何日遊んだら帰るってアヤメと約束しない? そうしたらアヤメも安心してくれるだろうし、君もこのままずっと帰りたくないわけじゃないんでしょう?」  とろけるような眼差しを向けられてエリーナは目を伏せる。確かにこの先祖のいう通り、永遠に帰りたくないわけではない。ただ、もう少しだけ外の世界を見てみたかった。 「おじいじ様、今日は劇場に連れて行ってくださる?」 「そうね、見つけられたら行ってみようか」 「街の真ん中にあったわ。ポスターも貼られていたの」 「いいね。じゃあ行ってみよう」 「楽しみ」  エリーナはふとため息を吐く。 「明日の夜には帰るってアヤメに約束するわ。おじいじ様、屋敷に帰っても遊んでくれる?」 「うん。夜だけね」 「ありがと」  その時、紅茶の香りがふわりと漂ってきた。 「紅茶のいい香りだ」  ディオンがやさしくほほ笑むのを見て、エリーナはクローゼットの扉を開ける。 「ごめんなさい、アヤメ」  アヤメは何も言わずに頭を撫でてくれた。 「おじいじ様ともお話ししたのだけど、明日の夜には帰ることにしたの。それならいい?」 「はい。お嬢様、賢明なご判断です」  エリーナは目を伏せる。 「わたし、アヤメが大好きよ」 「はい、私も大好きですよ、お嬢様。お茶にいたしましょうね」 「ええ」 「大旦那様もいかがでしょう?」  ディオンは少し困ったように笑う。 「誘いに甘えたいところなんだけど、特定の飲み物しか身体が受け付けなくてね。香りだけ頂くことにするよ」  そう言って彼は金属製のボトルを出した。 「それなあに?」 「ハーブの入ったワイン。苦いから君には早いよ」  誤魔化すように笑った彼の真意がわからない。けれど、まだすべてを知るには早い気がして、エリーナはアヤメが入れてくれた紅茶を口に運ぶ。 「いつもの紅茶ね」 「お嬢様はこちらしかお召し上がりにならないので持って参りました。菓子は流石にありませんが」 「ありがとう、アヤメ」  ディオンもいるティータイムは楽しくてエリーナはいつもよりたくさん笑った。
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