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道路を挟んだ大学の向かいに、海がある。海岸へ続く階段を降り、歩き続ける。波の音は次第に大きくなり、砂の粒は小さくなる。足を取られながら海へ向かう。陽が沈む一歩手前、くすんだ空は海との境界を曖昧にしていた。水面の凹凸に映った月光、風を受け止めるコート。
「綺麗だ」と、呟いた。あまりに陳腐な感想だが、聞いているのは自分しかいない。泡を含んだ波は、砂浜に線を描く。
あの時と同じ、等間隔の音だった。
○○
「ねぇ、何見てたの?」
「海だよ」
「何かあったの?」
「いや別に」
「キーホルダー選ぶんじゃなかったの?」梨奈はショップを指差す。
水族館の外にあるミュージアムショップ、そのすぐ近くに海がある。心を吸い込むほどに青く、優しく撫でて抱いてくれるような音の海。
そんな僕を、梨奈は急かした。
「それで、どんなキーホルダーが良い?」僕は梨奈の顔を覗き込んだ。
「お揃いのが買いたいって言ったのは孝一なんだから、任せるよ」
「じゃあこのパワーストーンは?」
「そういうの好きだよね。任せるよ」
「こっちのメダルとかは?」
「孝一に任せるよ」
「このイルカとか良いんじゃない?」
「可愛いね、任せるよ」
結局、小さなイルカのマスコットが付いたキーホルダーを買った。一つ渡すと、梨奈は「私、これが一番欲しかったんだよね」と笑った。
○
浜にはたくさんの足跡がある。中には人以外のものもあった。海に沿って、絹のような砂に足跡を残す。ファスナーに付いた、少し汚れたイルカは、リュックサックと一緒になって泳ぐように揺れる。
波はぶつかり合って、砂を洗う。
○○
深くまで潜り、鰭を器用に使って勢いよく水面へ向かう。真っ直ぐに飛び出して、五メートル上にあるボールに顔先が届く。イルカショーを見ている、僕ら観客があげた声は飛沫になって、泳ぐイルカにかかる。
トレーナーの指示によって二頭のイルカが海に入った。少し経つと勢いよく飛び出して三回転を決めた。動きは綺麗に揃っており、あの二頭は最高のペアなんだろう、と思った。隣を見ると、梨奈もショーに釘付けになっている。すると梨奈も視線に気づき、僕を見て、微笑みあった。
「私のどこを好きになったの?」
水族館のすぐ近くのカフェ、梨奈は僕の目を見て、そう聞いた。
「うーーん……」いつも考えているはずなのに、いざ聞かれると戸惑う。
「全部かな」
「ほんとに全部?」
「うん。直してほしいところもあるけど、そこ含めて好きだよ」
「そっか。うん、そうだよね」僕の曖昧模糊な回答に、満足したように梨奈は頷いている。
「なんか……ありがとね」漏れ出た感謝の気持ちを逃さないように、急いで言葉にする。
「何が?」
「いや……出会ってくれて」
「まっ、孝一には私が必要だもんね」梨奈はじっと僕の目を見た。僕も見つめ返す。顔が熱くなるが、視線は逸らせない。
梨奈には助けてもらってばかりだった。友人と喧嘩した時、誰にも言えない鬱憤に気付いてくれたのが、彼女だった。それから弱音を吐き出し、隙間を埋めるように彼女を求めた。
カフェを出ると、冷たい空気が顔を冷やす。薄暗くなった空の下には、黒くうねる海がある。波が揺れ、防波堤にぶつかる音に合わせて足を動かす。
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鳥も人も居ない砂浜を、誰かの足跡を潰しながら歩く。リュックのイルカは一頭で揺れて、海の泣き声と一緒になる。
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