トーチソング

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

トーチソング

 写真が趣味だなんて辛気臭い。思い出に浸って、今に生きてないみたい。影で色々言われるのは、写真が悪いからじゃなくて、きっと私が取っつきにくいタイプの人間だから。  放課後の科学室。開け放した窓の縁にて、吊るされた銀枠の感光紙がいくつも、いくつも泳ぐ。そんな物静かな部屋に、一人。私は、水洗を終えて乾かす途中の写真を、物言わず、眺めていた。  全てがモノクロ。今時珍しい、ネガフィルムから現像したものだった。  水溜りに揺れる、暗がり始めた夕方の空。遠く飛行機雲を映して。  誰もいない教室。時計の針が、ちょうど今頃の時間を指して。  電柱の頂点に一羽、佇むカラスの遠影。陽の滲む水平線を背に聳え立つ重機の、塗り潰されたようなシルエット。玄関に置き去りにされたランドセル。自転車の前かごには、夕ご飯の食材がはみ出した買い物袋。  紅葉の木をフレームに、その影を被写体に収めた構図の写真は特にお気に入りだ。軽トラを背に汗を拭くうちのおじいちゃんの写真は、少しだけ霧吹きで細工をしたのは内緒の話。  コンクールに向け、私が撮った写真たち。夕方をテーマに、モノクロの中に色が映えるように。  最初か最後のためにと、カメラを構えた私の影の写真が、部屋の隅っこに。何が何をしているか分かるよう、それでいてわざとらしくならないよう、構図も姿勢も試行錯誤を重ねた一枚だ。会心の出来とは裏腹に、思い出したくも、やり直したくもない。  そんな白黒の風景たちに囲まれる、今この瞬間は。一緒にいるのが私だとしても、きっと絵になる。だなんて自惚れたことを思う。  絵だけなら。現実としては、鼻を突く吐き気に似た酸っぱい匂いが、情緒なんて台無しにしているだろう。  酢酸。フィルムの現像に必要な薬品の香りだ。隣の準備室で、それも使い終えて流した後、窓を開け放してしばらく経つけれど。こうして鼻をくすぐるくらい。用代わりで同じ部屋を使う他の部の人たちからは、すこぶる評判が悪い。  それが私が避けられている理由になる、とは思っていないけれど。  他に誰の影もなく。脚立を運び、慎重に背伸びして、洗濯ばさみで吊るした写真を一枚一枚採集して、理科用の長机に並べていく。過去を並べて、一人、ニヤニヤと写真の出来に笑みを浮かべる。こんな私は、きっと写真写りが悪いのだろう。  人の視線、は特に気にしていない。それよりも、こうして並べたモノクロの景色に、少し悩むことがあった。  決めていた通り、最初が最後を私自身にするとして。時系列。繋がり。印象、連想の距離。色々並べて、一人、唸る。  個々の出来はともかくとして、漠然と眺めて、何かが足りない。  有り体に言って、目を引かない。例えばお気に入りの影紅葉なんて、そういう意味では不採用すら視野に入れている。  もう一枚、追加で、だけど軸になるものを撮るかな。だとしても……結局は、何が足りないか。  これが写真集なら、足りなく思うのは、写真ならではのあざとさ。小手先だけなら、シャボン玉でも撮っておけばいい。モノクロにすると、驚くほど目を引くものが撮れるから。  けれど。これはコンクール用で、高校生の部にエントリーするもの。着眼点やコンセプトは、この年ならではの完成や着眼点が求められているように思う。大人たちから見た高校生、の。  分かっていて、夕方。けれど私自身、足りなく思うのも事実だから。  辛気臭い。過去に生きている。  両の頬を自ら押し潰す。思考が疲れている。足りないのは、糖分だ。  そして、こんな事もあろうかと。写真のダークバッグ仕様に改造したリュックから取り出したるは、お昼に食べ余した菓子パン。違った、こんな事もあろうかと残しておいた菓子パン。安っぽい四脚に腰掛けて、袋の封を割く―― 「相変わらず、よくこの匂いの中で食べられたもんだな」  そんな私に、廊下から声。見るまでもなく知っている、けれど一応、目を向ける。 「それで、写真の現像は終わったの?」  ぶっきら棒な声。踏み入る足音。不健康に細くて、高くて、似合いのくせっ毛を目と鼻の先にて指で遊ばせながら。眠たげ、というより花粉にでもヤラれたみたいに目をシパシパさせる、見知った顔。  嫌われ者の私が属する写真部に、最近入った、幽霊じゃない部員。入ったのが最近だから、酢酸の匂いが無理寄りの無理だと現像を私に押し付ける。そんな男の子だ。 「ふん。ふぃふぃふぉーふぉふぁっふぁふぉ」 「お労しや。これご現役JKの姿か?」 「んく……っ。いいじゃないの、どうせ畏まったって今更何も変わらないし」  ほのかに酸っぱい匂いが移った水筒の水を飲み干し、それから、部屋の隅を手で示す。 「現像、おまけに乾燥まで。あとは自分で頑張ってー」  角、あまり風通しの良くない一角に残る、吊るされた写真。えーっ、と抗議の声の後、その足音は大人しく指差す方へ。  何やら文句を垂れながらも、一枚一枚外していく。脚立どころか背伸びしらしない様に、眩しいなぁ、などと思いながら。  ややあって、沈黙。窓の向こうで誰かが上げた掛け声すら鮮明なのは、ぶつくさ溢れていた苦言が止んだから。  いつも、そう。そして彼が机に並べる写真を、少し遠巻きに眺めてみる。  一息に纏めるなら。  微笑ましいくらいに初心者。ぼんやり眺めるだけでも、そう思う。  撮りたいものが正面中央に。構図も何もない平面の絵。被写体深度も黄金比も、まだまだ先の話だと明らかで。  それでも。  その人は、いつも言葉を忘れて自分が撮った写真に見入る。うつむく横顔。少しだけ滲む笑み。なぜだろう、生きている、だなんて思って。  反射的に、近くのカメラで彼を撮ってしまった。 「……えっ。何、なんなの急に」  一呼吸も置かず、当然の抗議。私も、とっさに返す言葉に困る。  何を伝えるかは、決まっていたのだけれど。 「えっと、コンクール用。ちょっと足りないものがあって」 「はあっ? いや、せめて先に言えよ」  言ったら撮らせなかったけど。当然だとばかりに続けて、それから、思い出したかのように瞬きをシパシパさせる。  それから彼は、ズボンの内ポケットからコンタクトレンズ用のケースを取り出した。  普段は眼鏡で、コンタクトは合わないという。それでも、カメラのために。撮影に眼鏡は不便だからコンタクトにしているのだと聞いたことがある。 「ごめん、でもお願い。いい写真になってるから」 「できてもないのになんでそんなに自信有りげなの。っていうか、何。どんなつもりの写真なの?」  コンタクトを外しながら、当然、目も合わせてこずにダラダラと言う。いつも思うけれど、目に指入れるの怖くないのかな。少し、息苦しく思いながら。  深呼吸。そして。 「片思い」  コンタクトを外した彼が、焦点の合わない目で私を見る。きっと、気づいていない。その顔が、夕日じゃ言い訳にならないくらい赤くなっているのは。  絵を描く、大人しい女の子がいるという。私と違って、誰に嫌われるでもなく、その絵を応援される子が。  そして、写真なら簡単に覚えられそうだとウチに押しかけてきた人がいる。絵と似てる。きっと、そんな風に、追いかけて。  彼の写真に、私の面影がないことなんて、初めから知っている。そしてきっと、今、私がどんな表情を見せているかなんて、きっとその目には映らないのだろう。  絵に寄り添う写真を見下ろす、その横顔は、片思い。モノクロなのに、こんなにも、鮮やかな。  いつか色褪せて、思い出のような色になるまで。私は今、こんなにも、生きている。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!