第36話 春辻の里へ

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第36話 春辻の里へ

 翌日、係官たちと一緒に沙苗たちは帝都を出立し、春辻の里に向かった。  およそ二ヶ月前に離れた里に再び戻る。  あの時は半妖であることがばれないだろうかという不安と、あの家を出られたという開放感を抱き、生まれ故郷を後にした。  今は身も心も穏やか。  恐怖の対象だったはずの里へ向かうことに対して、ひるむこともない。  景虎がすぐそばにいてくれるというだけではない。  都で多くの経験をし、沙苗は確実に強くなっていた。  煉瓦造りの建物がなくなり、山や田園風景が目につくようになる。  空気感も変わる。  里に戻ってきて良かったと思うのは、綺麗な空気と、自然の豊かさくらい。  自動車が実家の前に止まった。  ずっと閉じ込められ続けて来た、忌まわしい離れが庭の奥にちらっと見えた。  ――うちってこんなに小さかったんだ。  帝都の建物に馴れたせいだろうか。ふとそんな感想を抱いた。 「大丈夫か?」 「はい」  景虎は係官たちを待たせると、沙苗と一緒に肩を並べて屋敷へ入る。  扉を叩くと、何も知らぬ使用人が「いらっしゃませ」と出迎え、景虎と沙苗を前に、深々と頭を下げる。 「どのようなご用件でしょうか」 「家政に会いに来た。いるか?」 「どちらさまでしょうか」 「都から重要な知らせを届けに来た」 「わ、分かりました」  使用人に客間に通されると、「すぐに呼んで参りますと」と使用人は席を外す。  ――私がいるのに、眉ひとつしかめなかった……。  あの使用人はずっと、沙苗に嫌がらせをしてきた。それなのに、今日は沙苗にも笑顔を見せた。  まさか、たった二ヶ月で沙苗の顔を忘れたということはないだろうが。  嵐の前の静けさのようで、沙苗はかすかな戸惑いを覚えつつ、客間で家政たちを待つ。  しばらく待っていると、忙しない足音と一緒に家政、そして八重が入ってきた。  家政は憔悴のせいか顔が青白く、体も一回りは痩せたように思えた。一方の八重は目をつり上げ、景虎を睨み付けた。 「うちの娘と百瀬さんが逮捕されたなんてどういうことなの! どうせ、あの半妖が嘘をついているに決まっているわ!!」 「座れ。立っていられては落ち着いて話もできない」  激昂する八重に対して、景虎は冷静に応じる。  家政からも「座りなさい」と言われ、八重は景虎を睨み付けながら座る。 「……それで、そちらの方は一体どなたなの?」  ――え?  八重の言葉に、沙苗は虚を突かれてしまう。 「分からないのか?」  景虎もかすかに驚いている。 「どういうこと?」  沙苗をじっと見つめていた家政の顔が変わる。 「……まさか、さ、沙苗、か?」 「はあ!?」  八重が目を剥く。  沙苗は背筋を伸ばし、胸を張ったまま、「お久しぶりで御座います、お父様、八重さん」と告げた。 「う、嘘でしょ……あの、ボロボロで汚らしかった娘が……?」  なるほど。さっきの使用人も、沙苗だと分からなかったからあれほど愛想が良かったのか。 「あ、あんた! よくも顔を出せたわねええ! この化け物めぇ!」  掴みかかろうとするが、すかさず景虎が庇ってくれる。 「それ以上、近づいてみろ。ただではおかないぞ」  声そのものは淡々としていながら、殺気を秘めた眼差しに射竦められ、八重は「ひ……」と喉奥から悲鳴を漏らす。  家政はまだ信じられないという顔で沙苗を見ながら、「今度のことは何かの間違いなんだろう。あの子が、お前を誘拐するなんてありえないっ」と言う。  親馬鹿というか、その愚かさに、沙苗は溜め息を禁じ得なかった。 「この期に及んでもあんなひどい人をかばおうとなさるんですね」 「かばうもなにも、姉妹じゃないか……。なんとか助けてやらないのか」 「私を誘拐した人ですよ。とても許せません。それに、向こうは私と姉妹だと言われるのは我慢ならないと思います」  八重は我慢できというように叫ぶ。 「景虎さん! あなたの婚約者はね、化け物なんですよ! 半分、あやかしの血が流れているのですよ!? この女は、あなたに嘘をついているんですよ!!」 「知っている」 「は?」 「沙苗が半妖だと知っている、と言ったんだ」 「な、なによそれ! それでも一緒にいる!? き、気持ち悪い! あんた、頭がおかしいわ! 異常よ!」 「お前たちには、沙苗の価値が分からないのだな」  金切り声を上げ続ける八重に呆れかえったのか、景虎はため息をこぼす。 「本題に入る。帝におかれては、こたびの一件により、春辻の家そのものを処罰する命を出された」  景虎は懐から出した菊のご紋が染め抜かれた命令書を突きつけた。 「ちょ、勅命……?」  家政は震える手で、その命令書を受け取る。 「土地家屋はすべて没収となり、お前たちも拘束される。今日、俺たちが来たのはそれを見届けるため。沙苗、行こう」 「はい」  景虎に従い、立ち上がった。命令を受け取った家政は呆然としてぴくりとも動かず、八重は顔を赤黒く変色させた。 「冗談じゃないわよ!」  八重が今だこりずに景虎に掴みかかろうとしてくる。  沙苗が立ちふさがる。 「邪魔よ、化け物ぉぉぉぉぉぉ!」  沙苗は迷うことなく、八重の頬めがけ平手を見舞った。 「っ!」 「いい加減にして。これ以上、春辻の家名に傷をつけるような真似はやめてください」 「化け物に触られた! いやああああああ……!!」 「沙苗、お前というやつは! 親に手をあげるとはぁ!」  父が怒りに声を上擦らせた。 「……私はずっと、この家であなたたちに虐げられてきました。それをもう忘れてしまったのですか?」 「……あ、あれは……虐げるなどと……春辻家の名誉を守るためで……」 「遅かったですね。あなたがするべきだったのは、私を虐げるのではなく、薫子へ真っ当な教育をほどこすこと、でした。もう何もかも遅すぎますが……」  八重の壊れたような声を背に、沙苗たちは屋敷を出た。  ――もっとすっきりするかと思ったけど……。  拍子抜けするほど何も感じなかったことに、驚いてしまう。  これまで手も足も出なかった相手だ。  それに一糸報いたのだから胸がすくかと思った。  しかし沙苗の胸には何の感慨も湧くことがない。  文字通り、何も感じなかった。  ――もう私は春辻の家に対して何のこだわりも、何の思いもない、ということなのね。  外に出ると、景虎は外で待っていた係官たちに頷く。係官たちは母屋へどんどん入って行った。 「沙苗……」  景虎は言いにくそうに口ごもる。  虐げられた、という言葉を聞きたいのだろう。 「……付き合ってくれますか?」 「お前が行く場所ならどこへでも」 「そんな大層な場所じゃありません」  沙苗は庭を横切り、日の当たらない場所にぽつねんと立てられた離れへ向かう。そこにもすでに係官が何人か入り込んでいる。  忌まわしい場所。  竹で作られた格子のはまった丸窓に胸が締め付けられる。  足がすくみそうになるのをこらえ、離れへ向かう。 「ここは? 使用人が使っていたのか?」 「いいえ。ここで私は育ちました」  景虎の目がかすかに見開かれた。 「悪いが、少し二人きりにしてくれないか」  景虎は係官たちに告げる。  出ていく係官たちと入れ違いに中に入る。古ぼけた台所、一日を通して日が当たらないせいで、じめっとした湿気が肌に絡みついてきた。  何もかもが、出ていった時のまま。  いや、今では誰も使うような人間がいないせいか、そこかしこに埃がたまり、汚れがひどく目立っている。  ――こんなに狭かったんだ……。  天華家の屋敷になれすぎてしまったせいか、余計にそう思う。  板張りの床がギシギシと軋むのを足裏で感じながら奥へ向かう。 「……座敷牢」  景虎がぽつりと呟く。  何もかも、あの頃のまま。  漆喰壁の汚れも、ひび割れも、ところどころ腐食した床板も、何もかも。 「ここに、私はいました」  無人の座敷牢を見ながら、沙苗は言った。 「……いつから」 「物心がついてから、です。あの日、パーティーから帰った時、ここに入っていた時の夢をみたんです」 「……今すぐ、あいつらを殺してやりたい」  冷え切った声で、景虎は言った。  刀の柄に手がかかっている。今、目の前に両親がいれば、景虎は迷いなく殺していただろう。 「殺す価値もありません。あんな人たちのせいで、景虎様の手が汚れるほうが、私には耐えがたい……」  座敷牢の扉を押すと、軋みながら扉が開いた。  入る気にはもちろんなれない。 「ここも更地になるんですよね」 「そうだ」 「それなら、良かったです」  沙苗はにこりと微笑んだ。 「……行きましょう」  離れを出ると、里の人間たちが騒ぎを聞きつけて集まってきていた。  彼らの視線の先には、係官によって拘引される家政たち。 「あの人たちはどうなるんですか?」 「身柄を他家に預けられて軟禁状態におかれる。ある程度時が経てば解放されることになるだろうが、あの離れを見て気が変わった。一生解放されないよう手を回す。お前が二度と、あいつらに会わぬように」 「ありがとうございます。もう一つだけ行きたいところにいかせてもらってもいいですか。ただ、その場所が分からなくて」 「場所が分からないのに、行きたいのか?」 「……生みの母のお墓に一度でいいので、参りたいんです」 「あやかしに襲われて亡くなられた、という……」 「はい」  景虎は係官に命じ、使用人をひとり連れてくるよう言った。  びくびくしながら使用人が近づいてくる。上目遣いで沙苗たちの様子を窺う。  沙苗が目を合わせると、恥じるように目を伏せた。  さんざん沙苗に悪態をつき、いびってきた世話係。  沙苗は、じっと見つめる。 「母の墓にいきたいの。場所を教えて」 「こ、この畦道をまっすぐ上っていった先の二股道を右下。その先に……」 「ありがとう」  沙苗は言われた通り、道を進んでいく。途中で野花をいくつか積んだ。  道の先に、お墓が見えてきた。小さな里で、決してお墓の数は多くはない。  お陰ですぐに母の墓は見つかった。  春辻家の墓とは別に、操の墓が別に建てられていた。  ――これだけは父に感謝するべきかもしれないわね。  墓前に花をそなえ、手を合わせる。  ――お母様、私は今とても幸せです。こちらにいらっしゃる景虎様と一緒にいられ ることが私の幸せです。景虎様は私の全てを受け入れた上で、大切にしてくださっています。  顔を上げた沙苗は溌剌とした笑顔を向ける。 「お母様、また来ます」
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