消える私

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何度か、転んだ。 すぐ、起き上がる。 また、転ぶ。 また、起き上がる。 繰り返しだわと嘆くが、私が転んだり起き上がったりしているのは、見事ないっぽんみち――私の他には人っ子一人いないバカみたいないっぽんみちなのだから、誰も私を嗤ったりしない。 私は、まっすぐ前を向いて歩いている。 キ然として、目付きを鋭くし、手も大袈裟に振って、歩きに歩いている。 そうしないと、私に課せられた仕事は果たせない。 気負いが過ぎているものだから、いつもなら無視できそうな、道の傍らに転がっている小石の一つ二つに足先を捕らわれてしまって、そのせいで、転ぶ。 あらあら、また転んじゃった。 自嘲気味の言葉が、頭のてっぺんから湧き出て、全身を巡る。 でもでも、また起き上がりもするのよ、私って。 朗らかな振りをして、腕を振る。 私は、いつの間にか、そう、カッポ、闊歩している。 右手を左手を勇ましくも振ってのカッポ闊歩のカイがあったか、私は何時とも知れず、賑やかなビル街を歩いている。 背高のっぽのビルとビルの谷間を渡る風、といったものまでが、私を応援してくれるようで、私は思わず「ありがとう」と礼さえ言ったものだ。 風は言葉も発して、私を包む。囁きかける。 《例など無用、それより、さあ、さっと着替えを済ませなさい。そうです、そのびらびらした裾のスカートなんて止して、スラックスを履くのです。そうやれば、足の進みも早くなって、仕事場への到着だって、オ早くなるというもの。買いなさい、スラックスを。どんな色のものでもかまわないから》 そ、そんな、と私は一瞬たじろぎ、こたえた。 「買うも何も、私はおカネなんて持っていないのです、1円も。クレジットカードの類も家に置いてきました。そうですよ、スマートフォンすら、今の私には、無いのです」 そうすると、ピューと風の勢いが増して、 《そんな判りきったことをわざわざいうものではありません》と諭された。 《そう、今この瞬間のあなたは何も持っていない。いえ、たった一つの大事なものを除いてってことですけれども。大事な大切な仕事道具であるところのアイテム、それだけ持っていればいい、そして、今この瞬間のあなたは、確実に、文字通り肌身離さず、そのアイテムを持っている。 でも、やっぱり、スラックスは買わなくてはいけません。買って、あなたはそれを履く。そうすることで、あなたの持っているアイテムはいっそうのパワーを発揮するというもの。 さあ、買いなさい、履きなさい。 ほら、もうそこに、背高のっぽだらけのビルの中でもいちばんノッポさんの雑居ビルの1階に、衣料品店があるじゃありませんか。そこで、あなたはあなたのための、あなたにぴったりサイズのスラックスを買うのです。 まずは店に入りなさい。そこからすべては始まるというもの。さあ、お入りなさい。何とかなる、事は自分にいいように進むと信じて、店のドアを開けるのです》 私は風の言葉を信じた。信じるしかないと知っていた。 ところが、仰せに従い、足を踏み入れたいちばんの背高のっぽのビルの1階に、衣料品店はない。何処を見回してもなかった。あるのは薬屋、本屋、焼肉屋。 風は、そう、風さんは(はやばやと、そう〝さん付け〟で呼んでみたくなっていた)ウソをついたのだろうか。 割り切れない思いを抱えたまま、入り口近くに示されている各階案内図を見ると、衣料品店は6階にあると知れた。 なーんだー、風さんは勘違いをしていたのかな、と安心した私だが、すぐにも、あらあらと溜息を付いた。 ご迷惑をおかけします。との張り紙があって、エレベーターは故障中だと判った。 しかし、エスカレーターは支障がないらしい。 とはいえ、エレベーター横のそのエスカレーターは、エスカレーターであってそうでない、そんな奇妙で不思議なものとして私は捕らえることしか出来なかった。 段々が動いているようで、そうでもないようにも見える。いろいろな人々が、一段一段にいる、陣取っている。 たこ焼きを頬張っている子供がいれば、ボクシングの真似事をしている中学生らしき学生服姿の男子、お坊さんの格好をしている男性もいるが、〈こう見えて、実はワタシはふつうの大学生です〉とのプラカードを彼は捧げ持っているのだし、ただいま買い物中ですと買物ブギの歌を歌っている主婦らしき女性は、靴のかかとまで覆いそうな長くて大きなエプロンで腰から下を覆っている。 私は、ごめんなさいごめんなさいと気遣いながら、彼ら一人一人に微塵も触れないようにして、動いているような、動いていないようなエスカレーターの段々を上って行った。 ふうっと大きな息を、わざとでもなく付いたところで、ようやく衣料品店のある6階に到着したかと歓びそうになったが甘かった。まだまだ、やっと4階だった。 どうしましょうと嘆く私に、風さんからの声が掛かった。 《あなたも何か得意技を披露しなさい》と言われた。 《そうすれば、すべてはうまく行くのです》 困った。 私は不器用にも無粋なにんげんで、自慢できるような得意技などアリマセン、としょうじきに伝えると、そんなことはないでしょう、と風さんは物ともしない。 「私の得意技なんて、知れたものです。何しろ、転ぶ、起き上がる、それしきの動作を繰り返すことしか出来ないのですから」 すると、ピューとまた風が吹いた。 顔の真横を過ぎて行くという接近振りであり、私は風さんが怒っているのだろうかと身の縮まる思いがしたが、勘違いだったようだ。 それでいいじゃあありませんか、といくぶんやさしい声が何処からともなく湧いてきた。 さっきからの風さんの声なのか、エスカレーターの1段1段にいる彼らのごっちゃ混ぜの声なのか、判然としなかった。 カオスのような声はそれでも、はっきりと聞こえ、スゴイスゴイ、上手だ上手だと褒め称えるばかり、私をおだてる。 あなたのお名前は何ですか、とそのうちの一つの声が訊いてくる 「ラタコです」と私は思わず答えた。 「ラタコさん?」 「はい」 すなおに首を縦に振ってこたえると、あちこちから笑い声が湧きあがった。 「ラタコさんか。ラッタッタのラタコさんか。元気いっぱいって感じだね。こりゃあ、イイやぁ」 揶揄うとか蔑むとか、そういった笑いでなく、笑うしかないコメディー映画を見た観客が邪気なく笑うという笑い方にしか聞こえなかったので、私はイヤな気はしなかった。 「じゃあ、ラタコさん、やってチョーダイ。あなたの得意技を」と段々にいるすべての人々が声を合わせて促す。 「そうです、あなたの得意技と言えば、転ぶ、起き上がる、また転ぶ、起き上がる、その行為だ、元気さだ。さあさあ、どうぞ」 こんなところで、それは出来ないと私は即座に拒否した。こんな一段一段とヒトのいる、ヒトが犇めきあっているような階段にいて、どうしてそんなことが出来るというのか。 すると、「何事も不可能ということはないのだ、やってやれないことはないのだ」と声の一つ一つが揃って容赦なく煽る。 じゃあ仕方ないわと意気込んで、たった一か所だけ、フリーとなっている一段で、試しに、でんぐり返りをするとウケた。拍手が来た。味をしめて、転ぶ、起き上がるの繰り返しもやってのけた。 「ラタコ、いいぞー」と輪唱めいたお褒めの声も次々と湧く。 ご褒美、ご褒美と声が掛かって、気が付くと、動いているようで動いていないようなエスカレーターが、正真正銘見事に動き、つまりは上へと昇り始め、私は無事、目的の6階に着き、体の寸法にぴったりのスラックスを買うことが出来た。 「お代はいりませんから。もう頂戴しておりますから」と売り子の女性から朗らかに言われるまま、私は更衣室で、スラックスを履き、それまで履いていたスカートを女性に預けた。風さんの声が聞こえた。 「さあ、準備万端だ。ピッタリサイズのスラックスを履いたあなたは向かうところ敵なしってもの。所持している必殺のアイテムを、スラックスのポケットにお入れなさい。そうすることで、アイテムは本来持っているパワーの何倍もの効力を発揮して、あなたの仕事の手助けをしてくれることでしょう」 私は、ハイとすなおな返事をして、ジャケットのポケットに忍ばせていたそのアイテムを取り出し、スラックスのポケットに納めた。 アイテムは、おおきくはない。 1ヶの消しゴムだった。 私は、〝怨み晴らし〟の請負人である。 この世の中には、積年の恨みを抱えて、ニッチもサッチも行かなくなった人々があふれていて、私はその手助けをする。 本日も、依頼を受けた仕事を果たすべく、この場所にとやって来た。 依頼者は中年過ぎの婦人で、自分を捨てた憎い男を懲らしめてやりたい、お願いしますというものだった。どうにかしてやりたいのです――この世の恨みをすべて搔き集めるような勢いで、婦人は私に頼んだ。 「その男は、この自分より10歳若く、自分からさんざん金品を搾り取った挙句、この自分を正月三が日の凧のように捨てました。男は結婚を餌にわたしを釣った。妻子も捨てる、そして、あんたと結婚するなんて、甘い言葉を放って……」 「お正月? 三が日?」 「お正月の三日間、空に舞わせれば、用済み。この世の何処かにでもしまっておけというわけです」 「ひどいですね。お引き受けしましょう。今度は、その男を、三が日の凧、いえ、新年のお雑煮に入れるユデダコみたいに真っ赤に茹でてやったらスカッとしますよ」 凧にユデダコ、冗談めかしたこちらの言い草に、くすりとも笑いはしない婦人に、私は彼女の恨みを深さを再認識し、仕事への意欲をいっそう強く抱いた。 買いたて、履きたてのスラックスで下半身を防備したような私に、もう怖いものはなかった。そう信じなければ、前には進めない、そんな気強さに満たされていた。 私は、ヒト息に、動いているようなそうでないようなエスカレーターを駆け下りる。 動いていようが止まっていようがカンケイない。エスカレータの一段一段を陣取っていたにんげん達は、ポカンと呆気に取られるごとく口を開けて、疾風のような私を見ているばかりだった。 ビルの外に出た私は、いちどフーッと息を吐いて、また吸って、それから、転ぶ、起き上がる、また転ぶ、また起き上がるという行為を得意げにも何度か繰り返し、道行く人の目を引かせたが、気にすることもなく、それから、キッと目を上げて、わき目も振らず、走り始める。 依頼人の婦人を騙し抜いた性悪にんげんの棲み処など、むろん疾っくに承知済みだった。 ほどほど見栄えのする外観のマンションの3F。 その角部屋のドアを、トントンとノックすると、ハイハイと愛嬌よろしくの声がして、一人の男が顔を出した。年寄りではないが、想像していたよりも若くはない。そんなことは、しかし、どうでもよい。 「あなた、これから、凧になるのよ」 私はいきなり、言ってやった。 はあ、と男はバカみたいにこたえ、「どこかで、お会いした方ですかな」と不思議そうに私を見た。 「凧になるのよ、そして、タコにもなるのよ」 私は構わず言い続けた。 空で舞ったかと思えばすぐ墜落する凧であり、美味しいお刺身になるはずのものが熱湯でゆでられ真っ赤になるタコでもある――「今のあなたは、そんなヒトよ」 男は、ポカンと私を見つめてばかりでいたようだが、「待っていましたよ」と意外なことを言う。 「待っていた? 私を?」 「はい、あなたを」 「どうして、また」 「そりゃ、あなた。彼女から、聞くべきことは聞いていますからね」 「聞くべきこと? いえ、彼女って?」 「彼女と言えば、彼女ですよ。あなたに、〝怨み晴らし〟のお願いなどしたあの彼女です」 「その彼女が、あなたに何かをお伝えしたのですか?」 「アタリマエではありませんか。何しろ、彼女とわたしは、ワリナキ仲。何でも筒抜け、ごくろうさま」 男は、そして、ここぞとばかり、カラカラと笑った。 「凧になるのは、あなたの方なのじゃないかな」 男は、私の首を掴み、そこを軸とするようにして、私の体を引き回そうとする。さして強い力ではない。だが、私は呆気なく、後ろ向きにされてしまった。そうされてしまったのは、突然にも勢いの良い風が吹き付けてきて、加勢をしたせいだった。 「あ、風さん、あなた、私の応援をしてくれるのではないのですか」 私はタジタジと問いかけたのだが、返事はない。もっと強い風が吹き付け、私は乱れる髪を抑えながら、うずくまる姿勢になった。 そんな私を、男は軽々と持ち上げ、ジャケットのポケットからスルスルと取り出した太い太い粗糸で体中を縛りに縛り、そうやって一体の凧に仕上げる。 部屋の中で、凧揚げは出来まいと自嘲するよう言ったかと思うと、全速力で、屋上へと駆け上がり、私を空に向かって、揚げた。 好都合の強風が、見る見る私を凧にして、舞わせる。どれくらいの時間、そうされていたのか。 「お次は、真っ赤なユデダコにして差し上げようかとも思うが、そこまでしなくてもよさそうだね」 男の得意げな声が聞こえたかと思うと、私は屋上の床に下ろされていた。 スラックスの後ろのポケットが剥き出しになり、そこにと入れ込んでいたアイテム、1ケの消しゴムが、息を呑む間もなく、男の手によって取りだされてしまった。 「最強の消しゴムですな」 俄かにほくそ笑む男の顔が、私にいっそう近づく。これじゃあ、キスなんてされてもおかしくない近まり方だわと身を退こうとしても、体は言うことを聞かない。 また風が吹いた。 「あんたの買いたて、履きたてのスラックスのポケットに仕舞われていたおかげで、1ケの消しゴムはターボを利かされる勢いで、最強のものとなった。すべては筋書き通りだ」 男はますますほくそ笑み、その顔は、福笑いのように歪んだ。目、眉、鼻、口がバラバラになるような面妖さが、男のすべてだった。 「私に何の恨みがあるのです。どうして、こんなことを私に」 「恨みだと? 逆にお訊ねしたいね。何の恨みがあって、あんた、こんな所まで来てるんだ」 「それは……それは、私が、〝怨み晴らし〟の請負人であるからで」 「勝手なことをほざくな」 バラバラの福笑い顔のまま、男は、身動きできない私を、更にがんじがらめに抱くようにする。 「恨みがあろうがなかろうが、消えるべきにんげんは消されるんだ。消えるべき、消されるべき理由なんてあろうがなかろうが、こうしてね」 男は、私のスラックスのポケットから盗み出した消しゴムを、まずはと私の頭に充てた。1本残らず髪の毛が消えた。それから、首、両手、胴体、両足と、消しゴムで軽く撫でるようにするだけで、私は消されていく。両足を覆うスラックスまで、あっさり消されると、私は、ああ、もうダメだとカンネンするしかなかった。 「まあ、顔だけは残してやった。顔には目がある。その右眼左眼で、あんたは見るべきものを見て、そして、全くの無になるのだ」 また風が吹いた。これまでで一番強い吹き方だったかもしれない。 私の目の前に、長い長い階段が顕われ、ああと私はすがるような思いに駆られたが、あの動くようで動かないエスカレーターなのだと判った。 一段一段に、にんげんがいて、私を見て、嗤っている。 さようなら、さようなら。すべてのにんげんが手を振りながら、それから、揃ってでんぐり返しをする。更には、転ぶ、起き上がる、また転ぶ、また起き上がる、そんな私の得意技を、全員がしてみせ、さようなら、さようならを繰り返す。繰り返して、嗤う。 嗤われながら、私は消えて行く。 男の手にある消しゴムが、すっと私の右眼左眼にも充てられた。
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