第23話 あの日の背中

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ

第23話 あの日の背中

 夕方の講義を終えた兼三郎が研究室に戻ると、もう穂波はいなかった。あの状況でもバイトに通っているらしい。  ハイバックチェアにもたれた兼三郎は、朝からの出来事を振り返ってみる。提訴だとか言ってみたものの、あの子、つまり羽後さんが同意する筈もないことは判っていた。MRは一応責任を感じているようなので、何らの対応はしてくれるだろう。あわよくばの邪心があることは同じ男として何となく判っている。しかし、実際に羽後さんに被害が出てしまった以上、只のナンパと言う訳にもゆくまい。  ま、若い人たちの話だ。私には最早関係が…、  兼三郎はスマホを取り上げた。二日前のフィールドワークで撮った写真。神話になった三つの山々が見える盆地の風景。その端っこに、あの子の後ろ姿が写りこんでいる。若々しい背中。顔を上げて前を見ている。万葉集の背景となった生活を知りたい、もっと隠された何かをみつけたい。そう言っていた真っ直ぐな瞳。女の子は一人の人とずっと寄り添う方がいいと真摯に訴えた真っ直ぐな瞳。ギリシャ彫刻のような、穢れを知らない髪と肌は真っ白なアイデンティティだ。本人が言っていたような色素の欠乏なんかじゃない。真っ白、それだけで十分な存在なのだ。こんな東洋の島国にギリシャ神話から抜け出たような姫がいるとはな…。  そう、もしや、かぐや姫もそんな存在だったのかもしれない。東洋と西洋を橋渡しする、まるで絹の道のような、いや、真っ白な絹そのもののような存在だったのかもしれない。  白絹…。   あの子に相応しい呼び名だ。穢れを寄せ付けない神聖な色彩。兼三郎は穂波が研究室にやって来てからの数々のシーンを思い出した。本当は、あの子はどこから来たのだろう。出身地や出身高校は、どこかに書いてあった筈だが記憶にはない。消去されたのかも知れんな。今見返しても、きっとそれこそ空白だろう。本当に月からやって来たのかも。ミステリーだ。兼三郎は笑みを浮かべた。  そんな姫を私は今預かっている。実態は、疑う事を知らない至って普通の女の子。年寄をほっとさせる笑顔の可愛さ。この先どうするのか本人も明確なビジョンがないまま、文美にこき使われて走り回っている日々。(はか)()で美しい白絹。  結局、かぐや姫のように月に還ってしまうことになるのだろうか。あの子がいなくなった研究室の、ぽっかりと穴が開いたような淋しさは心の中でシミュレーション出来てしまう。空恐ろしい光景だ。  兼三郎はハイバックチェアの背をリクライニングさせて、再びスマホを取り上げる。ロックを解除し、先程の写真を眺め、そして指でその背中をなぞってみた。白絹をずっとここで、いや私が囲えたらどんなにいいだろう。最初に文美に咎められたように、禁断の行為なんだろうな。少なくとも大学院教授が担当院生に対して持ってよい感情ではない。とは言え・・、 「この写真くらいならいいだろう。確かどこかにフォトフレームがあった筈・・・」  呟きながら兼三郎は写真をオンラインストレージにアップロードし、机上のパソコンに取り込んだ。そして引き出しから写真サイズの光沢用紙を取り出して、レーザープリンターに打ち出した。  出来上がったプリントアウトを改めて眺めているうちに、兼三郎はふと不安になった。 「今朝のことで急に月に還るとか言い出さんだろうな…」  そうだ。私は指導教官なんだ。様子を聞くのは義務でもある筈。あのMRのような浮かれた気持ちじゃない。差し当たってどこに住んでいるのか、学生部に聞いてみるか…。  兼三郎はハイバックチェアから腰を上げた。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!