1 -Misty-

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1 -Misty-

 わたしのパパは、都内の外れにある小さなジャズクラブ、”Misty”の店長。駅から少し離れた住宅街に佇むこの店では、いつだって良質なジャズの生演奏を聴くことができる。  ”Misty”の定休日は、毎週月曜日。パパは火曜日から日曜日までは休みなく、夕方から真夜中まで働いている。長袖シャツの胸ポケットには必ず、オイルライターと紙巻き煙草のソフトケースを忍ばせて。  ミュージシャンのステージ中、パパはいつも難しい顔をしている。ヘッドフォンを片手に機材ブースにじっと座って、音響と照明を真剣に調整しているから。  そしてステージが終わるとすぐ、パパは素早く立ち上がる。次のステージまでの間に、店内すべてのテーブルを回るために。パパは各テーブルで空になったグラスを回収しながら、軽やかにドリンクの追加オーダーを取っていく。  そんなふうに颯爽とこのジャズクラブを仕切っているパパは、世界一格好いい。でもちょっと働きすぎなのかなって、ときどき心配になるときもある。  パパは煙草を吸いすぎるせいか、いつも顔色があまり良くない。お酒はたくさん飲むけれど食事はあまり摂らず、手の甲や首筋には骨と皺ばかりが目立っている。  パパは真夏でも長袖シャツの裾を少しまくる程度で、ほとんど肌を見せない。だから見過ごしそうになるけど、本当は痩せすぎなんじゃないかって、わたしはひそかに心配している。  放課後のわたしは、たいてい”Misty”でカウンターの一番奥の席に座っている。この席は、店内で一番ステージが見えにくい。  だけど、文句は言えない。だって、わたしは店長であるパパの娘がゆえの特権で、いつも特別にノーチャージだから。でもその代わり、人気のミュージシャンが出演する忙しい日には、わたしが無償でお手伝いをすることになっている。  わたしが”Misty”に行くのは、一度帰宅して、制服を着替えてから。もちろんお酒は飲まないけれど、制服を着た未成年がジャズクラブに堂々と居座っているのは、やっぱりしっくりこない。  自宅で早めの夕飯を済ませると、わたしは去年の誕生日にパパに買ってもらった、赤い自転車に飛び乗る。信号に一度も引っかからなければ、ちょうどファーストステージの前に”Misty”に到着することができる。  カウンターの中で、ドリンクを作ってグラスを洗いレジで会計をしているのは、唯一の店員であるダニエル。ダニエルは日本生まれの日本育ちだけど、お父さんがアフリカ系アメリカ人。陽気で気が利いて話上手で、常連客の顔と名前もすぐに覚えてしまう。 「小百合ちゃん、お待たせ。リトル・リリー・スペシャルだよ。」  今日もいつもの席でステージを観ていたわたしに、カウンターの中からダニエルがグラスを差し出した。ステージ中はあまりオーダーが入らず、ダニエルは少し仕事に余裕がある。 「ありがとう。」  わたしは演奏のじゃまにならないよう、小声で伝える。ダニエルから渡された逆三角形のグラスには、黄色い液体がなみなみと注がれていた。  リトル・リリー・スペシャルは、ダニエルがわたしのためにいつもサービスで作ってくれる、ノンアルコールビールとジンジャエールで出来た、なんちゃってシャンディーガフ。リトル・リリーは日本語では小さなユリ、わたしの小百合という名前を指している。  ダニエルが、どういたしましての意味だろう、片目をつむって見せた。ダニエルは半分外国人の血が入っているからか、ウインクがよく似合う。 「わたしも早く、本物のお酒が飲みたいな。」 「小百合ちゃんは今、何歳だっけ?」 「十五歳だよ。高校一年生。」 「じゃああと、五年の我慢だね。でもまあ、そんなの、すぐだよ。」 「そうかなあ。ねえ、ダニエルは学校が楽しかった?」  わたしはリトル・リリー・スペシャルを味わいながら、聞く。ノンアルコールだけどほのかな苦みがあって、少し大人になった気分だ。 「いや、あんまり。おれ、勉強嫌いだしね。なんとか高校は卒業したけど。小百合ちゃんもつまんないかもしれないけど、大人になったときのこと考えたら、やっぱり高校は卒業しといた方がいいよ。」  ダニエルは、洗い終わったグラスをクロスで拭きながら、答えた。 「ダニエルも、パパと同じこと言うんだね。パパも、高校は絶対に卒業して、大学にも行きなさいって。  でも勉強は仕方ないとして、あの狭い空間で特定の友だちと楽しく過ごさなきゃいけないっていう、謎の圧力が苦手なの。みんなが楽しめる、たわいもない話題を探すのにも苦労するし。」 「ああ、女子はグループ作るからね。でも別に小百合ちゃんはそんなの気にしないで、好きなときに好きな人たちといればいいじゃん。」  わたしは真剣に悩みを打ち明けたのに、ダニエルはたいしたことなさそうな様子で答えた。ダニエルから見たら、わたしの悩みなんて、高校時代にはよくあることなのだろうか。 「でも授業の合間の休み時間とか、友だちがいないと間が持たない時間が多すぎるの。」 「なるほどね。でも友だちって、無理に作るものでもないし。まあ、そのうちすぐ夏休みになったら、そんなこともどうでもよくなるよ。   おれの学生時代は、シンプルに人種差別に悩んでたけどね。おれ、見た目が思いっきりハーフなのに、日本語しかしゃべれないしさ。肌の色とか、天然パーマとか、いじられて。」 「ダニエルみたく格好よくても、そんなことあったの?」  ダニエルの彫りが深い顔は整っているし、髪の毛先から足元に数センチだけ覗いている靴下まで、いつだって全身お洒落に決まっている。 「今は自分が好きなヘアスタイルで、自分が気に入る服やアクセサリーを身につけて、自分が思うように格好つけてられるけど、学校って校則あるし、制服じゃん。だから当時のおれは全然、格好良くなかったんだよ。」  そう言って、ダニエルはまた片目をつむって見せた。  このジャズクラブの店名は、エロール・ガーナーの名曲から。命名したのは店長のパパじゃなくて、オーナーだ。  オーナーは、業界では有名なジャズメン。二十代でジャズシンガーとしてデビューしてその名が知られた後は、芸能事務所、中古レコード店、音楽スクールなど、ジャズにまつわるさまざまな事業を展開している。若き日のオーナーの代表曲のひとつが”Misty”だったことが、店名の由来らしい。  オーナーはもうおじいさんで髪も少ないけれど、いつもグレイヘアのオールバックが決まっている。お腹は出ているけれど、いつも違った高級そうなスーツを着こなしている。  たまにオーナーが”Misty”に来店すると、店内の空気が一気に引き締まる。オーナーの存在感は、このジャズクラブでは絶対的なものだ。  それからもう一つ、最近わたしが偶然知ってしまったことがあった。  その日わたしは、いつものように放課後、”Misty”でカウンターの一番奥の席に座ってステージを観ていた。たまたま出入り口付近で、常連客とオーナーが会話をしていたのだけど、その内容が聞こえてきてしまったのだ。  どうやら、わたしのパパはオーナーの養子で、オーナーはゆくゆくはパパに自分の跡を継がせるつもりだ、ということだった。  パパからそんな話を聞いたことはなかったから、そのときは驚いた。パパは結婚したときに一人娘だったママの姓にしているから、オーナーとは苗字も違う。 「小百合、来週から夏休みだろ。再来週の金土日、店を手伝える?」  ファーストステージの演奏が終わると、パパが足早に機材ブースから出てきて、わたしに話しかけた。 「うん、大丈夫だよ。だれが出るの?」  わたしの質問に、パパは壁に大きく貼られたポスターを見ながら答えた。 「星森誠也トリオの、デビューイベント。ありがたいことに、三日とも満席。」  ポスターには、グランドピアノを演奏している二十代前半くらいの男の人を、横からとらえた姿が写っていた。  筋がとおった鼻、切れ長の目元、上品な形の唇、そして顎から頰にかけてのシャープなライン。綺麗な横顔のそのピアニストは、真夏の空のような色のスリーピーススーツを着ている。 「頼むな。」  そうわたしに言うと、パパは追加オーダーを取りにテーブル席へ向かった。 「星森誠也って、オーナーの一人息子だって、小百合ちゃんは知ってた?」  パパがいなくなると、カウンターの向こうからダニエルがわたしに聞いた。 「えっ、そうなの? 知らなかった。」  確かに、オーナーの苗字も星森だった。オーナーには子どもがいないからパパを養子にしたのだとばかり思っていたのに、実の息子がいたんだ。 「オーナーは二回結婚してて、はじめの奥さんとの間には子どもはいないんだけど、今の奥さんとの間の一人息子が誠也くんなんだよ。歳をとってから初めて恵まれた子どもっていうこともあって、オーナーは誠也くんにかなり期待してるらしいよ。  高校、大学と本場のジャズピアノを学ぶためにアメリカに留学してたんだけど、今年卒業して、満を持してデビューする日が再来週なんだって。  あ、それから誠也くんの誕生日はクリスマスイブで、聖なる夜っていう意味の聖夜が、名前の由来らしいよ。漢字は違うけどね。」  ダニエルが得意気に、星森誠也に関する情報を披露してくれた。ダニエルはいつの間にか、どこからか噂話を収集してくるから、不思議だ。
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