2 -Moon River-

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2 -Moon River-

 今日から夏休みだという月曜日の朝、わたしはアコースティックギターの音色で目覚めた。ママが好きな映画である「ティファニーで朝食を」で、オードリー・ヘプバーンが歌っている”Moon River”が、何度も繰り返し聴こえる。  わたしはそれを聴きながら、顔を洗い、髪をとかした。そして自分のクローゼットの隣にあるママのクローゼットから、レモンの果実がプリントされた膝丈ワンピースを見つけて、袖を通してみる。  スタンドミラーを見ながら、ママがわたしと同じくらいの年齢のときにこのワンピースを着ている姿を、想像してみる。可愛らしいママには、爽やかなレモンの果実がよく似合っただろうなって、思いを馳せる。  わたしは自分の部屋を出て階段を降り、一階にあるパパの部屋のドアを開けた。パパはいつものように長袖シャツの裾を少しまくり、ベッドに腰掛けてアコースティックギターを弾いていた。  ドアが開いた気配を感じたらしく、パパはわたしの方を見る。するとパパは急にはっとした表情になって、アコースティックギターを弾く手を止めた。繰り返し流れていた”Moon River”が、曲の途中で終わる。 「ごめんなさい、寝坊しちゃって。」  わたしは素直に謝った。 「いや。」  パパはそう返すと、アコースティックギターをスタンドに立てかける。そして、サイドテーブルの上からオイルライターと紙巻き煙草のソフトケースを手に取り、立ちあがった。  パパが片手でソフトケースを握って上下に揺らすと、まだ火の付いていない一本が頭を出した。パパはそれを口にくわえ、部屋を出て行く。  わたしが追いかけたときは、パパはすでに玄関の外に出た後だった。  うちの玄関の前には、ママが生まれたときに植えられたという、立派なレモンの木がある。パパは家にいるときに煙草を吸いたくなると、決まってそのレモンの木に寄りかかって一服する。  わたしは玄関の前を通り過ぎ、ダイニングルームのドアを開けた。 「おはよう、小百合。朝ごはん、できてるわよ。」  そう声をかけてくれたのは、グランマだった。わたしが階段を降りる音を聞いて、食パンをトースターで温め始めてくれている。  グランマはママのお母さんで、わたしのおばあちゃん。ベリーショートの白髪にジーパンを履いた姿は、年齢よりも若く見える。  ダイニングテーブルには、ベーコンとスクランブルエッグが乗ったお皿と、ボウルに入ったリンゴ入りのサラダが用意されていた。かたわらには、パンに好みでつけるジャムやピーナツバターの瓶が置いてある。  ジャムはたいてい、グランマの手作り。玄関前の木から収穫されたレモンで作った酸味のあるジャムは、わたしのお気に入りだ。 「おはよう、グランマ。パパ、どうしたんだろう。声をかけたんだけど、煙草を吸いに出て行っちゃった。」  わたしはサラダを食べ始めながら、聞いた。 「そのワンピース、あなたのママがよく着てたから、懐かしくなったんじゃない?」  グランマは、わたしが着ているワンピースに描かれたレモンの果実を見つめながら、そう答えた。 「そうなの?」  わたしは聞き返す。今朝なんとなく目に入って、袖を通しただけだったのに。 「うん。」  グランマはわたしの朝食に付き合うためにダイニングテーブルにつき、少し寂しそうに微笑んで答えた。  七月半ばに、ママの命日がある。ママはわたしが赤ちゃんのとき、病気で亡くなった。わたしを妊娠していたとき産婦人科で検診を受けたことがきっかけで、病気が発覚したって聞いている。  わたしには、ママの記憶がない。わたしが知っているママは、家のいたるところに飾ってある、写真の中にいるママだ。今もダイニングテーブルの目の前にある白い壁には、幼稚園の入園式から結婚式のウエディングドレス姿まで、何枚ものママの写真が飾られている。  写真の中のママはいつも、本当に幸せそうに笑っている。まだ十五年間しかないわたしの人生だけれど、学校での出来事で落ち込むことは、意外としょっちゅうある。そんなとき、ママがこんなレモンみたいな明るい笑顔で、わたしに笑いかけてくれたらいいのに。  そうしたらわたしは、きっと素直にその日の出来事をママに打ち明けられるんだろうな。それでママがわたしを励ましてくれたら、どんなに心が軽くなるだろう。  グランマは毎年、ママの命日に先にお墓参りに行く。当日はたいてい平日で、わたしが下校する頃にはパパが出勤してしまう。だから、わたしとパパは少し遅れて、わたしが夏休みに入ってすぐの月曜日に、一緒にお墓参りに行くのが恒例になっていた。  わたしが朝食を食べ終わるころ、外でエンジンの音がした。わたしは急いで出かける準備をして、玄関の外へ出る。  玄関前の路上には、大型バイクがエンジンをふかしていた。パパはそれにまたがって、紙巻き煙草を吸いながら、気持ち良く晴れた空を見上げている。 「お待たせ、パパ。」  わたしが声をかけると、パパは火のついている煙草を口にくわえ、黙ってわたしにヘルメットを手渡す。そしてパパ自身もヘルメットを装着し、サングラスをかける。  わたしはヘルメットをかぶるとバイクの後ろにまたがって、パパの腰に後ろから手を回した。パパの背骨のあたりから、パパがいつも吸っている紙巻き煙草の匂いがする。  パパが携帯灰皿で煙草の火を消したころ、グランマが玄関の外まで見送りに来てくれていた。パパはグランマに微笑みかけ、グローブをはめた手を振る。 「そうしてると、小百合なのかあの子なのか、わからなくなるわね。」  グランマが、感傷的な様子で言った。ママもこうやって、よくパパのバイクの後ろに乗って出かけたのだろうか。 「グランマ、行ってきます。」  わたしのその言葉で、バイクが発車する。  バイクは住宅街を抜け、川沿いを走り、橋を渡る。そこからさらにしばらく走ると、高台にあるお寺が見えてくる。  ママは、ママのお父さんであるグランパと同じお墓に眠っている。わたしとパパは道中で買った、ママが好きだったケーキ屋さんのレモン・マドレーヌと、ママが好きな花であるユリの白い花束を墓前に供え、手を合わせた。  帰り道、パパはお気に入りの川辺の一角にバイクを停めて、一服した。そこは川沿いに植えられたツツジが途切れ、手すりに寄りかかって水面を真上から眺めることができる場所だ。大きく育った桜の木の葉が影になって直射日光が当たらないから、夏でも長居できてしまう。たまに、カモやシラサギが食事をしている姿を見ることもできる。  ここは、わたしが小学生のときの通学路だった。下校時間が早い低学年のころは、よくこの場所でパパを見かけた。パパはいつも”Misty”に出勤する途中、一人で手すりに寄りかかりながらぼんやりと水面を眺めて、紙巻き煙草を吸っていた。  パパが煙草を持つ左手の薬指には、今でもプラチナの結婚指輪がはめられている。その指輪の内側には、パパとママのイニシャルと結婚記念日が刻まれている。それを知っているからか、わたしはその鈍い銀色の輝きを目にするたび、いつもほっとする。  パパがママを忘れてしまったら、わたしの半分がなかったことになってしまうような気がして、なんだか怖い。でもママが亡くなってしまった以上、パパには他のだれかを新しく愛する権利があるのだろうか。  そんなことを想像しようとしてみるだけで、わたしは自分の心の一部を無理やりもぎ取られるような、言い表せない気持ちになる。わたしはこの考えを頭の中から追いやろうと、お供え用とは別にパパに買ってもらったレモン・マドレーヌを口に運んだ。 「パパ、このワンピースのこと、覚えてる?」  わたしはレモンの果実がプリントされたワンピースの裾を広げて、パパに聞いた。  パパは一瞬こちらを見ると、また水面に目をやってから答える。 「ああ、パパとママが初めて出会ったとき、ママが着てたと思う。小百合はもうすぐ十六歳だろ。パパが出会ったときのママも、十六歳だった。」 「そうだったんだ。そんなに大切な思い出があるって知ってたら、着ないでとっておいたのに。」  ママはパパと結婚してから亡くなるまでは、パパとママとわたしの三人で借家で暮らしていた。ママが亡くなってからは、パパが仕事のときにわたしの面倒を見られないこともあって、ママが結婚するまで住んでいた木造の家で、パパとわたしとグランマで一緒に暮らすことになった。グランパは、わたしが生まれる少し前に亡くなったらしい。  わたしの部屋として与えられた部屋は、もともとはママの部屋だった。ママの遺品はだれも手をつけることがなく、今もそのまま残されている。  ママの気に入っていたものは、どれも不思議とわたしの趣味に合う。わたしは高校生になってから、ときどきママの着ていた服の中から、気に入ったものを着るようになっていた。 「いや、たまに着てあげたほうが、ワンピースだって喜ぶだろ。」  そう言うと、いつも無表情なパパにしては珍しく、わたしに微笑みかけた。月曜日は、仕事がある日には見られない、パパの穏やかな一面に触れることができる。 「ねえパパ、パパとママが出会ったときのこと、教えて。」  わたしは何度聞いても、パパから聞くその話が好きでたまらない。特別ドラマチックな要素があるわけではないけれど、確かにパパとママが出会ってわたしが生まれたんだって、改めて感じることができるから。  パパは紙巻き煙草を一口吸うと、話し始めてくれた。 「パパは中学を卒業してすぐ家を出てから、ずっとギターを弾く仕事をしてた。ママと出会ったときは、ちょうどバックバンドをして学園祭を回っていたときだった。  ある大学の屋外ステージで演奏しているとき、ちょうどソロで手が離せないところで風が強く吹いて、パパの帽子が飛ばされた。偶然それを拾ってくれたのが、ママだった。  出番が終わってステージ裏に降りると、本来だれもいないはずの柵の向こうから、声をかけられた。それは、急いで帽子を渡しに来てくれた、ママだった。柵の向こうはその大学の付属高校の校舎で、ママがそこの一年生だったらから、立ち入り禁止だったステージ裏まで入れたんだ。  パパはもういい大人でママよりずいぶん年上だったんだけど、ママに声をかけて連絡先を聞いた。それで、ママの家まで帽子のお礼を伝えに行った。  手土産は、途中でたまたま見つけた店で買った、レモン・マドレーヌを買って行った。たぶん、出会った日のママがそのワンピースを着ていたから、レモンの印象が強く残っていたせいで、選んだんだろうな。  ママは、そばにいて微笑んでくれるだけで、パパを幸せにしてくれる人だった。」  パパの肺から吐き出された煙が空中にゆらりと浮かび、風に流されてわたしの目の前で消えた。 「いつかパパとママみたいな出会いをして、結婚したいな。」  わたしは、出会ったばかりのころのパパとママの姿を想像しながら、そう口にした。 「小百合が大人になったらな。そろそろ帰るぞ。」  パパはそう返すと、ポケットから携帯灰皿を取り出して、煙草の火を消した。  星森誠也トリオがデビューする金曜日、わたしは開店時間よりも少し前に、”Misty”に到着した。すでに外には、お客さんが何人か並んでいる。  店内に入ると、リハーサルも終わって、ステージの上は整っていた。パパはテーブルを拭きながらカトラリーの補充をし、ダニエルはフードメニューの仕込みに没頭している。  そして一番後ろのテーブルには、すでにオーナーが座っていた。いつものしかめ面で、黙ってウイスキーを飲んでいる。  開店前からオーナーが来ていることは、わたしが知る限りでは今までになかった。やっぱり最愛の一人息子がデビューする日とあって、特別に早く来店したのだろうか。 「小百合、この仕事の続きやって。近所迷惑だから、もう開店する。」  パパはいつも通りの様子で、わたしにそう告げた。  わたしはエプロンを身につけ、残りのテーブルのセッティングをする。  パパは入り口のドアを開け、お客さんを店内に入れ始めた。”Misty”は自由席で、お客さんたちは席を取ってから、カウンターにドリンクを注文しに来る。  わたしはダニエルが作ったドリンクを、順番にテーブルまで運ぶ。  パパが選んだBGMが流れる店内で、お客さんたちが談笑している声が聞こえる。これから始まる少し贅沢な週末のひとときを、みんな心待ちにしているのが伝わって来る。  気がつくと、店内は満席になっていた。開演時間が過ぎ、パパが徐々にBGMの音量を小さくする。客席の照明が落ち、ステージにライトが当たる。お客さんたちのおしゃべりは自然と静まり、ステージに注目が集まる。  ステージにドラムスとベースが現れ、楽器の準備を始めた。どちらも、四十代くらいのベテランだ。  そして少し遅れて、空色のスリーピーススーツを着た星森誠也が現れた。スラリとした体格でポスターの通りの綺麗な顔立ちをしているけれど、柔らかそうなくせっ毛が決まりすぎない印象を与えている。  オーナーの息子であるがゆえにデビュー初日からジャズファンたちに注目されているというのに、緊張した様子はない。少しけだるそうにグランドピアノの前に腰掛けて、ドラムスとベースに目配せをする。  ピアノの一音目が鳴り、店内は息を飲んだ。二音目で期待に満ち、三音目は歓声に変わる。今夜の一曲目は、”Misty”だった。  わたしはちょうど仕掛り中の仕事もなかったので、機材ブース横のだれにも邪魔にならない場所で演奏を聴いていた。滑らかに別世界に吸い込まれるような繊細なタッチで、美しくも個性的な旋律を奏でる誠也さんの演奏に、わたしは一瞬で心を奪われる。  店名にちなんで、ほとんどのミュージシャンが、このジャズクラブでは”Misty”を演奏する。けれど今回は、今まで聴いてきた演奏とは次元が違うのだと感じた。本場で学んで来た経験からなのだろうか。それとも、偉大なお父さんの才能が遺伝しているのだろうか。とてもそんな理由では片付けられない、今までに体感したことのない、圧倒的な実力を感じた。  ふとブースの中のパパを見ると、いつにない真剣な顔つきで、ステージを見つめていた。パパも、誠也さんの演奏に驚いているのだろうか。  星森誠也トリオのステージは、日を追うごとに勢いが増していった。”Misty”のいつもの落ち着いた雰囲気は影をひそめ、高まる観客の熱気が、このジャズクラブの中に充満していく。  最終日には満席のうえ立ち見客も入って、忙しさに追われているうちに三日間が過ぎていった。  演奏以外でわたしの記憶に残っていることは、オーナーが必ず最後の曲の途中で帰って行ったことと、誠也さんの衣装が生地は違うけれど三日間とも空色のスリーピーススーツだったことくらいだった。  ”Misty”では一般のお客さんが帰ったあと、関係者だけで簡単な打ち上げがある。パパとダニエルの仕事が終わるのは、いつもその打ち上げのあと。星森誠也トリオのデビューイベント最終日の今日も、一部のテーブルで関係者がお酒を飲み始めていた。  しばらくすると、譜面が入っていると思われるトートバックを持った誠也さんが、楽屋から出て来た。すでに飲み始めているテーブルの面々が、「お疲れ、誠也」と呼ぶ。  けれど誠也さんは一瞥しただけで、黙って”Misty”を出て行こうとする。どうしたのだろうと思っていると、パパの低い声がした。 「誠也。」  見ると、パパがわたしには見せたこともない怖い顔で、誠也さんの腕をつかんでいた。 「おまえのために皆さんが協力してくれてるんだから、戻れ。」  けれど誠也さんは何も言わず、パパの手を振り払った。そしてそのまま、ドアを開けて外に出て行ってしまう。  パパは追いかけようとドアに手をかけたけれど、店内をこのままにしておけないと思ったのか、その場で立ちつくしている。 「パパ、わたしに任せて。」  わたしは思わず、パパに声をかけた。パパは急にわたしが何を言い出したのか驚いた様子だったけれど、わたしはかまわずエプロンを脱ぎ、パパに手渡した。 「パパはここにいて。わたしが誠也さんを連れ戻してくるから。」  パパに呼び止められたような気がしたけれど、わたしはそのまま外に出て赤い自転車に乗り、とりあえずこぎ出した。  誠也さんは、オーナーと一緒に暮らしているのだろうか。オーナーの自宅はここから歩いて行けるところにあるけれど、それとも反対方面にある駅に向かったのだろうか。わたしは目を凝らす。  しばらく”Misty”の周辺を自転車で回っていると、それらしき人影が、オーナーの自宅でも駅でもない方向に歩いているのが見えた。わたしはその人影に向かって、全速力で自転車をこぐ。  空色のジャケットを肩にかけた、スラリとした後ろ姿がだんだんと近づいてくるにつれ、わたしは確信した。その横に並ぶか並ばないかのところで、わたしは声をかける。 「誠也さん!」  真横から急に声をかけられた誠也さんは、驚いた顔でこちらを見る。そして声をかけてきたのがわたし一人だとわかって少し安堵の様子を見せつつ、眉をひそめていぶかしげに聞いた。 「だれ?」  わたしがこの世界では有名人である誠也さんを知っていても、わたしのことを誠也さんが知らなくて当たり前だった。 「ごめんなさい、突然。わたし、”Misty”の店長の娘の、小百合です。」  誠也さんはわたしの姿を改めて見たけれど、たいして興味がなさそうに「ああ」とだけ言った。そして、前を向いて変わらない調子で歩き続ける。 「まだみんな待ってるから、一緒に戻ろう?」  わたしが話しかけても、誠也さんの長い足は歩みを緩めない。わたしがゆっくり自転車をこぎながら話しかけるので、ちょうどいい速さを保ったままだ。 「子どもはもう、家に帰って寝る時間だよ。」  誠也さんが面倒な様子で返した言葉に、わたしは真っ向から反論する。 「わたし、子どもじゃないから。高校生だし、もうすぐ十六歳だし。」 「未成年だろ。この時間に一人で出歩いてたら、補導されるよ。」 「大丈夫。誠也さんが、わたしの保護者だから。」 「は?」  誠也さんは再び眉をひそめ、そう声をあげた。そして、初めてわたしの方を見て立ち止まる。 「だって、わたしの叔父さんでしょ。」  わたしは明るくそう返しながら、自転車を降りる。 「義理のね。」  そう言い捨てると、誠也さんは急に進路を変え、道の脇にあったコンクリートの長い階段を上り始める。  やっぱりパパはオーナーの養子で、その事実は、オーナーの息子である誠也さんも知っているんだ。わたしは確信する。  わたしは路肩に自転車を止め、早足で誠也さんを追いかけた。階段の上は、線路に沿った細長い公園になっている。線路を見下ろしたその先に広がる街並みが、高台から見渡せる。  誠也さんは、線路に向かって設置してあるベンチに腰掛けた。トートバックを横に置くと、膝の上に空色のジャケットを載せ、脚を組んで遠くを見つめる。  わたしは誠也さんの視界に入るだろう、線路に人が落ちないよう設置してある柵の上に登った。 「どうして、何も言わずに出て来たの?」  わたしは、両腕を広げてバランスをとりながら聞く。 「よく、そんな不安定なところを歩けるね。」  対して誠也さんは、わたしの質問の答えとは全然違うことを口にした。小学生のように柵の上に立つわたしの姿を見て、あきれた様子だ。けれどそのぶん、わたしに対する警戒心が薄れてきたかなと思えた。 「あ、UFO。」 「えっ。」  誠也さんの突然の一言で、わたしは思わずその視線の先を追ってしまう。そしてその拍子にバランスを崩し、地面に降りてしまった。 「嘘だよ。」  そう言って、聖也さんは片方の眉を釣り上げて見せた。そしてネクタイを緩めたかと思うと、一気に話し始める。 「おれはもう嫌になったんだよ、すべて。今まで何もかも、父親の言うとおりにやってきた。別にピアノもジャズも、好きで始めたわけじゃない。留学だって、英語もしゃべれないのに向いてなかった。今やってるピアニストの仕事も、トリオのメンバーも、デビューの日も、アルバムに収録する曲目も、出演するジャズクラブも、全部父親が決めた。  録音技術が発展して久しくて、死ぬまで飽きないくらい過去の音源も映像も残されてるのに、今から日本人であるおれが、すでに本場の巨匠たちが演奏しつくした名曲を新しく演奏して、なんになる? もう、疲れたよ。」  わたしはトートバック越しに誠也さんの隣に腰掛けると、聞いた。 「でも、ピアノもジャズも好きなんでしょ? 高校と大学で七年間も留学してたってことは、英語も話せるようになったんじゃない?」 「好きっていうか、おれにはピアノしかないし、仕事では他の音楽も演奏するけど、勝負できるのはジャズしかないから。英語はまあ生活するぶんには支障はないけど、それを別の仕事に活かせるほどはしゃべれない。」  誠也さんはひとり言のように、前を向いたまま答えた。 「わたしはなんの楽器も弾けないけど、でも誠也さんは特別すごいピア二ストだって、すぐにわかったよ。誠也さんの演奏だから聴きたいって思う人が、これからもっともっと増えていくと思う。」  わたしは自信を持って、誠也さんに語りかけた。  わたしのママは、小さいころからクラシックピアノを習っていたらしい。だから、うちには今でも、ママが弾いていたアップライトピアノが置いてある。  グランマは、本当はわたしにもクラシックピアノを習わせたかったみたい。だけど、わたしは家の中にいるよりも公園で走り回る方が好きな子どもだったこともあって、結局何かの楽器を習うことはなかった。そういえば、パパから楽器をやるように勧められたことも、特にない。 「そうだ、一度オーナーから離れて、誠也さんの思うとおり自由にやってみたらいいんじゃない?」  わたしは突然ひらめいて、そう提案した。  誠也さんは心底あきれた顔をして、口を開く。 「おれの父親を知らないの? そんな話が通用するわけないでしょ。自分だけが絶対に正しくて、しかも、そのやり方で今まで挫折したことがないんだから。  おれの進む方向は、生まれたときずからすでに決められてるんだよ。これからはしばらく日本で実績を積むけど、数年後は活動の拠点を海外に移してる。」  オーナーがワンマンだっていう気質は有名だったけれど、誠也さんの人生がすべて決定事項だったなんて、知らなかった。高校から留学させることは、将来海外で活躍するために必要なスキルを身につけるためだったのかな。 「誠也さんが言えないなら、わたしが代わりにオーナーに言うのはどう?」 「トリオのメンバーともレコード会社とも契約があるから、無理。しばらく今回作ったアルバムの宣伝で、全国のジャズクラブを回らないといけないし。」 「じゃあ、誠也さんにはとりえず今の契約を履行してもらって、そのあとはわたしがマネージャーになるっていうのは? そしたら、誠也さんがやりたいようにやれるように、わたしがマネジメントする。」  わたしの言葉に、「あはは」と急に誠也さんが声をあげて笑った。 「なんで、そこまでしようと思うの?」  誠也さんが、おかしそうに笑いをこらえながら聞いた。 「それはもちろん誠也さんが、わたしのパパの大切な人だから。」  けれど、わたしのその言葉を耳にすると、誠也さんは急に冷めた表情に戻った。 「おれのことが大切だって、あの人が言ったの?」 「パパは、わたしには何も言わないよ。でも今日パパが誠也さんと接してるのを見て、わかったの。パパは誠也さんのことを、特別に大切にしてるんだなって。」 「ふうん。まあ、なぜか、あの人はおれに必要以上に干渉してくるからね。」 「そうなの?」  実のところ、わたしはパパから誠也さんの話を聞いたことは一度もなかった。パパと誠也さんが親密な仲だってことも、今日まで知らなかった。 「あの人はしょっちゅううちに来て、父親といろいろ話してるから、ついでに必ずおれにも話しかけてくるの。昔は一緒についてきてたじゃん。一、二歳くらいだったのかな、覚えてない?」 「えっ、わたしがオーナーの家に?」  オーナーの自宅の外観は、この辺りでは特別に目立っている。有名な建築家が設計した家なんだと、ダニエルから聞いた。  だからわたしは、自然とこの家がオーナーの自宅だっていうのは知っていた。けれど、中に入った記憶は、まったくない。  わたしは今日初めて誠也さんと出会ったと思っていたけれど、誠也さんはすでにわたしのことを知っていたっていうこと? 子どものころの記憶って、いったいどこに行ってしまうんだろう。  誠也さんは不意にわたしから目を逸らすと、また遠くを見つめた。同時に、パタパタと小気味いいリズムが聞こえる。  見ると、長くて節が目立つ誠也さんの白い指たちが、空色のジャケットの上で、まるでそこに鍵盤があるかのようにパタパタと動いていた。指が勝手に、曲を奏で始めたのだろうか。 「誠也さん、そろそろ帰ろう?」  わたしがそう言うと、誠也さんは指を動かしたまま言った。 「やだ。」 「なんで?」  わたしの眉は、思いっきりハの字になる。 「戻っても、つまんないから。」  そう言った誠也さんは、なぜかさっきとは打って変わって、上機嫌だった。空色のジャケットの上で、さらにリズムに乗って演奏を続けている。誠也さんが今何を考えているか、わたしにはまったく見当がつかない。 「なんの曲、弾いてるの?」 「”Fly Me To The Moon”.」  わたしの質問に、遠くを見つめたまま指を動かす誠也さんが、流暢な発音で答えた。誠也さんの目線の先には、夜空に浮かぶ三日月がある。 「わたし、星森誠也トリオの”Fly Me To The Moon”、すごい好き! 絶対一緒に歌えない速さだけど、それがとっても格好いい!」  ”Fly Me To The Moon”は、連日ライブの終盤に、かなりのアップテンポで演奏されていた。そして、ひときわ観客が興奮し、歓声が上がった曲の一つだった。 「そうだね。でも演奏中はどの曲も、心の中で詞を歌ってるよ。」 「そうなの?」  驚いて聞き返したわたしに、誠也さんは初めて微笑みを返してくれた。誠也さんが教えてくれるまで、ヴォーカルがいなくても歌詞を意識して演奏されているということを、わたしは知らなかった。 「わかった、戻ろう。」  誠也さんは急に立ち上がり、空色のジャケットとトートバックを手に持つと、来た道を引き返した。 「え、待って!」  わたしは、慌てて後を追いかる。誠也さんって突然気分が変わることが多いのか、その後の動きが全然読めない。  ”Misty”に戻り、わたしは敷地内に自転車を停めた。その間に誠也さんが先に店内に入り、わたしがあとから続く。  店内に入って見渡すと、店内はもう綺麗に片付いていた。待っていたのは、カウンターに寄りかかって紙巻き煙草を吸っているパパだけだった。ダニエルはちょうど帰り支度をして、カウンターの裏から出てきたところだ。  誠也さんは空色のスラックスのポケットに両手を入れたままパパとは目を合わせず、ただその場に居心地が悪そうに立っている。パパはそんな誠也さんを厳しい目で見つめているけれど、何も言わない。そしてその光景を、ダニエルが静かに注目していた。 「ダニエル、今日はもう上がれ。」  パパがダニエルの視線に気がついて、そう言った。  ダニエルは好奇心の塊だから、これから起こることを見ていたかったに違いない。心底残念そうなダニエルは、あきらめた様子でわたしに向かって手を振る。そしてパパに「お先に失礼します」と言って、”Misty”を後にした。 「どうして挨拶もせず、出て行った?」  パパがわたしの知らない怖い表情と声色で、誠也さんに聞いた。誠也さんは相変わらず明後日の方を向いて、答えない。 「パパ、遅くなってごめんなさい。誠也さんは今まですごく頑張って、でも頑張りすぎて少し疲れちゃっただけなんだよ。」  沈黙に耐えられなくなって、わたしはパパに訴えた。 「もう遅いから、小百合も早く帰れ。」  パパはわたしの話なんて聞く気はない様子で、目は誠也さんを見つめたままそう言った。 「パパ!」  わたしは大きな声で呼ぶと、パパの目の前に思いっきり顔を近づけた。パパは驚いたのか、思わずわたしの方を見る。 「今日からしばらく、誠也さんはうちに泊まってもらおうと思うの。きっとグランマはいいって言うから、パパもいいでしょ?」  誠也さんが少しオーナーと離れる時間が生まれれば、オーナーの期待に応えるためじゃなく誠也さん自身のために、また新しい気持ちでピアノに向き合えるんじゃないだろうか。わたしは今、急にそう考えついた。  グランマは、もともと来客をもてなすのが大好きだから、反対はしないはず。いつもわたしの友だちが遊びに来ても快く夕飯にご馳走を作ってくれるし、遅くなると泊まって行きなさいって言ってくれている。 「お願い。」  わたしがパパに訴えると、パパは困惑した顔で誠也さんの方を見て聞いた。 「そういう話になったのか?」 「いや、今、初めて聞いたけど。」  一度もパパの方を見ず口もきいていなかった誠也さんだけど、気がつくとパパと自然に会話をしていた。わたしの突然の提案に、調子が狂ってしまったのだろうか。 「だって今、思いついたから。誠也さんもしばらくうちでゆっくり過ごしたら、今までの疲れもとれるかもよ。」  そう明るく言うわたしに、パパはあきらめたようにため息をついて言った。 「わかった。誠也がいいなら、パパは構わない。パパはオーナーに話をしてくるから、二人で先に帰れ。」 「パパ、ありがとう。誠也さん、こっち。」  誠也さんは断るかもしれないと思ったけれど、黙ってわたしの後について来てくれた。  パパは店の戸締りをして、オーナーの自宅へ向かう。  わたしは赤色の自転車を押しながら、歩き始める。空色のジャケットとトートバックを肩にかけた誠也さんが、スラックスのポケットに両手を入れ、わたしの隣に並んだ。  ちょうど、わたしの家がある方角に、三日月が見えた。誠也さんはそれを見つめながら、口笛を吹く。その旋律は、星森誠也トリオも演奏していた、”Blue Moon”だった。
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