序章 御庭番松平桜

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序章 御庭番松平桜

「大岡様、ここは私にお任せ下さい」 南町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の前に一人の女剣士が立つと無言でうなずく大岡越前。 彼女は一礼すると地面を蹴る大きな音と共に浪人たちに向かって行く。 浪人が怒声を上げて斬りかかるが、女剣士は一瞬で相手との間合いを詰めた。 虚をつかれた浪人が距離を置こうと背後に飛び退いた隙を女剣士は見逃さなかった。 次の瞬間、浪人は刀を持つ手を斬られている。 「桜流抜刀術回旋撃(さくらりゅうばっとうじゅつかいせんげき)」 相手の剣を受けると同時に小手を狙う剣技で一人、また一人と腕を斬られて悲鳴と共に倒れた浪人たちを役人が取り押さえる。 三人いた浪人たちは瞬く間に戦闘不能にされた。 「ガタガタ騒ぐな。傷口は浅くなるようにしている」 女剣士が浪人に一喝する。 「頼もしい奴だ」 大岡越前はこの若き天才剣士に目を細めた。 時は八代将軍徳川吉宗(はちだいしょうぐんとくがわよしむね)の時代。 吉宗は自ら紀州より連れてきた信頼出来る者たちを抜粋して伊賀、甲賀の忍者たちに代わる新たな組織「御庭番(おにわばん)」を作り上げた。 その御庭番の中でもひときわ抜きん出た実力を持つ女剣士がいた。 ⭐︎⭐︎⭐︎ 「た、助けてくれ。。」 夜の町に助けを呼ぶ声が響く。 その直後に断末魔の悲鳴と共に静粛が訪れる。 そして奉行所の同心が駆け付けた時には数人の遺体があるだけであった。 「また辻斬り才蔵の仕業か」 「この斬り口、みんな一太刀でやられている。間違いねえだろう」 「忠相(ただすけ)(大岡越前)、辻斬りはまだ捕らえられぬか?」 江戸城内で八代将軍徳川吉宗(はちだいしょうぐんとくがわよしむね)は南町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)に問いかける。 数ヶ月前より江戸城下において連続辻斬り事件が発生しており、狙われるのは刀を持った武士だけでなく商人や女、子供まで無差別であった。 人々はこの辻斬りを「辻斬り才蔵」と呼んで恐れていた。 目安箱にも辻斬り才蔵を早く召し捕ってくれという投書が何件も寄せられている。 「奉行所でも総力を持って行方を追っておりますが、辻斬り才蔵はどこの武家屋敷にも属していない素浪人。神出鬼没でなかなか見つける事が出来ません。見つけたとしても同心が斬られるという事態になっています」 「辻斬り犯の目的は何だ? 金でもないようだが」 「人を斬るのが目的かと。まるで人斬りを楽しんでいるように思えます」 「罪もない人たちを己の欲望のためだけに斬るとは」 吉宗と大岡越前の話しをすぐ近くで聞いていた一人の御庭番が吉宗に進言する。 「恐れながら申し上げます。上様、私めにお命じ下されば、その辻斬りとやらを見つけ出し、成敗して参ります」 「桜か」 吉宗が桜と呼んだのは御庭番でも最強の剣の実力を持つ女剣士で、名を松平桜(まつだいらさくら)と言った。 吉宗はしばらく考えていたが、これ以上罪もない人たちが斬られるのを防ぐために一刻も早い犯人の捜索と退治を桜に任せる事にした。 「よし。桜、忠相と協力して辻斬り犯を見つけ出し、成敗せよ」 「はっ!」 吉宗にお辞儀をすると桜と呼ばれた御庭番は城下へと出向いた。 辻斬り才蔵を捕らえるために、南町奉行所は見廻りの同心を増やして警備にあたっていた。 辻斬り才蔵は特定の住まいを持たずに放浪している浪人。神出鬼没という点で厄介極まりない。 南町奉行同心の三浦半兵衛(みうらはんべえ)に桜が大岡越前より紹介される。 桜は白の上着に黒袴を着て両刀差し。髪形は長い髪を総髪にしている。 身長は身長は五尺三寸〔約一六〇センチ弱〕あり、この時代の女性としては高身長の部類に入る。 女性の平均身長より十五センチは高く、男性の平均身長よりも少し高いであろう。 対面すると三浦とほぼ同じ身長と目線だ。 「よろしくお願いします」 お辞儀する桜は礼儀正しい年頃の娘であった。 三浦自身も大岡越前に紹介されただけで、実際に桜の実力を見たわけでもない。 半信半疑ではあるが、何せ上様とお奉行様のお墨付きをもらう剣士である。 「辻斬り才蔵は居合い抜きの達人。これまでの犠牲者は全て一太刀で葬られている。桜殿も気をつけなされ」 と町娘に忠告するようなつもりで言ったのだが、 「三浦様、お気遣いなく。私は御庭番。常に危険の中に身を置く以上、いざという時の覚悟も出来ています」 桜はそう言って微笑む。 その笑顔に三浦はどう対処していいのかわからず困惑した。 この少女が本当にそんなに強いのか? そんな疑問が浮かんでいたからだ。 「お奉行、その。。」 三浦が大岡越前に言いにくそうに口籠もる。 「半兵衛、何か申したい事があるのなら遠慮なく申してみよ」 「はい。あの桜と申す(むすめ)でございますが、私の見立てが悪いのかも知れませんが、普通の女子(おなご)にしか見えないのです。本当にあの(むすめ)が辻斬り才蔵と互角にやりあえるのですか?」 「ほう、桜がか弱く見えるのか?」 「い、いえ。仮にも上様の御庭番。相当の実力がなければ選ばないのは存じておりますが」 大岡越前は笑いながら三浦に言う。 「論より証拠。今回の仕事で実際に桜の実力をその目で見るがいい」 大岡越前にそう言われては三浦も「はっ!」と返事をして引き下がるしかなかった。 それから二日後、三浦と目明かし(岡っ引き)の伝吉は夜の町を見廻っていたところ、目の前に怪しい影が一つ。 「親分。。」 「伝吉、油断するな」 暗闇の中、頭巾を被り刀を差した浪人風の男が二人の前に現れた。 「今宵の獲物見つけたり。。」 狐のようにキレ長の目が闇の中に鋭く光る。 三浦と伝吉はこの男こそ辻斬り才蔵だと直感した。 「辻斬り才蔵、見つけたぞ。大人しくお縄につけ」 伝吉の言葉に才蔵はにやりと笑う。 相手は同心をも何人も斬っている剣客である。 伝吉も三浦も十手を構えるが無意識のうちに腰が引けている。 「伝吉、奉行所に知らせろ」 「へ、へい」 才蔵は刀に手を掛けると居合い抜きの構えを取り、三浦は距離を置くために後ろに下がる。 だが、才蔵は一瞬で奉行所へ向かおうとした伝吉との距離を詰めてくる。 「逃す訳にはいかぬ」 「ひ!」 伝吉が逃げきれずに斬られると思ったその時、横から飛んできた石を才蔵が避けたため、絶体絶命の危機を免れた。 「伝吉、今のうちだ。急げ!」 「へい!」 三浦の掛け声で再び伝吉が奉行所に走るが、才蔵はそれよりも石を投げてきた人物に目をやる。 「何者だ?」 暗闇から現れる女性剣士。 「将軍家御庭番、松平桜。辻斬り才蔵。お前の悪事もここまでだ」 「女とは笑止。お前如きにわしが斬れると思うか」 辻斬り才蔵は口ではそう言いながら桜が並みの剣士でない事を即座に見抜いていた。 「三浦様、下がっていて下さい」 桜の言葉に三浦は後ろに下がって二人の戦いを固唾を飲んで見守る。 桜が居合い抜きの構えをとると才蔵も居合い抜きの構えをとった。 「どちらの抜刀が速いか勝負という訳か。面白い」 居合い抜きなら才蔵も得意とするところだ。 (さっきの岡っ引きが奉行所の役人を連れて戻るまでにこの二人を斬って逃げれば良い) そう考えていた才蔵であったが、勝負は一瞬でついた。 タン!という強力な足音と共に桜が前に出て一気に才蔵との間を詰めた。 これにはさすがの才蔵も意表を突かれた形となった。 (は、速い!) 「桜流抜刀術迅速斬(さくらりゅうばっとうじゅつしんそくざん)」 桜が最も得意とする超神速の居合い抜き。 同じく居合い抜きを得意とする辻斬り才蔵がその剣を抜く間もないまま胴を一刀両断された。 辻斬り才蔵は血飛沫と共に倒れて絶命した。 その一部始終を見ていた三浦はあまりの光景に言葉を失う。 彼の目には何が起こったのかすらわからないほど一瞬の出来事であった。 桜は血振りをし、納刀して三浦に声を掛ける。 「辻斬り才蔵は成敗しました。伝吉さんが間もなく奉行所の役人を連れて来るでしょう」 三浦は大岡越前の言った通り、実際に桜の実力を見て内心この少女に畏怖を覚えていた。 「三浦様、私は上様の元へ戻ります。後をよろしくお願いします」 桜は三浦に会釈すると夜の闇の中へ消えていった。 「お奉行の言われた通り、とてつもない実力の剣士だ。いや、そんな事より、これ俺が倒した事になるのか。。」 三浦は間もなく駆けつけるであろう奉行所の同心たちにこの状況をどう説明するか考えねばならなかった。 こうして江戸を騒がせた恐怖の辻斬りは成敗された。 翌日、大岡越前からの報告を受けた吉宗は桜に労いの言葉をかけた。 「桜。この度の活躍、見事であった。余はお前のその力を何よりも頼りにしているのだ。これからも江戸の平和と民を守ってくれ」 「私如きにありがたきお言葉。今後も微力を尽くします」 時は享保(きょうほう)。一七二四年。 八代将軍徳川吉宗の時代。 御庭番に桜が舞うが如く華麗な剣術を使う女剣士がいた。 名は松平桜。歳は十六歳。 桜は御庭番として諜報活動だけでなく、時には将軍の命により悪徳浪人や盗賊を退治する役目を申し付けられた剣士である。
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