深藍

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深藍

 眠れなかった。  でも、そんな夜は今までにもたくさんあった。取り立てて珍しいことじゃない。これも自分の人生の一部でいつかはそんなこともあったなぁって振り返る一部。ただ、それだけ。  今が何時なのかはよくわからないけど、夜なのに夏の蒸し暑さがもうそこまで迫っているような湿気を感じる。海は穏やかな顔はしているが、その黒にも近い青が砂浜という安全地帯にいる俺をいつか拐ってやろうと目論んでいるように見えた。  ふと、嫌な匂いが鼻の奥まで届いて集中力が切れたのか何かが溢れ出しそうになる。匂いを辿ると、斜め後ろで見知らぬ男が遠くを見ながら煙草を吸っている。たぶん俺よりも随分と年上でたぶん三十代くらい。長めの髪に無精髭を生やしてなんかすかしているような感じが、別に何かされたわけじゃないけど気に障った。男は俺の存在に気付いているんだかいないんだか、ずっと遠くを見ている。視線を辿ると、漁船らしき船が仕事をしていた。 「朝だな」  男はそう言ってまた煙を吐いた。その煙はため息かのようにすぐに存在は消えたけど、独特な匂いはまだそこにある。俺はその言葉に呼応するかのように空を見上げた。まだ星が薄ら自分を保って自分の場所で輝いている。まだ堪えられそうだった。  夜より朝の方が近いことは空を見上げても分からなかった。でも漁船が動いてるならまぁそうかと俺は家に帰って寝ようと思った。今日の仕事は休みにしてもらったから、もう泥のように寝ようと思う。寝ていると今いる現実とは違う世界にいるようで少しだけ休憩出来る。そしてまた明日は働いて休憩して、また働いて。  それ以上はもう望めないこの世で、とりあえず誰にも望まれていないけれど生きていく。  けど、逆に生きてと言われたら死にたくなるだろう。強制されて生きるほどの利がこの二十二年間生きていてあった試しがない。ジルに生きてなんて言葉をかけられなくてよかったと心底思った。まぁ生きてという人間は死んだりしないけど。 「朝日見て行こうよ」  家に帰ろうと男の横を通ろうとすると、その男は俺の腕を掴んで引き留めた。その手は湿気を感じる夜なのに少し冷たくて、目は合わせられなかったけれどその冷たさは俺が足を止めるのに十分印象的だった。
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