深藍

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 その男に促され海を眺めるコンクリートの上に座ってると、男はコーヒーの缶をどこからか買って来て俺に渡した。  素直に受け取った自分が少し気持ち悪いなと思ったけれど、断るのも憚られたし俺はそのまま缶の蓋を開けた。コーヒーの匂いが鼻の奥に届いて、ジルがコーヒーを淹れる姿がふわっと思い出された。芸術家はコーヒーを飲むのよ。  男は俺がそんなことを回想しているとは考えもせず、また漁船の方を見ながらコーヒーをちびちび飲んでいた。この人は漁船を見ながら何を考えているのだろうかとふと気になった。  でも、おじさんの割に小綺麗なその横顔が俺には寂しそうに見えたので、そもそも漁船なんか見てないのかもしれない。  海はまだ漆黒に近い青をしていたが、空は遠くの方でオレンジ色にじっくりじっくり居場所を譲ろうとしていた。男は何かを話す訳じゃなく俺の隣でコーヒーを啜り、コーヒーが無くなると自分のそばに缶を置いて、また煙草を吸い始めた。  通常の煙草より独特なその匂いはやっぱり慣れなくて俺は少し顔を背けたけど、居心地は悪く無かった。 この男に出会ったことで、零しそうになった涙は体の奥の方ににぐっと入り込んで、悲しみを溢さずに済んだ。俺はジルにこれ以上自分を掻き乱されたく無かった。  空は青とオレンジ色になり、海も同じような色になり、夜が朝になった。また来て欲しくもない今日が始まる。 「帰るか」  男はそう言って俺の持っていた缶を取り、その代わりにショップカードのようなものを渡してきた。青地に白文字でamanecerと書いてあるが、何と読むのかどういう意味なのかも全然分からない。 「今日の夜、そこにいるから来な。奢る」  男はそれだけ言って先に去っていった。煙草の匂いはやけにしつこく、男が去ったというのにまだそこら中で香るような気がした。
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