1 姫じゃん

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1 姫じゃん

【第一章】  中高大一貫校の高校に公立中学から進学してきた感想は、端的に言うとかなり大変だった。  高校から進学してきたのは司だけではない。学年の七クラスのうち三クラスが高入生だ。中学からエスカレーターで上がってきた内進生とは一学年だとクラスが離れていて、配慮がされている。  司が大変な思いをしたのは、経済状況に関してだ。  都内でも屈指の偏差値を誇る名門の大学附属高校。授業料はかなり高く、公立高校とはレベル違いの金がかかる。  鶴居司(つるいつかさ)はサラリーマンの父とパートタイマーの母の元で育った、ごく一般家庭の一人息子だ。  おそらく、公立高校に通えたらなら何も問題はなかったのだと思う。  だがここは名門の私立校。記念受験で受けた名門校に合格したことを両親は大いに喜び、司は勢いのままに入学させられてしまった。  司は世間知らずの中学生だった。父母が何やら喜んでいるし、何だかとても強引に勧めてくるし、まぁいいかと言われるまま進学し、その後しっかり後悔した。  周りの生徒たちは中流階級以上の家庭に生まれた子ばかりで、皆、部活と勉強と恋とあれこれとに励んでいる。  けれど司は違う。入学後に親から経済状況を把握し、バイトを始めた。  バイトと勉強の両立は大変だった。司はそれほど要領が良いわけではない。特進クラスを維持できるほどの頭脳もないし、運動神経も良くはない。コミュニケーション能力もないし、友達はいるけれど、クラスの人気者にはなれない。  入学して二ヶ月でバイトを始めた司は過酷な高校生活を覚悟したが、けれど満足もしていた。  高校はどこを歩いても綺麗で、クラスの人たちも思慮深い。別のクラスにいる内進生の人たちも高入生に興味があるのか親切だし、全体的に皆、余裕がある。  バイトと勉強の両立に慣れたらもっと生活しやすくなるはず。  公立校へ行けば良かったと後悔はしているけれど、それでも前を向いていかなければ。  それに、司にはこの高校で心の癒しとなる時間があった。  校舎の裏にはウサギ小屋の存在だ。  ウサギ小屋近くには野良猫が数匹集まってくることもある。司がお昼にやってくると可愛い猫たちが近寄ってきて、その時間が何よりも好きだった。  ――彼が訪れたのは、入学して三ヶ月程経った六月末だった。  梅雨が嘘みたいにあっという間に開けて、暑くなってきた季節。  ウサギ小屋の周辺の段差に腰掛けていつものように自分で作った海苔巻きを食べていると、突然背後から声がした。 「姫じゃん」  いつもは昼時に人なんてやって来ない。殆どの生徒たちは学内の食堂でハンバーガーやパスタを食べているのだ。  なのにそんな裏庭で人の声がした。  振り向くと、上級生のネクタイをした男子生徒が立っている。  彼は言った。 「プリンセスじゃん」 「……へ、ぷ、プリ……?」 「ウサギや猫や小鳥たちに囲まれてるとか、お前、姫かよ」  司は目を丸くしたまま辺りを確認した。確かに足元には猫がいるし、ウサギ小屋にはウサギがいるけれど、小鳥はどこにもいない。 「え、鳥? どこにいますか?」 「突っ込むとこそこなんだ」 「あの、すみません。係の人とかですか? 俺、邪魔でしたよね」 「係?」 「ウサギの……」 「なんで俺がウサギの世話なんかすんだよ。勝手に機嫌よく人参食ってろって。俺はたまたま通りかかっただけ」  男は嘲笑いながら司から少し離れた段差に腰掛ける。  彼は「お前は何してんの?」と首を傾げて言った。 「ご飯……食べてました」 「それ、昼飯?」 「はい」 「へぇ。お前はウサギ係じゃねぇの?」 「俺はウサギを見てただけです」 「んで、猫にも懐かれてるんだ」 「人懐っこい猫ですよ」 「いやぁ」  彼は半笑いで「どうだか」と言った。 「その猫どもは懐かないって有名だぞ」 「そうなんですか?」 「そうそう。心なし、小屋のウサギもお前に興味津々だし、動物に好かれる性質なのかもな」  振り返ってみると確かにウサギたちがこちら側の柵に寄っている。足元の猫三匹はそれぞれ寝転んで、昼寝を楽しんでいた。 「先輩は……先輩ですよね」 「お前一年か。俺は三年」 「なら先輩ですね。先輩は、お昼ご飯食べないんですか?」  薄っすら目を細めたその人は「お昼ご飯、持ってねぇの」と答える。  よく見ると彼の耳にはピアスが複数空いていた。髪も明るい色をしている。金に近い茶髪がとてもよく似合う整った顔立ちをした男の人だった。  校則はないので、髪を染めるのも自由だ。司は地毛の黒髪で、カラーに憧れたこともなかったけれど、その人の髪がとても綺麗で華やかなので少し羨ましくなった。 「学食は行かないんですか?」 「今日は気分じゃねぇから」  一瞬、自分と同じく節約のために弁当派を選ぶ生徒かと思ったが、いつもはあのレストランみたいな学食を利用しているらしい。  少し落胆しつつ、司は「お腹空かないんですか?」と訊ねた。 「腹減ったからコンビニ行こうと思って裏通ったら、プリンセスがいたからさ」 「あの、俺、男です」 「やっとツッコんだか」 「……コンビニ行かなくていいんですか?」 「んー」  にんまりとした笑みを浮かべて彼はこちらを観察している。足元の猫や小屋のウサギには一切の目を向けない。 「姫を放っておくのもなぁ」 「俺、姫じゃないです」 「なんか歌とか歌ってみれば? 小鳥も陽気に遊びにくるかもよ」 「歌、苦手なんですよね」 「ならしゃーないな。はは。お前、名前は?」 「鶴居司です。先輩は?」 「え? 俺?」  なぜかその瞬間笑い出した先輩は、それから、「水野って言います。水野真紀人(みずのまきと)」と含み笑いで言った。 「水野先輩……何で笑ってるんですか?」 「いや、別に。真紀人でいいよ」 「真紀人先輩」 「はい」 「そろそろコンビニ行く頃ですか?」 「いや、やめとこ。今日はプリンセス眺めとこ」 「プリンセスじゃないですよ」 「何で怒んねぇの?」  二人で話していると時間が経って予鈴が鳴り響いた。真紀人は腰を上げて、「じゃな」と去っていった。  翌日、同じようにウサギ小屋の前で海苔巻きを食べていると、また彼が現れる。 「つうか何食べてんのソレ」  いきなりやってきて、第一声が質問だったので、司は驚き咽せ込む。それを真紀人が半笑いで眺めている。落ち着いた頃に「海苔巻き……中身はないですねぇ」と答える。真紀人が「無を食ってんのか」と驚愕する。  次の日も、その次の日も真紀人はやってきた。  第一声の質問は「友達いねぇの?」「学食行かねぇの?」と日によって変化し、司も「いますよ。失礼な」「お金ないんで行けませーん」と答える。  そうしてあっという間に半年経った頃には、「今日の放課後バイト入ってる?」とより深い問いに変わっていた。  その頃には真紀人と過ごすのは昼休みだけではない。バイトのない放課後に自習室で勉強していると、内部進学で大学が決まっている余裕のある真紀人がやってきて、「店で勉強しよ」と司を連れ出す。  その頃には、中高大一貫校の学園において水野真紀人がどういった人物なのか把握できるようになっていた。  水野家はこの学校の創立に関わる一族だったのだ。祖父が理事長を勤めているらしい。水野家からは政治家も出ている由緒正しい家で、特上の上流階級の家庭の生徒だった。  水野真紀人の名を知らない生徒はいない。ここは中高大一貫の学園だ。だが司は高入生。水野真紀人がどのような存在なのか把握するのに時間を要した。
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