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ここはホテルの1階に併設されているカフェ・ハデス。俺、田中和真はここのカフェの従業員だ。
ホテルは森の中にある湖の畔に建っており、カフェからも湖が一望できる。今日も、空には抜けるような青色が広がっていた。カフェにはテラス席があり、そこへ続く大きな窓から湖面に反射した光が店内に入り込み、壁でゆらゆらと揺れている。
「今日もいい天気だなぁ」
俺は湖を見つめながら一度大きく伸びをして、テラス席の開店準備を始めた。暫くすると、店内から同僚の声がした。
「朝礼するぞ~」
俺は店内へと戻り、段取りを確認する。朝礼が終わったら、最終確認して開店。いつも通り、何も変わらない。
カラン、カラ~ン
開店と同時にドアのベルが乾いた音を響かせた。今日、初めてのお客様だ。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
30代くらいの眼鏡をかけた男性が、キョロキョロと店内を見渡しながら入店してきた。男性は少し戸惑いながらも3番のカウンター席へ座る。
俺は水の入ったグラスを男性の前に置いた。彫りが深く、少し日焼けした男性は落ち着かない様子で、カウンターの上に置いた手を握ったり開いたりしている。
「ご注文はいかがなさいますか?」
「あ、えっと……」
男性は再び店内を見渡してから口を開いた。
「メニューはないんですか?」
「あぁ、当店は初めてですか?これは失礼致しました」
俺は軽く頭を下げた後、簡単に店の説明を始める。
「当店にメニューはございません。お客様が食べたいもの、飲みたいものを何でもお申し付け下さい。どんなものでもご用意いたします」
「どんなものでも、ですか?」
「はい。あ! ただし、お客様が一度でも食べたことがあるものに限ります。食べたことがあるものでしたら、どんなものでもです。例えば、給食の揚げパン、母親が作ったお弁当……アルコールも大丈夫です」
男性が目を見開いた。
「何か食べたいものはございますか?」
再び問いかけると、男性はカウンターの上に置いた手を暫し見つめてから顔を上げた。
「がめ煮……妻が作ったがめ煮をお願いします。あと、焼酎のお湯割りも」
「がめ煮?」
俺は思わず聞き返してしまった。
「あぁ、すみません。一般的には筑前煮ですよね。私の地元ではがめ煮と言っていたので、つい……」
「いえ、こちらも不勉強で申し訳ありません。それでは、"がめ煮"と焼酎のお湯割りをお持ちします。少々お待ち下さい」
俺は軽く頭を下げ、カウンター奥の厨房へと向かう。
厨房と言っても、ここで料理をすることはない。厨房には、大小様々な大きさのオーブンレンジに似た箱型の機械が並べられているだけだ。
「ええと、筑前煮ならこれかな」
俺はある箱の前に立った。暫くすると、その箱から"ピーピー"と高い音が鳴り、前面の扉部分に"C-3"と文字が浮かび上がった。
「よしっ! 当たった!」
俺は小さくガッツポーズをして、箱の扉を開けた。
醤油と砂糖の甘じょっぱい香りを含んだ蒸気がふわりと広がる。蒸気を吸い込むと、懐かしさを感じる煮物の優しい香りが鼻腔をくすぐったのだが……
──あれ?
ちょっと違和感を感じた。思っていた煮物の香りとはどことなく違う。筑前煮を箱から取り出してよくよく見つめてみる。見た目は家庭で作った、芋が少し煮崩れした普通の筑前煮だが、やはり何かが少し違う。俺は首を傾げた。
──何だろう?
その時、隣の一回り小さい箱から高い音が鳴った。
「あ、そうだった! 焼酎!」
俺が慌てて隣の箱を開けると、梅の香りが混じった強めのアルコール臭がもわっと広がる。
「ん?」
控えめに湯気を上げる湯呑みを取り出しながら覗き込むと、大きめの梅干しが一つ、底に沈んでいるのが見えた。
「梅干し入りか。言ってなかったけど、まぁ、いいか」
俺はがめ煮と麦焼酎のお湯割りをトレイに載せ、男性の元へと運んだ。
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